第1話 俺が、トリプル適正!?

 カップ麺のスープは、もうぬるかった。


 シティ郊外のコンビニ休憩室。白い蛍光灯がやたらまぶしくて、徹夜明けの目には刺さる。

 新堂蓮は、プラスチック椅子にだらんと沈み込んだまま、割り箸を動かす気力もなくなっていた。


 壁掛けテレビでは、早朝ニュースの特集が始まっている。

 画面の隅には、お決まりのテロップ。


 『迷宮災害ダンジョン・ディザスター 昨夜も市内で発生』


 薄暗い駅ビルの出入口を、黄色い規制線が塞いでいる。

 その向こう側で、黒い装備の隊員たちが展開する様子を、空撮ドローンの映像が俯瞰している。


 鋼線のような脚を持った獣型の外獣エネミーが、フロアを縦横無尽に駆け抜ける。

 常識外れの軌道。壁を走り、天井を蹴り、カメラのフレームを平気で飛び出していく。


 ナレーションが、落ち着いた声で説明する。


 外獣エネミーは、自然界ではありえない加速と機動を見せる存在です――

 通常の銃火器では、「狙うより先に襲われる」のが最大の脅威となっています――


 そこで、とナレーションがトーンを変える。


 画面が切り替わり、プロモーションビデオじみた派手なカットが続く。

 白い装甲をまとったスピード型ヒーロー『ファルコン』。

 巨大なシールドを展開する『ライノ』。

 空中から銃撃を浴びせる『ホーク』。


 今度はさっきまでの生々しい映像じゃなく、どこかゲームのPVみたいな編集だ。

 スローモーションで外獣を切り裂く一閃。

 爆炎の向こうで、ヒーローたちがポーズを決める。


 徹夜明けの脳みそに、そのキラキラだけはやけに鮮やかに刺さる。


 同僚の青年が、カップコーヒー片手にテレビを見上げて口笛を鳴らした。


「やっぱヒーローってよ、前に出るやつが世界変えるんだよな」


 蓮は、割り箸を麺の上に置いたまま、心の中でだけ返す。


 ――前に出たやつから死ぬくせに。


 声には出さない。代わりに大きなあくびでごまかして、空になった紙コップをゴミ箱に放り込む。


 スマホの画面には、今日のシフト表のスクショ。

 コンビニ夜勤。派遣倉庫の昼。居酒屋の夕方。

 無理やり詰め込んだ三つのバイトが、カレンダーの上でぐちゃぐちゃに重なっている。


(前に出るとか、世界変えるとか、その前に寝たいんだけど)


