第5話 少なくとも、三度つまづくまでは
作戦から、三日。
消毒液の匂いと、点滴スタンドの金属音だけがやたら耳に残る。
新堂蓮は、自販機で買った缶コーヒーを片手に、その一室の扉の前に立っていた。
(……帰ろうかな)
取っ手に伸ばしかけた手が、空中で止まる。
ガラス越しに見えるのは、ベッドに寝かされ、片腕から点滴を流し込まれている男の横顔だ。
現場ではいつも通り無愛想で、淡々と指示を飛ばしていたその人が、今は薄い病衣を着て、額に冷却パッドを貼られている。
能力を使いすぎた結果――らしい。
スロー能力の過負荷は、筋肉ではなく脳を酷使する。
蓮は、酷使させた張本人だ。
「……いや、来たんだし」
小さく息を吐き、扉をノックする。
「どうぞ」
聞き慣れた低い声が返ってきた。
蓮は、缶コーヒーを握り直してから、中に入った。
◇ ◇ ◇
「差し入れです。ブラック」
蓮は、缶を持ち上げて見せた。
「医者にカフェインを止められてる」
神崎は、あっさり言う。
「ですよね」
読めていた答えに、蓮は苦笑いするしかない。
「でもまあ、気持ちだけもらっとく。そこに置いとけ。退院したら飲む」
神崎が顎でサイドテーブルを指す。
蓮は素直に従い、缶をそっと置いた。
近くで見ると、神崎は思っていたよりやつれていた。
頬が少しこけ、目の下に影がある。
あの大型ダンジョンのあと、彼は現場から戻るなり吐いて、そのまま運び込まれたと聞いている。
その横顔に、どう切り出すか迷っていると、神崎の方から言葉が飛んできた。
「で。どうした、新堂」
「どうした、じゃないですよ」
蓮は、ぐっと頭を下げた。
「すみませんでした」
ベッドの横で、はっきり頭を下げる。
「俺がもっと上手くやれてたら、ライノさん、死ななくて済んだかもしれないし……
神崎さんだって、こんなになるまでスロー張らなくてよかったかもしれないし」
喉の奥から、言葉が勝手にこぼれていく。
「それに、俺……あのとき一回じゃなくて、三回も――」
(死んだ)とは、どうしても言えなかった。
代わりに、胃のあたりがきゅっと縮む。
神崎はしばらく黙ったまま、天井を見ていた。
やがて、ため息ともつかない息を吐く。
「……現場はいつだって、『最悪』と『少しマシ』の二択だ」
「え?」
「全員無事、被害ゼロなんて選択肢は、最初からメニューにない。
お前が前に出ようが引っ込もうが、誰かは死ぬ。
今回は、『ライノが殉職して、お前と部隊は生き残った』側に転んだ。それだけだ」
言い方は冷たい。
だが、その声に怒気はなかった。
「……割り切れるわけないじゃないです」
「割り切れとは言ってない。
ただ、全部お前のせいって結論は違うって話だ」
神崎が横目で蓮を見る。
「それを飲み込めないうちは、謝ったって自己満足だぞ」
「…………」
図星だった。
蓮は、握りしめた拳を緩める。
「……神崎さんは、割り切れてるんですか」
「どう見える」
短く返される。
確かに、と蓮は思う。
この人が本当に割り切れてるなら、わざわざ前線で頭を振り絞り続ける必要なんてない。
「ライノさんと、知り合いだったんですか」
蓮がそう聞くと、神崎のまぶたがわずかに動いた。
「……あいつは、後からの世代だ。
個人的な付き合いはほとんどない」
そこで一度言葉を切り、少しだけ視線を落とす。
「ただ――似たような背中を、昔から見続けてきた」
「昔?」
「
神崎は、天井を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「お前には、聞く権利があるかもしれない」
◇ ◇ ◇
まだ「フラクチャー」だの「ダンジョン災害」だの、言葉が揃っていなかった頃。
ニュースでは「原因不明の建物崩壊」だとか「局地的な時空の歪み」だとか、好き勝手な見出しが踊っていた。
神崎司は、そのころ交番勤務の駐在だった。
「午前三時、通報。
『ビルの中がぐちゃぐちゃだ』って、酔っぱらいかと思った」
神崎は、乾いた調子で言う。
「現場に着いたら、本当にぐちゃぐちゃだった。
エレベーターのドアを開けたら、三階のはずが知らないフロアに繋がっててな」
