第1話 灰色の日常と無色のニード
喉が、渇いていた。
世界そのものが干上がり、色を失ったように、喉も枯れ果てていた。
エナは荒野の真ん中で立ち尽くした。
足は、もう限界を超えていた。
頭上の太陽は白く濁り、ジリジリと肌を焦がす。風が吹くたび、舞い上がった砂が頬を叩くが、痛みさえ遠い。
視界の端から端まで、赤茶けた大地と灰色の空だけが広がっている。
病に蝕まれた世界の中に、独り取り残された気分だった。
生き物の気配は、どこにもなかった。
ここは病に蝕まれた、死の世界だ。
「……まだ、歩ける」
そう言い聞かせて、一歩を踏み出す。
けれど、膝が笑い、身体が前につんのめった。
砂利の感触が顔に押し付けられる。熱い。受け身すら取れなかった。指先が震え、視界が明滅する。
それでも、エナは右腕だけは強く抱きしめていた。
ボロボロの布に包まれた、拳ほどの大きさの「白い石」。
これだけが、今のエナに残された唯一の温もりであり、誰かと繋がっていた証だった。
(……ここで、終わり?)
思考が泥のように重くなる。
焼けるような喉の渇きとは裏腹に、意識は冷たい記憶の底へと沈んでいく。
白い石の感触だけが、現実と過去を繋ぎ止めていた。
まだ「色」があった頃の、遠い故郷の風景へ。
◇
記憶の中の故郷には、まだ色が溢れていた。
風は青く澄み、木々は黄金の木漏れ日を落とし、人々の笑顔には暖かな桃色が宿っていた時代。
「待ってよ、先生!」
「こらこら、走ると危ないぞ」
幼い日のエナは、村外れの古代遺跡へと続く道を走っていた。
隣には、息を切らした親友のアリシアがいる。彼女の身体からは、新緑のような鮮やかな「緑」のオーラが溢れ出し、周囲の草花をきらきらと輝かせていた。
その日、二人は村の変わり者である老学者・ガイウス(村では「先生」と呼ばれていた)の研究についてきていた。
彼は「失われた色の起源」を探して、村の地下に眠る遺跡を掘り返していたのだ。
「あった……これだ」
崩れかけた石壁の奥、祭壇のような場所で、ガイウスが声を上げた。
彼が土の中から掘り出したのは、奇妙な物体だった。
拳ほどの大きさの、滑らかな白い石。いや、石というよりは、硬質な殻に包まれた「卵」のようにも見える。
「わあ……真っ白」
アリシアが目を輝かせて覗き込んだ。
不思議なことに、その石は周囲の色を一切反射していなかった。アリシアの緑の光が当たっても、緑色には染まらず、頑なに「白」を保っている。
「先生、これなあに? 空っぽなの?」
「ふむ。これは『原色の種』。色を受け入れる前の『器』かもしれん」
ガイウスは難しそうな顔で髭をさすった後、ふとエナを見た。
「エナ、お前が持ってみなさい」
「私?」
恐る恐る手を伸ばす。
指先が白い殻に触れた瞬間――ドクン、と小さな鼓動が伝わってきた気がした。
冷たい石のはずなのに、エナの手のひらに吸い付くように馴染む。
「……あったかい」
「ほう。わしが持った時はただの冷たい石だったがな」
ガイウスは興味深そうに頷き、優しく微笑んだ。
「どうやら、その石はお前を選んだようだ。この石は『白』だ。まだ何の色も持たない、空っぽの器だ。だが、お前は『透明』だ。お前なら、この空っぽの器に、新しい色を導いてやれる」
エナは石を両手で包み込んだ。
村のみんなが気味悪がる「無色」。けれど、この石はエナを拒絶しない。
エナは反射的に、それを胸に引き寄せた。
「いいなあ、エナ」
アリシアが少し羨ましそうに、けれど悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、その石がいつか
「うん。……ありがとう、アリシア」
アリシアの緑のオーラが、優しくエナと白い石を包み込む。
世界は優しくて、温かくて、この幸せな時間が永遠に続くと信じていた。
◇
だが、その幸福な時間は長くは続かなかった。
最初に鮮やかさが失われ、次に色が濁り、やがてくすんだ灰色へと変わっていく。
それは単なる視覚的な変化ではない。色と共に、その人の感情と記憶、そして生きるための渇望までもが、静かに削ぎ落とされていく。
だが、エナだけは違った。
体から発せられるオーラは、特定の「色」を持たない「無色(透明)」だった。
病魔が近づいても灰色に染まることがない。
それは祝福などではなく、呪いだった。
「無色の魔女」
「色が映らない、空っぽの娘」
「あいつがいるから、村の色が吸い取られるんだ」
村人たちはエナを恐れ、遠ざけた。
けれど、エナにとって最も辛かったのは、迫害そのものではなかった。
周囲の人々が、親しかった隣人が、日に日に灰色へと変わり、心のない人形のようになっていく光景。
そして何より――。
――親友のアリシアと交わした約束が、彼女の記憶から消えてしまったことだった。
「大丈夫よ、エナ。……いつか、私がこの緑で、あなたの周りの世界をずっと守ってあげる」