 どこか他人事のまま、壁のテレビに映るヒーローたちの背中を眺める。

 あれは画面の向こうの世界で、こっちはバックヤードの埃っぽい床の上だ。


 店長の怒鳴り声と、レジのピンポーンと、期限切れ寸前の弁当。

 それでも、ここが今の自分の戦場だと信じ込まないと、やっていけない。


◇ ◇ ◇


 薄曇りの空が、ちょうど白み始めたころ。


 蓮は、コンビニから歩いて十五分の古いアパートに着いた。

 四階建ての三階。狭い廊下の突き当たりが、新堂兄妹の部屋だ。


 鍵を回すと、油のきれた音がして、ドアが少し引っかかった。

 それも、もう気にする気力はない。肩で押し開けると、狭いキッチン兼リビングに、味噌汁の匂いが漂ってきた。


「おかえり、蓮兄れんにい


 エプロン姿の妹――新堂灯が、コンロの前から振り向く。

 寝癖をひとつに結んだだけのポニーテール。

 まだ制服の名残がある通学用のジャケットが、椅子の背に掛けてある。


「おう……ただいま。もう起きてんのかよ」


「こっちはこれから学校とバイトなんですけど。蓮兄の帰宅時間の方がバグなんだよね」


 口調は軽いが、目の下にはうっすらクマが浮かんでいる。

 蓮は靴を脱ぎながら、ちらりとテーブルを見た。


 タブレットには家計簿アプリ。

 その横に、コンビニと居酒屋の給料明細の紙。

 さらに、電気・水道・ネット回線の請求書が、整然と並べられている。


 見慣れた光景だ。

 見慣れすぎて、胃のあたりがちくりとする。


「ほら、味噌汁と卵焼き。さっさと食べて寝て」


「……サンキュ」


 椅子に座ると、灯も向かいに腰を下ろした。

 箸を動かしながら、家計簿の数字に視線を落とす。


「今月さ、一応プラスにはなりそうなんだけどさ」


「お、やるじゃん俺ら」


「ただ、そのうち一本でもバイト飛んだら、即アウトね。アプリが真っ赤で怒ってる」


 灯がタブレットの画面を指でスライドする。

 棒グラフが、ぎりぎりのラインを行ったり来たりしている。


「だからって、これ以上バイト増やすのはマジでやめてね。今でもたぶん、普通にブラックだから」


「いや、増やすつもりはねーよ。てかこれ以上増やしたら『加速』でもしないと無理だし」


「そういうことじゃなくてさ。倒れたら元も子もないでしょ」


 灯の声は、いつもより少しだけ硬い。

 蓮は味噌汁を口に運びながら、視線をそらした。


「大丈夫だって。俺、意外とタフなんだよ」


 本当は、昨日からずっと足が重い。

 立ちっぱなしのレジと、荷物の積み下ろしで、膝が笑いっぱなしだ。


 だけど、ここで正直に言ったところで、家計簿アプリの数字が増えるわけじゃない。


 灯が、小さくため息をついて席を立つ。


「……ねえ蓮。もし、ちゃんとした仕事の募集とかあったら、受けてみてよ。資格とかいらないやつ」


「ちゃんとした仕事ってなんだよ。俺が受かるやつなら何でもちゃんとしてんだろ」


「そうやって茶化すからさ。ほんとにチャンス逃すんだよ」


 灯は言いかけて、首を振った。


「ごめん。行ってくる。戸締まりしっかりね」


「おう。気をつけてな」


 玄関のドアが閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。


 食器を流しに運んだあと、蓮はそのままテーブルの椅子に座り込んだ。

 家計簿アプリの画面が、目の前に残されている。


 収入欄と支出欄。

 来月の予測には、赤いマイナスの数字が、じわりと滲んでいた。


(……この生活のままじゃ、どっちにしろ詰みコースなんだよな)


 分かっている。

 けれど「じゃあどうする」の答えが、どこにも見当たらない。


◇ ◇ ◇


 アパートを出るときは薄曇りだった空が、駅のホームに着くころには、すっかり朝になっていた。


 始発に近い各駅停車。

 車内には、新聞を読むサラリーマンと、部活らしきジャージ姿の高校生がぱらぱらといるだけだ。


 蓮はドア横の端に立ち、スマホをいじっていた。

 次の倉庫バイトまで、少し時間がある。


 通知欄に、見慣れない名前が浮かんでいるのに気づいた。


 高校時代の同期のグループチャットだ。

 普段はほとんど覗かない。就職報告とか結婚報告とか、見たら死ぬ系の話題が多いからだ。


 それでも、タップしてしまうのは、徹夜明けで判断力が鈍っているからだろう。


『おい見たかこれ』『人生ガチャきた』『蓮、お前も応募しろや』


 メッセージと一緒に、同じURLが何度も貼られている。

 指が勝手にそれを押す。


 ブラウザが開き、カラフルなイベントページが表示された。


残響核エコー・コア体験診断フェス』


 でかでかと書かれたロゴ。

 その下には、笑顔の若者たちがポーズを決めている写真が並ぶ。


『参加無料!』『あなたの中の才能を見つけよう』

『優秀成績者には、DPAダンジョン災害対策局からスカウトのチャンスも!』


 説明文の中に、小さな文字で一文。


『安全性は確認済みの試験用コアを使用しています』


 それが、残響核エコー・コアなのだろう。

 死んだ迷宮核から、危険度だけ削り取った再利用品。ニュースで聞いたことがある。


「人生ガチャ、ねえ……」


 蓮は、つぶやいてスマホを傾ける。


 画面をスクロールすると、応募フォームまで一瞬だ。

 名前、生年月日、連絡先。

 入力欄が、空白のまま並んでいる。


 チャットに、新しい通知が飛んできた。


『蓮、妹の学費やべえんだろ? 行っとけ行っとけw』


 余計なお世話だ。

 それでも、図星を刺されているのが腹立たしい。


(どうせ当たらねえし)


