第3話 外壁の空白①
夢を見ていた。
水をかぶった紙束のように、重く、冷たい夢だった。棚が崩れ、本が燃え、白い灰になっていく。灰は風にさらわれ、空中で頁に変わる。無数の頁がひらひらと舞い落ちてきて、その一枚一枚に、知らない文字がびっしりと刻まれている。
誰かが、その頁の束を閉じる。
ぱたり、と音がして、世界は――
「ユズ! おいユズ、起きろって!」
頭のすぐ上で怒鳴られて、夢は紙切れみたいに破れた。
瞼を押し上げると、見慣れ始めた天井の石があった。薄暗い下書室の天井には、ひび割れた線が蜘蛛の巣のように走っている。その隙間から、細い冷気が降りてきて、頬を刺した。
「……ルカ?」
「他に誰がいるんだよ。朝だ、朝。第一限の鐘、もう鳴り終わっちまったぞ」
ルカが腰に手を当てて、呆れたように見下ろしている。三つ編みの先が揺れ、吐息が白く浮かんでは消えた。
「昨日、師匠に帳面もらったろ。『その頁を白くするんじゃないぞ』って脅されてたの忘れたのか? 初日から寝坊で真っ白とか、笑えねえからな」
「あ……」
ユズは跳ね起きた。粗い布の寝台が軋む。体は軽いのに、頭の中だけが重く、まだ少し、水の底に引きずられているような感覚が残っていた。
異綴録。
師匠から渡された、古びた帳面。消えかけた物語を綴るための白い頁。
そうだ、自分は――本当に、ここにいる。
夢の中で見ていた燃える書庫は、別の世界の最期の光景だ。そこから先の記憶は、白く塗りつぶされたみたいに曖昧だが、それでも、あの熱と煙の匂いは、まだ皮膚の裏にまとわりついている。
「顔、怖いんだけど」
ルカが眉をひそめた。
「昨日からずっと変だぞ、お前。頭どっか打った?」
「ううん……大丈夫。ちょっと、変な夢見てただけ」
「ふーん。師匠の頭が禿げる夢とか?」
笑いながら、彼は部屋の隅から抱えた布包みを放ってよこす。中身は、厚手の外套と、古びた革の手袋。
「今日は外だってさ。第二二区画の外壁。書記院の連中総出で、記録碑の調査だとよ」
「……外壁って、昨日の……?」
昨日読まされた報告書の一文が、頭の中で鮮やかに浮かび上がる。
――外壁上にて「空白」の侵蝕を確認。
そして、音読した者の名が薄れていく、という一節。
自分の名は? 名取柚葉。ユズ。二つの名前を思い浮かべてみる。どちらも、まだちゃんと自分のものだと感じられる。
「怖いなら師匠に言っとくか? 下書室の掃除係と交代してやるって」
ルカが軽い調子で言う。ユズは首を振った。
「行く。……行きたい」
自分の口から出てきた答えに、自分で少し驚く。
でも、空白と聞くと、胸の奥がざわついた。白く抜け落ちた頁。燃え尽きた紙。何も書かれていない余白。
そこに、何かを書き込むために、ここへ来たのだとしたら。
行かないわけにはいかない。
* * *
書記院の中庭は、朝の光で薄く輝いていた。
高い塔を中心に、石造りの棟が輪を描くように取り囲む。窓からは、忙しそうに行き来する書記たちの影がちらちらと見えた。中庭に植えられた木々は葉を落とし、枝に積もった雪が時折ぱさりと落ちる。
集合場所には既に十人ほどの書記が集まっていた。みな紺や深緑のローブを纏い、それぞれ腰に巻いた革帯には、筆記具や小さな巻物がぶら下がっている。師匠の姿もその中にあり、腕を組んで空を見上げていた。
「遅い」
ユズとルカに気づくなり、師匠は眉をひそめた。灰色の瞳が、短く二人をなめる。
「言い訳は?」
「ユズが寝てました!」
「ルカが起こしてくれませんでした!」
ほぼ同時に指差し合うと、周りの書記たちの間から小さな笑いが漏れた。師匠は深くため息をつく。
「……どちらも、半分ずつ正しいのだろうな」
ぼそりと呟き、それ以上は追及しなかった。代わりに、ユズの手元を見て顎をしゃくる。
「帳面は持ったか」
「はい」
胸の前で大切に抱えていた異綴録を、ユズは少し持ち上げて見せた。表紙は相変わらずくたびれているのに、手に取るたび、どこか内側からぬるりとした重みを感じる。