そう言っていたアリシアの体は、今や完全に灰色だ。
鮮やかだった緑は苔のような暗い色になり、泥のような灰色に塗りつぶされた。
彼女の瞳はエナを見ても感情を映さず、ただ機械的に、畑を耕す作業を繰り返している。
「……無色の魔女。お前さえいなければ、私にはまだ色があったのに」
その憎しみのない、純粋に論理的な言葉は、エナの心を深く抉った。
アリシアはもはやエナを嫌っているのではない。ただ、エナとの「思い出」と「感情」を失ったのだ。
ここに留まれば、自分自身も心を失うのではないか。
色はなくとも、心まで灰色になってしまえば、それは本当の死と同じだ。
エナは逃げ出した。
逃げ込んだ先は、村はずれの廃屋だった。
そこには、もう一人の理解者――ガイウスが住んでいた。
だが、扉を開けたエナが見たのは、すでに身体の半分が石のように硬化した老人の姿だった。
「……エナ、か」
ガイウスの声は、枯れ葉が擦れる音に似ていた。
彼はすでに目が見えていないようだった。それでも、気配でエナだと悟り、震える手で一本の革筒を差し出した。
「これを受け取りなさい。……ただの地図ではない。お前の進むべき道を照らす『道標』だ」
エナは泣きじゃくりながら、それを受け取った。
「先生、私、もう怖いです。アリシアが……みんなが……」
「恐れるな、エナ」
ガイウスは、見えない目で虚空を見つめ、最後の力を振り絞った。
「村の者たちは、お前を『空っぽ』だと言った。だが違う。……お前は、何色にも染まらないが、全ての色を受け入れることができる。お前は空っぽなんじゃない。世界の色を受け入れるための『透明』なんだ。世界を『上書き』するのではなく、『取り戻す』ことができるのは、お前だけなんだ」
激しい咳と共に、彼の手から力が抜けていく。
「行ってくれ、エナ。……西へ。『青』の都へ向かうんだ。そこで……『青い鳥』を探しなさい。その地図を見せれば、きっと……」
言葉は、そこで途切れた。
ガイウスの瞳から最後の一点の光が消え、冷たく硬い石に変わっていた。 それは、灰色に褪せてしまった村人たちとは違う。 命の最後の一瞬まで、想いを燃やし尽くした者だけが残せる、気高く、美しい彫像のような最期だった。
エナは一人残された。
親友は心を失い、師は命を失った。
村は灰色に沈み、誰もエナを必要としていない。
それでも。
胸の奥で、小さな火種がくすぶっていた。
『生きてくれ』
言葉にはされなかった最後の願いが、呪いのように心臓にこびりついている。
エナは涙を拭い、ガイウスの地図と、遺跡で見つけた「白い石」を背負って歩き出 した。
◇
(……嫌だ)
薄れゆく意識の中で、エナは砂を握りしめた。
過去の記憶が、今の絶望的な状況と重なる。
あの時、エナは選んだはずだ。
ただ座して死ぬのではなく、足掻いて生きることを。
この世界では、誰もが「色」を持つ。
けれど、エナには色がない。
だからこそ、誰よりも強く願う。
(生きたい)
それは願いであり、手放せば、きっと心まで灰色になる執着だった。
アリシアとの約束を果たせなかった自分。誰にも愛されなかった自分。
そんな惨めなまま、ここで終わりたくない。
ただ息をしていたい。明日の朝日を見たい。
たとえ、それが灰色の朝日だとしても。
(生きたい……!)
音にならない叫びを上げた、その時だった。
「――おーい。生きてるか?」
間の抜けた声が、頭上から降ってきた。
幻聴かと思った。
こんな最果ての荒野に、人がいるはずがない。死神だろうか。だとしたら、随分と軽薄な声だ。
「おっと、返事がない。まさか手遅れか? こいつはマズいな」
ザッ、ザッ、と砂を踏む音が近づいてくる。
目を覚ました時、エナは木陰にいた。
頭上には葉の隙間から差し込む陽光。身体には誰かの上着がかけられていた。そして、目の前には――朱色のオーラを纏った青年が座っていた。
朱色――エナは村で聞いたことがあった。欲望と偽装を象徴する色。嘘つきや詐欺師が持つ色だと、村人たちは言っていた。
だが、その青年の朱色は――不思議と、温かく見えた。
「お、起きたか」
青年は人懐っこい笑顔を浮かべた。癖のある茶色の髪に、軽薄そうな顔立ち。だが、その目には鋭い観察力が宿っていた――そして、どこか優しさも。
「水だ。ゆっくり飲め」
差し出された水筒を、エナは震える手で受け取った。水が喉を潤す――生き返るような感覚だった。
「ありがとう……ございます」
「礼には及ばんよ。困った人を助けるのは、一流冒険家の務めだからな」
青年は胸を張って言った。
「俺はリオ。名うての一流冒険家さ。見ての通り、この荒野を知り尽くしている」
エナはリオを見た。一流冒険家――だが、その服装は冒険家というよりも、街の商人のようだった。靴も旅慣れた感じではなく、むしろ新しく見えた。そして何より――。