 そう思う。思うのに、スクロールする親指が止まらない。


 電車が揺れ、窓の外の景色が流れていく。

 そこで一度、蓮はブラウザを閉じた。


 閉じて、すぐまた開いた。


◇ ◇ ◇


 アパートに戻ると、灯の部屋のドアの隙間から、まだ明かりが漏れていた。


 勉強か、バイトの準備か。

 いずれにせよ、「楽ではない何か」を努力しているのは間違いない。


 蓮は、靴を脱ぎ捨てて自分の部屋に倒れ込んだ。

 薄いマットレスの上で天井を見つめると、さっきのページのロゴがまぶたの裏に浮かぶ。


 残響核エコー・コア体験診断フェス。


 スマホを顔の前に持ち上げ、もう一度イベントページを開く。


 応募フォーム。

 「氏名」の欄に、カーソルが点滅している。


 新堂蓮――最初の三文字を打ち込んだところで、指が止まった。


 部屋の壁越しに、灯の物音が聞こえる。

 シャーペンが紙の上を走る、かすかな音。


 テーブルの上には、あの家計簿アプリ。

 「来月の赤字予測」という項目の赤い数字。


(前に出たやつから死ぬ)


 さっきバックヤードで思った言葉が、頭の中で反芻される。


 けれど、別の声も同時に響く。


(今のままでも、じわじわ死ぬようなもんだろ)


 三つのバイトを掛け持ちして、身体を削って。

 それでも、兄妹ふたりが細々と生きていくだけで精一杯。


 その先に何があるのかと問われても、答えはどこにもない。


 スマホの画面を握る手に、少しだけ力が入った。

 応募フォームの残りを、勢いで埋める。


「……はい、送信」


 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がひゅっと冷たくなった。


 やってしまった、という後悔と。

 もしかしたら何かが変わるかもしれない、という期待が、同時に喉の奥にひっかかる。


 通知が一つ、飛んできた。


『ご応募ありがとうございます。診断会場と日時は追ってご連絡いたします』


 定型文のくせに、その一文がやけに現実味を持って画面に浮かんでいた。


◇ ◇ ◇


 診断イベントの日は、意外と早くやってきた。


 シティ中心部。

 ガラス張りの大規模イベントホールは、朝から人の波でごった返していた。


 受付フロアに足を踏み入れると、明るすぎる照明と、ポップなBGMが一気に襲ってくる。

 壁際には、装甲ヒーロー・ファルコンとライノの等身大パネルが並び、その前で高校生くらいの男子が写真を撮っている。


(……マジでフェスって感じだな)


 蓮は、首からぶら下げられた「参加者」用のカードをいじりながら、周囲を見回した。


 スーツ姿の社会人。

 部活帰りのような学生。

 いかにも「元スポーツマン」みたいな体格の男。


 みんな、それぞれの理由でここに来ているのだろう。


 ステージ前では、DPAの広報職員らしき女性がマイクを握っていた。


「本日は、『残響核エコー・コア体験診断フェス』にご参加いただき、ありがとうございます」


 笑顔を貼り付けたまま、綺麗な発声で続ける。


「使用する残響核は、安全性が確認された試験用コアです。

 皆さんひとりひとりの中に眠る、才能を一緒に見つけていきましょう」


 拍手が起こり、スタッフが列を作るように誘導していく。


 会場の中央には、透明なカプセルに封じられた球体が鎮座していた。

 どろりとした黒と紫の光が、内部でゆっくりと脈動している。


 あれが、残響核エコー・コア


 ニュース画面越しにしか見たことがなかった「本物」が、数メートル先にある。

 体温より冷たい汗が、背中を伝った。


(安全性は確認済み、ね……)


 さっきまでBGMの一部にしか聞こえなかったフレーズが、急に耳の奥で反響する。


 列の先では、白衣姿の研究者らしき人物が、参加者ひとりひとりの手をカプセルへ導いていた。

 その横には、大型モニタが設置されている。


 画面には、棒グラフや波形が表示され、

『Speed』『Shield』『Other』の文字が英語で並んでいる。


 順番待ちのあいだに、蓮は何人かの診断の様子を眺めた。


「スピード適性、Lv0.8。前線にはギリギリ出られるかな、くらいですね」

「シールドは……Lv0.4。まあ訓練次第ですね」


 研究者は、どこか機械的な口調で淡々と告げる。

 参加者の顔には、期待と落胆が入り混じった表情が浮かんでいた。


 大半は、ニュースに出てくるようなヒーローには程遠い数字だ。


(まあ、そうだよな。そんな簡単に、チート能力なんて転がってない)


