第2話 目覚め
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。凍るような冷気が、肌にまとわりついている。息を吸うと、喉の奥がひりひりと痛む。
……息?
反射的に目を開ける。天井があった。灰色の石で組まれた、低い天井。ひび割れた石材の隙間から、細い筋となって冷気が流れ込んでいる。
「目ぇ覚めた?」
耳元で声がした。聞き慣れない、少し訛りのある言葉。だが不思議と、その意味はすぐにわかった。まるで、その言語でずっと暮らしてきたかのように。
視線を動かすと、薄茶色の髪を三つ編みにした少年が椅子に腰掛け、こちらを覗き込んでいた。年の頃は十歳くらいだろうか。大きな瞳に、安堵と呆れが入り混じった色が浮かんでいる。
「また机に突っ伏したまま寝てたんだぞ、ユズ。師匠が見たら怒鳴られてた」
「……ユズ?」
呼ばれた名前に、胸の奥がかすかに震えた。自分の名は名取柚葉だ。だが「ユズ」という響きは、耳に馴染むどころか、どこか懐かしささえ感じる。
「うん、ユズ。お前の名前だろ。……まだ寝ぼけてんのか?」
少年は眉をひそめ、柚葉――ユズの顔を覗き込む。
彼女は身を起こそうとして、体の違和感に気づいた。
腕が、細い。
指も、関節も、自分が知っているそれより小さい。服は厚手の粗い布で、袖口から覗く手首には、まだ成長しきっていない骨ばった線が浮かんでいる。
息が白い。吐き出すたびに、空気の中に小さな雲が生まれる。
辺りを見回すと、そこは小さな石造りの部屋だった。壁際には古びた木の棚が並び、巻物や分厚い本がぎっしりと詰まっている。部屋の中心には大きな机があり、ユズはそこで突っ伏して眠っていたらしい。机の上には、黒いインク壺、削りかけの羽ペン、乾きかけた紙片が散らばっている。
窓は小さく、高い位置にある。そこから差し込む光は、冬の夕暮れのように冷たく淡い。外から、遠く鐘の音が聞こえた。耳慣れない旋律。けれど、意味のない音ではないと、どこかで感じる。
「……ここは?」
口から漏れた言葉は、この世界の言語で紡がれていた。知っているはずのない単語が、自然と舌の上に転がる。そのことに驚く暇もなく、少年が答える。
「どこって……書記院の下書室に決まってるだろ。雪の中を走らされたせいで頭まで凍ったのか?」
書記院。下書室。
聞き覚えのない名詞たちが、妙にしっくりと耳に収まる。頭の奥で、誰かが静かに頁をめくっている気配がした。新しい世界の辞書を、ぱらぱらと開いていくような感覚。
(ここが……)
白い頁の、向こう側。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが大きく鳴った。恐怖とも興奮ともつかない、強い衝動。息が浅くなる。
「ユズ?」
少年が怪訝そうに首を傾げる。その背後で、重い扉が軋む音がした。
「何を騒いでいる。手は止めるなと言っただろう、ルカ」
低く渋い声とともに、ひとりの男が入ってきた。四十代ほどだろうか。髭を短く整え、深い紺色のローブを纏っている。袖口や襟に刺繍された銀の糸が、淡い光を反射して揺れた。
その手には、数枚の羊皮紙が挟まれている。紙の端が、ところどころ黒く焦げていた。
「師匠、ユズが……なんか、変なんです」
「ユズが変なのはいつものことだ」
男は面倒くさそうに答えながらも、ユズの方をちらりと見る。その視線が、瞬間、わずかに鋭さを増した。
「……起きたのか」
男――師匠と呼ばれた人物の目が、ユズをじっと見つめる。その瞳の色は灰色で、よく磨かれた石のように冷たい。
「頭は? めまいはするか。字はまだ読めるか」
「え……」
畳みかけるような問いに言葉を失っていると、男は一枚の羊皮紙を机の上に投げ出した。
「それを読んでみろ」
紙には、見たことのない文字が並んでいた。細く、角ばった筆致。だが、目を走らせた瞬間、意味が頭の中にすべり込んでくる。
――第二二区画、外壁上にて「空白」の侵蝕を確認。記録碑文、半分以上が消失。
そして、少し震えたような筆跡で、こう添えられていた。
――音読した者の名も、薄れていく。
胸の奥で、冷たい何かが滑り落ちる。
「空白」。侵蝕。消失。名が薄れる。