彼の朱色のオーラが、時折不安定に揺らいでいた。まるで、何かを隠しているかのように。
その奥に、まるで
「……冒険家?」
「そうだ。数々の遺跡を探索し、秘宝を発見してきた。この荒野なんて朝飯前だ」
リオは自信満々に言ったが、エナはふと、彼が持っている地図が逆さまになっていることに気づいた。
「あの……地図、逆ですよ」
「ああ? ……ああ! これは特殊な読み方をする古代の地図でな。一般人には理解できんだろう」
リオは慌てて地図を正しい向きに直した。エナには、その動作が――どこか可愛らしく見えた。
エナは小さく笑いそうになったが、こらえた。怪しい。
それでも、背を向ける気にはなれなかった。
水筒を握る指先に、まだ体温が残っていた。
「私はエナ。旅をしてます」
「旅? 一人で?」
「はい」
「危ないな。お前、オーラが……」
リオは言葉を止めた。エナを見つめ、それから小さく頷いた。
「……ない、のか」
「はい」
エナは静かに答えた。いつもの反応を予想していた――軽蔑、恐怖、拒絶。でも、リオは違った。
「へえ。珍しいな」
それだけだった。彼はエナのオーラのなさを、まるで髪の色が違うくらいの感覚で受け止めた。
「まあ、一人旅は危険だ。どこへ向かってるんだ?」
リオの問いに、エナは革の筒――地図が入った筒――を無意識に握りしめた。
この筒に入っている古びた地図には、大陸の地形が淡々と描かれているだけで、進むべき道筋はどこにも記されていない。
けれど、ガイウスの言葉が蘇る。『青の都へ向かえ』と。
「……西の、『青の都』へ」
「青? おいおい、本気か?」
リオが呆れたように声を上げた。
「ここから西の大陸までは、砂漠と荒野が延々と続いてるんだぞ。今のその軽装じゃ、三分の一も行かないうちに干からびて死んじまうぜ」
「でも……行かなくちゃいけないんです」
「死んだら行けないだろ」
リオはもっともなことを言い、東の方角を親指で示した。
「悪いことは言わねえ。まずはここから一番近い『紅蓮の都』を目指せ。そこで装備と旅費を整えて、
エナは唇を噛んだ。
リオの言う通りだ。水もなく、ただ闇雲に歩いても目的地には着けない。
生きるためには、遠回りでも経由するしかない。
「……わかりました。紅蓮の都へ、行きます」
「賢明な判断だ」
リオは満足げに頷き、立ち上がった。
「どうだ、そこまで一緒に行かないか? 一流冒険家の護衛付きだ。悪い話じゃないだろう?」
エナは迷った。
見知らぬ人についていくのは危険だ。
でも――一人で旅を続ける自信もなかった。次に倒れた時、助けてくれる人がいるとは限らない。
「……お願いします」
「よし、決まりだ!」
リオはニカッと笑った。
◇
二人は荒野を歩き始めた。
リオは陽気に話し続けた――自分がいかに偉大な冒険家か、どれほどの秘宝を見つけたか。
「北の雪山では、氷の竜と戦ったこともあるぞ。まあ、一流冒険家の俺にかかれば、竜なんて――」
「氷の竜って、伝説上の生き物ですよね?」
エナが尋ねた。
「ああ、そうだ。だから伝説級の冒険家しか戦えないんだ。俺みたいな」
リオは得意げに言った。
エナは――もう笑いをこらえなかった。小さく、くすっと笑った。
「笑うな! 本当だぞ!」
「はい、はい」
「信じてないだろ!」
リオは拗ねたような顔をした。だが、すぐにまた笑顔に戻った。
その話は明らかに嘘だった。でも――リオの話し方は面白く、聞いていて飽きなかった。そして何より、彼はエナを笑わせようとしてくれている気がした。
歩きながら、エナはリオのオーラを観察していた。
朱色――欲望と偽装の色。確かに、彼は嘘をついている。でも、そのオーラの奥に――時折、別の色が見えた。
青? 緑? 黄色? それとも――。
まるで、虹色の光が封印されているかのように。
リオは――たくさんの色を隠している。
それは、たくさんの過去を隠しているということなのかもしれない。
「なあ、エナ」
リオが急に真面目な声で言った。
「お前、オーラがないのに――よく一人で旅できてるな」
「……怖かったです。今も怖いです」
エナは正直に答えた。
「でも、行かなきゃいけない気がして。……このまま村で死ぬよりは、何かを探して死にたいって思ったんです」
リオは少し驚いたような顔をした――それから、小さく笑った。
「お前、意外と強いんだな」
「強くなんか――」
「強いよ。俺が保証する。一流人物鑑定士として」
エナは思わず笑った。
「また新しい肩書きが……」
「俺は多才なんだ」
リオは胸を張った。だが、その目は――どこか寂しそうだった。
まるで、自分を誤魔化しているかのように。
夕暮れ時、地平線の彼方に、中継地点となる小さな村の明かりが見え始めていた。
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