 自分の番が近づくほどに、蓮の心は逆に落ち着いてきた。


 どうせ大した数字は出ない。

 せいぜいネタにでもして、チャットにスクショを上げて終わりだ。


 そう思い込もうとしたところで、スタッフに肩を叩かれた。


「次の方、どうぞ」


 蓮は一歩前へ出る。


◇ ◇ ◇


「リラックスしてくださいね。手のひらを、こちらのパネルにそっと当てて」


 白衣の研究者は、四十代くらいの男性だった。

 眠そうな目つきの奥に、妙な熱っぽさだけがちらりと見える。


 透明カプセルの表面には、手形のようなマークが浮かび上がっている。

 そこに手を重ねると、ひんやりとした感触が掌に伝わった。


 同時に、耳鳴りがする。


 キーン、という高い音が、頭蓋骨の内側で小さく震えた。

 視界の端が、ほんの一瞬だけ白くかすむ。


「……ん?」


 思わず声が漏れる。


 その瞬間、モニタの波形が跳ね上がった。


 これまでの参加者とは、明らかに違う動き。

 棒グラフが、勢いよく上へ伸びる。


「スピード……Lv2相当……? いや、それだけじゃないな」


 研究者の声色が変わった。

 眠そうだった目に、はっきりとした焦点が戻る。


「シールドも高い。これは……両方、二系統の高レベル適性が出ていますね。

 それに、このアザー枠の揺れは……」


 アザー《Other》の欄だけ、グラフが一定ではなく、細かく震えていた。

 波形が、時間軸の上で前後にぶれ続けている。


 研究者は、慌ててタブレットを操作し、そのデータをどこかへ送信する。


 会場の端で待機していたスーツ姿の職員たちが、小さくざわめいた。

 誰かがインカムに手を当てる。


「はい……はい。ええ、トリプル適性疑い。少なくともSpeed2、Shield2の潜在値が……はい」


 聞き取れる単語だけでも、妙な言葉がいくつか混ざっている。


(トリプル……? いやいや、待て待て)