そこに書かれた事態の深刻さはわからないのに、その言葉が意味するおぞましさだけが、肌を粟立たせた。
文字が、食われている。
言葉が、消えている。
「……読めるな」
師匠の声が、わずかに安堵を含む。彼はユズから視線を外し、羊皮紙の端を指で弾いた。
「冗談のような報告だが、現物はもっと酷い。碑文どころか、石そのものが白く抜け落ちているそうだ。まるで、そこだけ世界ごと削られたみたいにな」
ユズの指先が震えた。
燃える書庫。黒く縮れていくページ。そこに残った、真っ白な灰。何も書かれていない頁。
現世で見た光景と、今聞かされている言葉が、奇妙な形で重なり合う。
「師匠、それって……また『空白』が出たってことですか」
ルカが怯えた声で問う。師匠は短く頷いた。
「ああ。知らぬふりをするには、もう大きすぎる。書き記されたものが消えるだけじゃない。このまま進めば、誰かの名も、誰かの生も、まるごと頁から抜け落ちる」
彼の視線が、再びユズに戻る。
「だからこそ、お前たち書き手見習いが必要になる。まだ白い頁に、確かにここに誰かがいたと、書き留めておく役目だ」
まだ白い頁。
その言葉が、胸に刺さった。
(今度は、私が書く側に)
暗闇の中で願った言葉が、遠くで木霊するように蘇る。
ユズ――名取柚葉は、自分の手のひらを見つめた。細く、頼りない指。その指先に、インクの小さな染みがいくつもついている。
知らない世界。知らない言葉。知らない自分の名前。
けれど、腕を伸ばせば、そこにはいつでも白い頁がある。書くことを待っている、誰かの物語がある。
「ユズ」
師匠が名前を呼んだ。その響きは、柚葉という名よりも、なぜか胸の奥深くに落ちていく。
「お前は、文字に好かれる。眠ったままでも手が動いていた。さっきも、消えかけた記録の上に、新しい文字を書き足していたと聞いた」
「……私が?」
「覚えていないのか」
ユズは首を振った。代わりに、机の上へ視線を落とす。
そこには、一枚の紙があった。
端が、かすかに焦げている。灰色にくすんだ紙の中央だけが、不自然なほど真っ白だ。だがよく見ると、その白の上に、細い線が一本、走っている。
まるで、何かを書き始めて、途中でやめたような、かすかな筆跡。
ユズの胸の奥で、熱が灯る。
燃える書庫の中で伸ばした手。抱きかかえた絵本。ページの外へ出た少年。
彼女は、震える指で、机の脇に置かれた羽ペンを握りしめた。インク壺の黒が、静かに光を吸い込んでいる。
「師匠」
自分でも驚くほどはっきりした声が、静かな部屋に落ちた。
「……書きたいです」
師匠が目を細める。その瞳には、かすかな驚きと、測るような色がよぎった。
「何をだ」
「ここに、あったはずのものを」
ユズは、真っ白な紙の中央を見つめる。
「消えた名前も、消えかけている世界も。……私が、書き留めたいです」
ルカが目を丸くする。師匠はしばらく沈黙し、それから鼻を鳴らした。
「口だけならいくらでも言える。だが、書くというのは、世界の形を引き受けるということだ」
彼は立ち上がり、棚の一番上から古びた帳面を一冊取り出した。その表紙には、擦り切れた金の文字で、こう書かれている。
――異綴録(いつづろく)。
「お前にこれを預ける。消えかけたもの、まだ誰も書いていないもの。そこにありながら、頁の外へこぼれ落ちた物語を、ここに綴れ」
帳面が、ユズの前に差し出される。指先で触れた瞬間、どこかで聞いた頁をめくる音が、微かに重なった。
ぱらり。
白い頁が、目の前に広がる。
名取柚葉としての物語は、とっくに閉じられたはずだった。
だが、ユズとしての物語は、今まさに最初の一字を待っている。
震えをこらえながら、ユズは羽ペンを白い頁の上に滑らせた。
――ユズ、と。
たった二文字の名前。その黒い線が、白い世界に静かに滲んでいく。
その瞬間、彼女はかすかに気づいていた。
これは自分の名前であり、同時に、自分がこれから書き綴る無数の物語の、最初のタイトルでもあるのだと。
外では、鐘がひとつ、澄んだ音を立てた。新しい時を告げるように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます