異綴の書庫

@seijin_777

第1話 燃える書庫と白い頁

 夕暮れの図書館は、世界でいちばん静かな劇場だと、名取柚葉は思っていた。


 窓から差し込む橙色の光が、本棚の列を斜めに横切り、舞い上がった塵を金の粒に変える。ページを繰る音、遠くで誰かが咳払いをする気配、小さな靴音。すべてが、誰かの物語の続きを待っているように、ひそやかに息を潜めている。


 彼女はカートを押しながら、背表紙に指を滑らせていく。


(913、小説、日本……これはこっちじゃない)


 慣れた手つきで本を引き抜き、別の棚へと移す。脳裏には自然と分類番号が浮かび、体は勝手に動く。二十八年の人生のうち、十年をこの図書館で過ごした。毎日、物語に触れていながら、自分の人生には特別な出来事が一つもない。


 カートの隅に、返却されたままの薄い絵本が一冊残っていた。表紙には、白い頁の上に立つ、ちいさな影が描かれている。タイトルは『ページの外へ出た少年』。


「……また、これ」


 思わず笑みが漏れる。ここ半年ほど、少女が一人、繰り返しこの絵本を借りては返していくのだ。そのたびに柚葉は、汚れや傷みがないか確かめて、背を撫でるように拭ってやる。


 ページの外へ出た少年。物語の外側へ行きたかった少年。


(うらやましいな)


 自分はいつだって、棚のこちら側から、誰かの物語を見送るだけだ。恋をする主人公も、世界を救う英雄も、王座を捨てる王子も。彼らの人生は何度だって開き直すことができるのに、自分の人生は、一度きりのまま静かに積もっていく。


「名取さん、そろそろ閉館ですよ」


 カウンターから声が飛んできて、柚葉は我に返った。


「あ、すみません。あとこの棚だけ戻したら終わります」


「地震注意報、出てるらしいから、早く帰りなさいね」


「はい。……ありがとうございます」


 あいまいに笑って頭を下げ、最後の本を棚に戻す。絵本を一番上にそっと置くと、背表紙のタイトルが、夕日の光を受けて白く浮かび上がった。


 その瞬間だった。


 地の底から何かが唸るような、低い音。次いで、棚全体がぐらりと揺れた。


「……え?」


 言葉が口から漏れるより早く、世界が震え始めた。本棚が軋み、天井の蛍光灯がぶら下がるように揺れ、積まれていた本の山が崩れ落ちる。


「地震! みんな、机の下に!」


 誰かの叫び声が聞こえた。床が波のようにうねり、柚葉はカートごと投げ出される。本が雨のように降り注ぎ、頁の音が悲鳴のように響いた。


 すぐ近くで、子どもの泣き声がした。


「……大丈夫? こっちに来て!」


 体が勝手に動いていた。カートにぶつかった膝が痛んだが、構っている暇はない。閲覧スペースに駆け寄ると、小学生くらいの子どもたちが机の脚につかまって震えているのが見えた。


「あ、あの絵本……」


 さっきまで自分が持っていた絵本を抱えた女の子が、涙で濡れた目でこちらを見上げる。


「絵本は後で探せるから。今は机の下に隠れて」


 そう言って、柚葉は子どもたちを机の下へ押し込む。揺れは少しずつ収まってきている。だが、図書館の古い建物が、軋みながら悲鳴を上げているのがわかる。


 天井のどこかで、ひときわ大きな音がした。


 嫌な予感がした。顔を上げると、閲覧フロア奥の書庫に続くガラス扉が、ゆっくりとひび割れていくのが見えた。上の階から何か重いものが落ちてきたのだろう。きしむ音が、肌を刺す。


「名取さん、こっちは大丈夫だから!」


 司書の同僚が叫ぶ声が聞こえた。しかし、柚葉の視線は、別のものに釘付けになっていた。


 書庫。あそこには古い蔵書や、修復待ちの本が詰め込まれている。紙は古く、乾いていて、燃えやすい。


 鼻をくすぐる、嫌な匂いがした。


 焦げたような、乾いた紙の匂い。


「……火?」


 ガラス扉の向こうで、小さな赤が瞬いた。その赤は、一枚の紙から別の紙へ、舐めるように移っていく。たちまち炎は本棚を這い上がり、黒い煙が天井へと広がった。


「書庫が……!」


 誰かの悲鳴と同時に、警報が鳴り響いた。スプリンクラーの水が勢いよく降り注ぎ、視界が一瞬で白い霧に変わる。だが、火は簡単には消えない。水を弾くように紙が燃え上がり、ページが黒く縮れていく。


 柚葉は知らず知らずのうちに、書庫へと駆け出していた。


「名取さん、危ない!」


 背後から掠れる声が叫ぶ。しかし、足は止まらない。ガラス扉を押し開けた瞬間、熱気が全身を打った。息を吸うだけで喉が焼ける。


 棚から棚へと火は渡り、紙の雪が炎の中を舞っている。その一片一片に、誰かの時間と、言葉と、世界が詰まっている。


(やだ、燃えないで)