 蓮は、まだ手をカプセルに当てたまま、内心でツッコミを入れた。


 さっきまで「どうせ当たらねえ」と決めつけていたくせに、

 いざ「当たった」と言われると、現実感が追いつかない。


 手を離すと、耳鳴りはすっと消えた。


「新堂蓮さん、でしたね」


 研究者が、今度ははっきりとこちらを見た。


「あなたの結果は、スピード系・シールド系・アザー系、すべてに強い揺れが確認されています。

 現時点では『トリプル適性疑い』とだけお伝えしておきますが……非常に興味深いケースです」


「俺が……トリプル適正!?」


 なんというか、気の利いた返事が出てこない。


 会場のスピーカーから、アナウンスが流れた。


「ただいま、『トリプル適性疑い』の診断結果が確認されました。該当の方は、スタッフの指示に従ってください」


 自分のことだと理解するのに、一拍かかった。


 スーツ姿の職員が近づいてくる。


「新堂様ですね。少し、お時間よろしいでしょうか」


 細い笑顔。

 瞳だけが、笑っていない。


◇ ◇ ◇


 会場の喧騒から切り離された裏の控室は、やけに静かだった。


 白いテーブルと、向かい合うように置かれた椅子。

 壁には、DPAのロゴが入ったプレートがかかっている。


 蓮はペットボトルの水を握りしめたまま、目の前の男を見ていた。


「改めまして、ダンジョン災害対策局DPAダンジョン対策室の者です」


 名刺を差し出してきた職員は、三十代前半くらいに見える。

 穏やかな声だが、その後ろに、妙な圧がある。


「先ほどの診断、結果はご理解いただけましたか」


「トリプル……適性、とかいうやつですよね」


「ええ。スピード系、シールド系、そしてアザー系にわたって高い反応が出ています。

 残響核エコー・コアだけでは、あなたのようなケースを正確に測り切れません」


 男は、タブレットを操作して、いくつかの映像を蓮に見せた。


 一つは、さっきニュースで見たような迷宮災害現場。

 フラクチャー化した駅ビルの内部で、外獣エネミーが暴れ回る。


 もう一つは、装甲ヒーローたちが出動する公式PV。

 ファルコンが疾走し、ライノがシールドを展開し、ホークが空から援護する。


 そして、その合間に、一瞬だけ挟まる映像。


 救助中に倒れた隊員。

 ストレッチャーで運ばれる影。


 ぼかしやモザイクで、詳細は見えない。

 それでも、そこに「死」があることだけは伝わってくる。


「本物の迷宮核近傍での環境は、残響核とは比べ物になりません。

 もし、あなたが本当に高レベルのトリプル適性を持っているのなら――」


 男は、言葉を切ってから微笑んだ。


「正式なテストを行い、その力を正しく評価し、必要であれば保護しなければならない。それが、DPAの役目です」


 テーブルの上に、一枚の書類が置かれた。


 細かい字でびっしりと埋まった同意書。

 その途中に、「フラクチャー化施設を利用した試験環境」「一定の危険を伴う可能性」「万一の際の補償」の文言が並んでいる。


「これは、『追加テスト』への参加同意書です。

 場所は、DPAが管理する訓練用の廃ダンジョン。

 もちろん、安全対策は万全を期します。あなた一人を放り込むわけではありません」


 男は、あくまで穏やかな口調を崩さない。


「結果次第では、そのままDPAへの正式な採用試験への推薦も視野に入ります。

 生活面のサポートや、ご家族への補償も含めて、悪い話ではないはずです」


 悪い話ではない。


 言葉だけ聞けば、本当にそうだ。


 蓮は、書類の右下に目を落とした。


 そこには、小さな文字でこう記されている。


『DPAダンジョン対策室 減速支援隊スロー関連試験』


 減速支援隊スロー


 ニュースで耳にしたことがある。

 速すぎる外獣の時間を落とし、通常戦力が対処できる速度まで引きずり下ろす部隊。


 ヒーローたちの陰で、地味だが重要な役目を担う連中。


(スロー、ね……)


 ヒーローほど派手じゃない。

 でも、最前線で戦っていることには変わりない。


 胸の奥に、二つの感情が同時に湧き上がる。


 ひとつは、恐怖だ。

 ニュース画面でしか見たことがない「死」が、急に手の届く位置に降りてきた。


 もうひとつは、あまりにも俗っぽい期待。


 正式採用、安定収入、家族への補償。


 灯が、家計簿アプリの前で眉間に皺を寄せていた顔。

 「ちゃんとした仕事を」と言った声。


 あれが頭の中で、何度もリピートされる。


「……少し、考える時間を」


 口を開いた自分の声が、思っていたより掠れていた。


「もちろんです」


 職員は、即答した。


「ただ、残響核の診断でここまでの数値が出た方は、非常に希少です。

 もし、ここで辞退すると――それこそ、もったいないと言わざるを得ません」


 さりげなく、しかし確実にプレッシャーをかけてくる。


 蓮は、目を閉じた。


 徹夜明けのだるさが、ここにきて一気に押し寄せてくる。

 頭の中がふわふわして、考えがまとまらない。


 それでも、ひとつだけ、はっきりしていることがある。


 このまま何も変えなければ、

 コンビニのバックヤードでカップ麺をすすりながら、家計簿アプリの赤字とにらめっこする毎日が続くだけだということ。


 それを「安全」と呼べるのかどうか。


 ペンを握る指が、汗ばむ。


 同意書の署名欄。

 そこに、自分の名前を書くという行為が、どうしようもなく重い。


 けれど、ペン先は、ゆっくりと紙の上を動いた。


 ――新堂 蓮。


 書き終えた瞬間、心臓が一拍、強く脈打った。


 自分で自分の首に、綱をかけたような感覚。


 それでも、ペンを置いた指は震えていたが、もう戻す場所はない。


「……やべ」


 蓮は、かすれた声で笑った。


「なんか、とんでもないとこに足突っ込んだ気がする」


 テーブルの上で、サイン済みの同意書が静かに光を反射していた。

 その右下の、『減速支援隊スロー関連試験』という文字列だけが、じわじわと現実味を増していく。

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