そこで夜勤警備員だった東条迅と、初めてまともに会話した。
「―—東条迅……? 誰ですか?」
「黙って聞いておけ」
制服姿の神崎と、警備服の東条。
当直で眠そうな目をこすりながらも、ビルの中に取り残された人間を気にして、誰より先に中に入ろうとしていた。
「止めたんですか」
「止めた。『警察を待て』って言ったら、『待ってたら誰か死ぬ』って返してきた」
「……変なやつだな、と思った」
歪んだフロア。
壁が途中で折れ曲がり、本来ないはずの階段が生えている。
今なら「ダンジョン化した建物だ」と分かる。
だが当時は、ただの悪い夢みたいな光景だった。
「俺は、そこで初めて
天井から落ちてきたコンクリート片。
咄嗟に「止まれ」と願った瞬間、世界の動きが鈍くなった。
崩れ落ちる天井の塊が、スローモーションになった。
その間に、東条が下敷きになりかけていた事務員を引きずり出した。
「東条は東条で、その時スピード能力に目覚めたんだろうな。
あいつの動きだけ、時間の外側にいた」
最初のダンジョンから生還した二人は、「異常事案対応」の名目でまとめてどこかの部署に放り込まれた。
その先は、蓮もニュースで聞いたことがある。
「最初は良かったよ。だが―—能力使用を重ねるうちに、身体に変化が出始めた」
神崎は、自分の手の甲をじっと見る。
「皮膚が硬くなったり、筋のラインが浮き出たり、瞳の色が少しだけ濁ったり。
スピード系とシールド系を酷使していた連中ほど、変化が早かった」
「それって……
「そこまでじゃない。少なくとも、初期の内はな」
元は人間だった、と一目で分かる。
だが、その輪郭が少しずつ崩れていく。
「で、
蓮の耳にも残っている単語だ。
ニュースの中で、何度も何度も流されていた。
装甲ヒーローたちを産み出したプロジェクト。
「今みたいにスーツもエミッターも洗練されてなかった頃だ。
抑制はおまけ程度。
外側から鎧を着せれば、見た目はごまかせるだろうって発想だった」
神崎は、皮肉を込めずにそう言った。
ただ事実として、淡々と。
「だから、一部の連中は、装甲を脱いだ姿がほとんど外獣と変わらなくなっていった。
それでも、役に立つうちは前線に出される」
実験動物。
廃棄予定の兵器。
そんな言葉が、現場の冗談として飛び交うようになった。
「もちろん、正式に『使い捨てる』なんて誰も言わない。
書類の上では、全員が『尊いヒーロー』だ」
神崎は、目を閉じる。
「だが、当事者は、そうは思えなかった」
◇ ◇ ◇
「あいつは、そういうのが、一番嫌いなやつだった」
「東条さんが、ですか」
「ああ」
夜勤警備員から能力者になり、装甲戦士候補になっても、東条の中身はあまり変わらなかった。
コンビニ前でたむろする高校生に声をかける時も、迷い込んだホームレスをフロアから誘導する時も、乱暴に押し出すのではなく、できるだけ話をして連れていくタイプだった。
守る側に立つこと、それ自体には迷いがない。
ただ、自分や仲間が「モノ扱い」されることだけは、心底から嫌っていた。
『誰かが人間をやめないと、人間は守れない』
深夜の待機室で、東条はそう言った。
冗談のように聞こえたが、その目は笑っていなかった。
『でも、その誰かは、最初から物として使い捨てていい存在じゃない。
選んだ上で、覚悟して、その先でようやく人間をやめるんだと思う』
神崎は、その理屈には最後まで乗り切れなかった。
それでも、東条の言いたいことは分かった。
誰かが線路の先に立って、ブレーキ代わりになるしかない状況がある。
その役を押し付けられるのではなく、自分から選び取りたい――という、妙な真面目さ。
「……で、あいつは真っ先に深層に残った」
ある作戦で、深層ダンジョンに居座る
負荷と異形化が限界を超えかけていた隊員が、何人もいた。
その中で、東条は一番に名乗りを上げた。
『ここまで来たら、どっちみち戻れない。だったら、せめて役に立つ終わり方をしたい』
その言葉が、神崎の中に今も刺さっている。
「俺は止めた。だが、東条は笑って行ったよ」
あの日から、東条迅という名前の行方は、公式記録から消えた。