「今日は外壁だ。見習いには、空白がどのように世界を食うのか、はっきり目に焼き付けておいてもらう」
師匠の声が、いつもより少し低く響く。周囲の書記たちの表情も引き締まり、誰一人口を挟まない。
「だが一本道では行かん。どうせ外に出るなら、街の字も見ておけ」
そう言って、師匠は踵を返した。
* * *
書記院から街へ出ると、空気の匂いががらりと変わる。
石畳を踏みしめる足音、荷車の軋む音、呼び込みの声。人の気配が一気に押し寄せてきて、ユズは思わず肩をすくめた。
それでも、視線は自然と、建物の壁や看板へと吸い寄せられていく。
扉の上に掲げられた木札。焼きたてのパンを描いた絵、その横に「麦の羽根亭」と彫られた文字。鍛冶屋の軒先には、鉄を打つ槌と火花の絵、その下に粗い筆致で「ハンマ通り工房」と書かれている。
文字と絵が並んでいる。
言葉を知らない者でも意味がわかるように、という工夫だと、頭のどこかが理解する。だが、ユズの目は自然と、文字の方に引き寄せられてしまう。
それぞれの字が、わずかに揺れて見えるのだ。
風に、ではない。紙や木に刻まれているはずなのに、その輪郭が、細い糸で誰かに撫でられたように微かに震えている。
(……かわいい)
ふと、思った。
揺れる文字たちは、まるで、自分の存在を主張しようと震えているようにも見えた。
ここにいるよ、ここにいるよ、と。
「何にやけてんだ、お前」
隣で歩いていたルカが怪訝そうに尋ねる。
「字、見てるだけ」
「やっぱ変だって。字見て笑えるやつなんか、書記院でも師匠くらいだぞ」
「褒め言葉?」
「悪口だ」
軽口を叩き合いながらも、足は確実に街の外れへと向かっていた。家々が少しずつまばらになり、視界の先に、高い石の壁が見えてくる。
城壁。
街を包む灰色の壁は、小さな城をいくつも重ねたように頑丈そうだ。上部には歩哨が行き来する影があり、その足もとには黒ずんだ刻印がずらりと並んでいるのが見えた。
「全部、記録碑か……」
ルカがぽつりと呟く。
遠目にもわかる。外壁に刻まれた無数の文字や紋。街の歴史、戦や飢饉、英雄や王の名。ここに刻まれたものは、この街の「正史」として扱われるのだと、書記院の書物で読んだ気がする。
世界を律する文字。それを記す者たちの仕事場が、書記院。
そして、その文字が、今――
「見ればわかる」
師匠が低く言った。隊の歩みが自然と遅くなる。外壁の一部が視界に入った瞬間、ユズは息を飲んだ。
そこだけ、世界が抜け落ちていた。
壁は灰色の石で組まれている。刻まれた文字や紋様が黒く光り、雪が貼り付いて白い縁を作っている。その中の一角だけが、不自然なほど真っ白だった。
雪の白さではない。石の色の白さでもない。
何かを塗りつぶしたような、濃い白。
境目は滑らかで、指でなぞったらするりと滑りそうに見える。そこに刻まれていたはずの文字も、傷も、陰影も、すべてまるごと削ぎ落とされてしまったかのようだ。
目が吸い寄せられる。見てはいけない気がするのに、視線を外せない。
白は、静かにそこにあった。
音も匂いもなく、ただ、ひたすらに、空白。
「……これが」
誰ともなく呟いた。喉が乾く。先ほどまで街のざわめきが確かに聞こえていたのに、この場所だけ、音が遠くなったような気がした。
「これが『空白』だ」
師匠が淡々と言った。
「触るな。目に焼き付けろ。お前たちの仕事は、この白の向こう側にあったものを、別の頁に移すことだ」
白の向こう側に、あったもの。
ユズは指先を握りしめた。
そこにはきっと、何かの言葉があった。誰かの名前があった。ここで戦った兵士たちの数。守り切った夜。落とされた涙。笑い。恐怖。
それらが、跡形もなく、削がれている。
胸の奥に、ひどく懐かしい痛みが走った。
燃える書庫。黒く縮れた頁。水を吸って重くなった本。それを支えきれずに、崩れ落ちる棚。
(やだ)
心の中で、かすれた声が漏れる。
(なくならないで)
頭のどこかで、頁をめくる音がした。
ぱらり。
擬音のように軽いのに、骨の髄を震わせる音。