 涙が滲む。熱のせいか、悔しさのせいか、もうわからない。


 目の端に、見覚えのある背表紙が映った。『ページの外へ出た少年』。さっき棚に戻したはずのその絵本が、書庫の床に落ち、炎の舌がゆっくりと近付いている。


「……!」


 体が飛び出していた。絵本に手を伸ばし、指先で触れる。


 その瞬間、天井の梁が悲鳴を上げた。


 視界の上部で、暗い影が崩れ落ちるのが見えた。時間が、紙をめくるようにゆっくりと間延びする。火花が散り、黒い破片が雨のように舞い落ちる。


(ああ)


 ここで終わるんだ、と柚葉は思った。


 救い出した子どもたち。守り切れなかった本。間に合わなかった手。自分の人生は、いつも「あと少し」のところで踏み出せずに終わる。


 本当に欲しかったものを、棚から抜き出すこともなく。


 崩れ落ちてきた何かが、背中に激しくぶつかった。骨が軋む音がして、世界が一気に暗転する。火の色も、煙の匂いも、全部が遠くへと引いていく。


 腕の中には、まだあの絵本の感触があった。濡れた表紙。角の少し丸くなった手触り。


(ページの、外側へ――)


 声にならない願いが、胸の底からふっと浮かび上がる。


 その瞬間、世界は音も光もなく、静かに、完全に、閉じた。


* * *


 暗闇は、思っていたほど冷たくない。


 体の形も、時間の流れもない場所で、柚葉はただ、漂っていた。痛みも苦しみもない。ただ、かすかな喪失感だけが、胸のあたりに穴のように空いている。


(死んだんだ、きっと)


 そう理解するまでに、どれくらいの「時間」が必要だったのか、自分でもわからない。


 どこからともなく、「ページをめくる音」が聞こえた。


 ぱらり、ぱらり。


 紙が擦れ合う心地よい音。それは図書館で何千回、何万回と聞いてきたものとよく似ているのに、どこか違っていた。もっと深く、重い。耳ではなく、骨の内側で鳴っているような音だ。


『――分類番号、二一一〇四。名取柚葉』


 声がした。


 男女の区別も、年齢もわからない。静かな、よく通る声だった。黒い暗闇の中に、一冊の巨大な本が、ゆっくりと浮かび上がる。表紙はなく、無数の頁だけが束ねられたようなその本は、柚葉の視界いっぱいに広がっていた。


 頁には、細かい文字がびっしりと並んでいる。見覚えのある文字。自分が生きてきた日々の、ありふれた出来事が、冷静な文体で書き込まれているのだと、直感でわかる。


『本日をもって、当該項目は終端』


 声は淡々と言った。


『ページの内側での生を終えました。次の索引へと進みますか』


 まるで図書館の自動音声案内のような、乾いた響き。そこに感情らしいものは、ほとんど感じられない。


「ページの……内側?」


 自分の声が、少し遅れて返ってきた。喉はないはずなのに、確かに声がある。不思議だ、と感じる余裕が、どこかに残っている。


『あなたは、ひとつの物語を読み終えました。名取柚葉という頁は、ここで閉じられます』


 巨大な本の一枚が、音もなく閉じる。そこに書かれていたであろう文字は、にじむように溶け、白い余白へと戻っていった。


 白い、何も書かれていない頁。


『次の頁へ進む権利があります。既に書かれた物語の続きに入るか、まだ何も記されていない頁を選ぶか』


 柚葉はしばらく、言葉の意味をうまく掴みかねていた。


 既に書かれた物語。まだ何も記されていない頁。


 それが何を意味するのか、ゆっくり……けれど確かに、理解していく。


「……また、誰かの物語の登場人物になるってこと?」


『はい。そう解釈しても差し支えありません』


「じゃあ、何も書かれてない頁は?」


『物語の外側へ足を踏み出すことを意味します。ただし、その頁がどのような物語になるかは、誰にもわかりません』


 白い頁が、一枚、また一枚と、目の前に差し出される。何も書かれていないのに、奇妙なことに、それぞれの頁が微妙に違って見えた。寒そうな白。少しざらついた白。深く吸い込まれそうな白。


 自分は、ずっと棚のこちら側から物語を見送るだけの人生だった。


 誰かが書いた世界の行方を、ただ見守るだけの読者。


 ページの外へ出た少年。表紙の少年の、小さな背中。あの子は、物語の外で、どんな世界を見たのだろう。


「……ページの、外側へ行けるなら」


 気がつくと、柚葉は呟いていた。


「今度は、私が、書く側になりたい」


 声は何も答えなかった。代わりに、目の前の白い頁が、一枚だけ、静かに近づいてくる。


 その白は、ほんの少しだけ、煙の匂いがした。燃え残った紙の、かすかな苦味。だがその奥には、まだ誰も知らない風の匂いが潜んでいる。


『選択を確認。未記載頁への転移を開始します』


 頁が、ぱたりと閉じた。


 その瞬間、柚葉の意識は、暗闇から、刺すような光の中へと投げ出された。


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