殉職扱いでも、行方不明扱いでもなく、淡々と「複数人の能力者の記録喪失」とだけ。
代わりに、現場には別の名前だけが残された。
アンノウン・
◇ ◇ ◇
「もちろん、本人確認なんてされちゃいない。
外骨格の中身が誰かなんて、誰も確かめていない」
神崎は、はっきりそう言った。
「ただ、俺には見覚えがあるだけだ。動きに人間だった頃の癖が残っているように見える」
「……じゃあ、東条さんは」
「さあな」
短く切られる。
「俺には、そう見えるってだけの話だ。
お前も、今のは全部、『神崎司という人間の主観的な過去話』として受け取っておけ」
神崎は、自分の言葉に、わざと距離を置く。
事実として断定しない。
そういう立場に慣れきっている人間の口調だった。
「一つだけ、今もはっきり言えるのは」
神崎は、点滴の管を軽く持ち上げる。
「スピードとシールドを酷使すれば、人間の身体は変わる。
今の装甲ヒーローたちは、スーツとシールド・エミッターで見た目を保ってる。
……けど、その中身がどこまで人間のままか、俺にはもう言い切れない」
言い切れない、という言葉の重さが、蓮の耳に残った。
ライノの装甲の隙間から見えた、生々しさを思い出す。
ニュースのPVには映らない、「リアルなヒーロー」の姿。
その果てに、シャドウブリンガーという存在がある。
同じ線路の先に、あの黒い外骨格が立っている。
(俺も、あっち側に行くのか)
そんな想像が浮かんだ瞬間、胃がきしんだ。
◇ ◇ ◇
「……ビビってますね、完全に」
蓮は、自分で自分を笑った。
「スピード2、シールド2、アザー能力持ち。
数字だけ見たら、『期待の新星』とか言われるスペックなのに」
「数字だけ見たらな」
神崎は、あっさり肯定する。
「俺も、スローのログを見た。
内部では、お前のアザー能力を
「トリトライ……」
ゲームのリトライみたいな名前だ、と一瞬だけ思う。
だが、その実態は、「三度分の死」だ。
「現場で使えば使うほど、頭のどこかが削れていく。そんな能力だ」
神崎は、淡々と言う。
「続けたいなら、覚悟が要る。
やめたいなら、ここでやめる選択もある。
どっちを選んでも、お前の人生だ」
その言葉を正面からぶつけられて、蓮は返事に詰まった。
◇ ◇ ◇
その夜。
蓮は、自分の部屋のベッドにひっくり返って、天井を見ていた。
隣の部屋から、台所の音がする。
皿の重なる音と、換気扇の唸り。
「
ノックの音と同時に、妹の新堂灯が顔を覗かせた。
「起きてる」
蓮が起き上がると、灯は手にマグカップを持っていた。
「インスタントだけど、スープ。
なんか今日、夕飯ほとんど食べてなかったから」
「あー……ありがと」
受け取って一口飲む。
塩気が、胃に染みた。
「ニュースで見たよ。
この前の、装甲ヒーローの人が死んじゃったやつ」
灯は、遠慮なく核心に触れてくる。
「……現場にいたんでしょ」
「いた」
蓮は、嘘はつかなかった。
「危ない仕事なら、やめてほしいって言ったら、怒る?」
「怒らないけど」
即答すると、灯は少しだけ目を丸くした。
「怒らないんだ」
「俺だって、できれば安全なバイトでのんびり生きてえし」
言ってから、苦笑する。
「でも、コンビニとDPAじゃ、稼ぎの桁が違うだろ」
ヒーロー番組みたいに、「正義のため」だけで走れるわけじゃない。
食費や家賃が、普通にその上に乗ってくる。
「……わたし、兄ちゃんがヒーローになるのは、ちょっと見てみたいけどさ」
灯は、マグカップを両手で包みながら言う。
「でも、テレビの中で死ぬのは嫌」
その一言は、ライノの装甲が崩れ落ちる瞬間の光景と、真っ直ぐ繋がった。
「だから、勝手だとは思うけど。
できるだけ、長生きしてほしいです」
灯は、最後だけ敬語になって、ぺこりと頭を下げた。
「了解しました、お嬢さん」
蓮は、わざとふざけた口調で返す。
灯が、少しだけ笑った。
それでも、スープを飲み干しても、胃の重さは抜けなかった。
ベッドに横になり、スマホを掲げる。
ステータス画面のスクショが、フォルダの奥から顔を出している。
Speed2/Shield2/Other:???
その数字を見て、舞い上がっていた自分が、たしかにそこにいた。
今は、その数字が、首にかけられた首輪みたいに思える。
『お前は俺だ。―—その
シャドウブリンガーの声が、頭の中で反響する。
(……やめたい)
素直な感情が浮かぶ。
(でも、やめたところで――)
灯の学費。
家賃。
生活費。
コンビニと倉庫と期間工を掛け持ちしていた頃のしんどさが、リアルに蘇る。
(続けられる気もしないのに、やめる覚悟もないとか。マジで、一番ダサいやつじゃん、俺)
スマホの画面が、ぼやけた。
◇ ◇ ◇
そんな蓮のスマホに、通知がまとめて届いたのは、その少し後だった。
一件目は、見知らぬアドレスからのメール。
『先日の迷宮災害で娘を助けていただいた者です』
定型文みたいな書き出し。
だが、その下に、震えた文字で書かれた言葉が続く。
『ニュースでは詳しいことは分かりませんが、あの時前に立ってくれた人がいなかったら、今ここに娘はいません。
本当にありがとうございました』
蓮は、画面をスクロールしながら、息を止めていた。
二件目。
ウォール――甲斐玲央からのメッセージ。
『今回は助かったぞ。 ……次はもっと賢くやれ』
らしい、と蓮は思う。
褒めもしないし、甘やかしもしない。
それでも、「助かった」とはっきり書いてある。
三件目。
ダッシュ――佐伯光太からのスタンプ。
ヘロヘロに汗だくのキャラが、舌を出しながら走っているやつに、「次も一緒に走ろうぜ」の吹き出し。
「……お前は、ほんとお気楽だな」
思わず笑ってしまう。
最後の通知は、音声メッセージだった。
差出人は、水瀬柚希。
オーバーウォッチ。
再生ボタンを押す。
『新堂くん』
いつもより少しだけ柔らかい声が、耳元で響いた。
『現場に立つかどうかは、最終的にあなたが決めることです。
その代わり、出ると決めた人間は、全員分の命を背負う覚悟が要る』
前に言われた言葉と、ほとんど同じだ。
だが今回は、その後に一文だけ足されていた。
『……もし、もう一回だけやってみようかな、って思えたら。
その時は、ちゃんと声をかけてください。
わたしも、できるだけ少しマシな選択肢を探しておきます』
メッセージは、そこで切れた。
蓮は、スマホを胸の上に置き、目を閉じる。
(一回だけ、か)
トリトライの、三回。
今まで、ほとんど無自覚に使ってきた「やり直し」が、急に重く感じられた。
◇ ◇ ◇
翌日。
蓮は、もう一度医療室を訪ねた。
神崎は相変わらず点滴につながれていたが、昨日よりは顔色がマシに見えた。
「またブラックか」
「今日はスポドリです。学習しました」
コンビニ袋からペットボトルを取り出し、サイドテーブルに置く。
神崎が、わずかに口元を緩めた。
「で。結論は出たか」
核心だけを、一直線に聞いてくる。
蓮は、一度深呼吸してから口を開いた。
「……正直に言うと、俺には、神崎さんみたいに全部背負える自信はないです」
それは、はっきりしている。
「東条さんみたいに、人間を捨てる覚悟もない」
あの黒い外骨格の中に、自分が入る未来を想像すると、吐きそうになる。
「でも」
そこで、一度だけ言葉を区切る。
「でも、言われっぱなしで終わるのは、もっと嫌なんで」
喉が、乾いていた。
それでも、言い切る。
「――もうちょっとだけ、この仕事、続けてみますよ。
少なくとも、またつまづくまでは」
自分の能力を、自分の言葉でなぞる。
神崎は、少しだけ目を細めた。
「リトライ、か」
ぽつりと呟く。
「内部じゃ『トリトライ』なんて名前を付けて喜んでる連中もいるが。
当の本人が『リトライ』って言うなら、それでいい」
神崎は、ゆっくりと上体を起こし、蓮の方をまっすぐ見た。
「選んだのはお前だ。
だったら、次はもう少しうまく生き残れ」
説教でも激励でもない。
ただ、当たり前の前提として告げられた言葉。
「……努力します」
蓮は、ようやくそこで小さく笑えた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
都市のずっと下。
誰もログを取っていない、深層ダンジョン。
壁も床も判然としない空間の中央に、巨大な塊が蠢いていた。
目とも口ともつかない穴が、無数に開いては閉じる。
触手のようなものが、ゆっくりと周囲をなぎ払う。
その前に、黒い影が一つ。
影喰い《シャドウブリンガー》。
黒い外骨格の脚が、音もなく床を蹴る。
巨大な不定形の
その足元に群がる、小型の獣型・虫型外獣たち。
シャドウブリンガーは、巨大な敵だけを見ているようでいて、周囲の小型個体を一本も見逃さなかった。
踏み込むたびに、黒いブレードが一体、また一体と外獣を斬り裂く。
巨大な塊から伸びてきた触手を、逆に足場にして跳び、弱点らしき部分を抉る。
人間の姿からは遠く離れたシルエット。
それでも、その背中には、かつてPV越しに見た装甲ヒーローたちと同じ「誰かを守ろうとした」軌跡の名残が、微かに焼き付いているように見えた。
深層の闇の中で、シャドウブリンガーは、今日も外獣たちを狩り続ける。
人型以外の外獣を、必ず――確実に。
その背中を、いつか誰かが追いかけることになると知るのは、もう少し先の話だ。
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