異綴録が、胸の前で微かに熱を帯びた。
* * *
「見習いは外縁から写せ」
師匠が指示を飛ばし、熟練の書記たちは空白の周囲に散っていく。白に飲まれていない部分の文字を紙に写し取り、図を描き、寸法を測る。
ルカは少し離れた位置に立たされ、刻まれた文字を読み上げ、隣にいる別の書記がそれを書き留めていく。まだ字の形をなぞるのに必死なのか、彼の声には余裕がない。
ユズはというと――なぜか、空白からいちばん遠い位置に立たされた。
「まだお前には早い」
師匠はそう言って、外壁に残った古い碑文の一部を指差した。
「これを写す。字形を捉えろ。意味は後だ」
そこには、百年ほど前の飢饉と、それを乗り切るために開かれた大市の記録が刻まれていた。浮き彫りになった麦の穂と、簡素な祭壇の印。整った文字列。
ユズは頷き、腰の革袋から紙と筆記具を取り出した。外套の袖から出た指が、かじかんでいる。息で少し温めてから、筆を握る。
石の亀裂、文字の深さ、線の角度。目で追い、手でなぞり、紙の上に移していく。
――眠ったままでも手が動いていた。文字に好かれる。
師匠の言葉を思い出しながら、自分の手の動きを見つめる。
確かに、ぎこちなさは少ない。筆は迷わず線を引き、曲がり角を滑らかに折れ、石に刻まれた線と紙の上の線が、自然と重なっていく。
楽しい。
そう思ってしまった自分に、ユズは少し驚く。元の世界では、ただ読む側だった。本を棚に戻し、誰かの書いた物語を手渡すだけだった。
今、手の中にあるのは、白い紙と、黒いインク。
ページは、待っている。
写し取りながらも、視線の端は、どうしても空白へと向かってしまう。
真っ白な部分は、少しずつ、広がっているように見えた。近くで作業していた書記が、声を潜めて何かを言うのが耳に入る。
「今も少しずつ進んでいるのか?」
「いや、目の錯覚だろう。……だといいが」
目の錯覚かどうか判別できないほど、白はゆっくり、じわりと、周囲の世界を浸しているように見えた。
見ていると、心の輪郭まで曖昧になっていく気がする。
ユズは思わず、胸元を押さえた。布越しに、硬い感触。
異綴録。
どうしようもない衝動が、指先からじわじわと這い上がってくる。
――白い頁に、書きたい。
ここにあったものを。
消えたものを。
書けるかどうかもわからないのに、心と手だけが、勝手に前へ進もうとする。
(勝手なことをしたら怒られる)
師匠の顔が脳裏に浮かぶ。灰色の瞳。低い声。淡々とした叱責。
それでも。
燃える書庫で、何もできなかった自分の腕の重さを思い出す。
伸ばした手が、いつも「あと少し」で届かなかった記憶。
(今度は)
ユズは、そっと周囲を見回した。
みんな、仕事に集中している。ルカは遠くで碑文に向かって目を細めていて、こちらには気づいていない。師匠は空白に一番近い位置で、白の縁に刻まれた文字の欠落を丹念に調べている。
胸元から、異綴録を引き出す。
風に晒されるのを嫌がるように、表紙が少しだけ軋んだ。指先に、微かな熱が伝わる。
「……ごめんなさい」
誰にともなく小さく呟いて、ユズは帳面を開いた。
中は、やはり、真っ白だった。
紙の白さは、外壁の空白とは違う。温度がある白。触れれば指にざらりとした感触が移りそうな、紙の白。
頁の上に、空白の光景を思い浮かべる。
あそこには、何があっただろう。
想像ではなく、直感のようなものが、胸の底から浮かんでくる。
――風が、あった。
壁の上。見張り台。尖塔。風向きを示す矢印。
ユズは、ゆっくりと筆を取った。
手が震えている。寒さのせいか、恐怖のせいか、自分でもわからない。
頁の中央に、小さく、一つの言葉を書く。
――風見鶏。
鋭い線と、丸みを帯びた曲線。羽、矢印、台座。頭の中にあるその形を、文字に託して筆を走らせる。
インクが紙に染み込む。黒い線が、白い世界の中でじわりと広がる。
その瞬間。
外壁の空白が、わずかに揺らいだ。
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