夜鴉は虚空に啼く

夏目猫丸

序幕 夜もすがら

 正長元年(一四二八年)六月みなづき末、近江おうみ国湖東地方。


わか――若様――千菊丸せんぎくまる様」


 闇夜の静寂しじまを破り呼ぶ声がある。

 琵琶湖畔に面した砂浜で、ひとり夜坐やざふける黒いを呼んでいる。

 僧形そうぎょうだったが、蓬髪ほうはつは剃らずひげも伸び放題。墨染すみぞめの衣はあちこち破れ、帯のかわりに荒縄で縛っている。仏僧というよりは乞食こじきに近しい風体であった。


「――お主か。その声を聞くのも久方ぶりじゃのう、サビトよ。しかし、儂も三十路をとうに過ぎた雲水うんすいぞ。いつまでも幼名おさななでは格好がつかんわい」

「では宗純そうじゅん様――」

「なんぞ用か。別れの挨拶にでも参ったのか」


 当代一の風狂ふうきょうと呼ばれた臨済僧・一休宗純いっきゅうそうじゅんは、結跏けっか趺坐ふざのまま答えた。その目はなお半眼のままで、暗闇の中でも警戒する素振りはみえない。声の主とは既知の仲であった。

 黒衣の宗純より一層暗いかげ、声はすれども姿を見せぬ者は志能備しのびである。みやこを追われて嵯峨野さがのへと下った母・伊予方いよのかたの警護役として、おかみが手配されたのだ。その母も鬼籍に入りお役目も終えたはず。なぜ京に帰らぬのかと、そう問うたのだった。


「――これを」

 

 闇の中より、ぬうと差し出された手には書状てがみが一通。封紙の表書きには「一休殿」とあり、間違いなく宗純へ宛てたものだ。しかし、裏書に名は無い。


何処いずこより預かって参った」

「それが――この先の峠道で、行き倒れていた小坊主が携えておりました。察するに祥瑞寺しょうずいじからの使いではないかと」

「なんと。して、その使いの者は――」

「介抱し、休ませてございます。いずれ気がつくでしょう」

「そうか」


 命に別状なしと聞き一安心した宗純は、封紙を開け、切封を破り捨てて、急ぎ本紙なかみを広げた。そのいずれもが上等な紙である。

 ハテ、珍しい。

 何しろ祥瑞寺は、寺とは名ばかりの貧乏ないおりであり、御不浄ごふじょう塵紙ちりがみにも事欠く有様なのだ。

 闇の中で目をらせば、流麗な筆跡はまさしく見慣れた師の字に違いなかった。しかし、それまで半眼だった宗純の眼は見開かれ、手紙を持つその手は震えた。

 書状にはひとこと、


 『吾不欲死』


 とだけ記されていたのである。

 まさか。

 そんなことが。

 あの霊峰に刻まれた磨崖仏が如き峻厳無比しゅんげんむひな師匠・華叟宗曇かそうそうどんともあろうものが。

 吾不欲死われしをほっせず――死にとうない、だと。

 開け放った封紙からは、朝露にも似た清々しい香りがほのかに漂った。まるでこっそりと忍び寄る死の影であるかのように。


   ***


 短い言葉の中に、どこか不吉な気配が漂っている。

 生老病死しょうろうびょうしは誰もが甘受すべき四苦である――が、死ぬのが怖いとは。修行専一しゅぎょうせんいつを旨とし、弟子よりもなお自身に厳しかった華叟の言葉とは、にわかには信じ難い。

 あるいは遺偈ゆいげかとも考えた。老師も死を悟り、辞世の句を残されたのかと。だが――。

 この世に何も恐れるものなしとうそぶく風狂な宗純が、死にとうないと弱音を吐けば、そこには諧謔かいぎゃくが生まれよう。一方、師の筆運びには悲痛な想いが宿っており、切実さが窺えた。やはり、こんなは師に似つかわしくない。

 もしくは老師は身の危険を感じているのやも知れなかった。持病の腰痛は悪化するばかりで、近頃は一日中寝たきりのこともあると聞き及んでいる。床に伏した老爺の首を絞めるなど、赤子の手を捻るより容易たやすいだろう。

 だが、そこまで老僧の死を願うものが、師匠の周りにいるだろうか。禅僧に仇敵かたきなどと――都の喧騒を嫌い、五山ござん叢林そうりんの権力争いを厭う華叟宗曇が、清貧の道場として近江の地に開いたのが祥瑞庵なのである。

 憎むといえば、道場の中において憎まれ妬まれていたのは、何を隠そう宗純の方であり――宗純は事あるごとに対立していた師兄すひんの酷薄な顔を思い浮かべた。

 あの堅物かたぶつがまさか師に危害を加えるだろうか。華叟門の首座しゅそ養叟ようそう宗頤そういが自分を憎んでいるのは間違いあるまいが。

 ねたそねむは仏僧にあるまじき所業というに。

 さても風流からは程遠き御仁よな。

 養叟は若き頃より華叟門で修行を重ねた僧であり、生真面目であるが邪な人物と思うたことはない。兄弟子が思い余り「いい加減に俺に跡目を譲れ」と直訴じきそに及ぶ――などと夢想してみるが、それは笑えるが、笑えぬ戯言ざれごとに思える。

 吾不欲死。この四文字――宗純には、師から下された最期の公案こうあんに思えてならなかった。

 

参禅さんぜんせよ――と、いうことか」


 宗純は決意した。師匠に会って、その真意をじかに確かめねばならぬ。


   ***


「サビト、小坊主の面倒を頼めるか」

承知しょうち

「時にお主、何ゆえ行き倒れなんぞを拾うたのじゃ」

「主の命にて、陰ながら宗純様の身辺をうかがっておりました故」

「やれやれ――お上には、そろそろ一休めの身をご案じ召さるなと、そう伝えてくれぬか」


 かつて先師・謙翁けんおう宗為そうい身罷みまかりし時。

 世をはかなんだ宗純が、瀬田の唐橋から琵琶湖へと身を投げた際。溺れるその身を湖中より救い出したのがサビトである。

 師を亡くし落胆する我が子の身を案じて、母が密かに様子を窺わせていたのであった。以来十数年の歳月、サビトは文字通り陰に日向にと宗純の身を護っている。


拙者せっしゃの主はお方様なれば。そのお言葉は宗純様が、直にお伝えを」

「ふん。お主も融通の利かぬしのびよな。まるで四辻に立つ地蔵菩薩のようじゃ」


 石仏に例えられてもサビトは何の反応も示さなかった。普段は姿を見せず、その声を聞くこともない。ただ時折、京の喧騒の中に、深閑しんかんとした山中に、静謐せいひつな坐禅堂にと――微かにその気配だけを感じることがあった。

 朝廷に仕える志能備たちの中でも、相当な術の遣い手なのだろう。

 宗純は足についた砂を払い落し、草鞋わらじを履きながら傍らのに問うた。その顔は頭巾に隠れ、いかな表情かさえも判然としない。


「儂は堅田かただへ向かうが、お主は――ついてくるなとゆうても、ついてくるんじゃろうなぁ」

「それが主の御下命なれば」

「そういうと思ったわい。では用心の為、刀を差しておいてくれるか」

「まさか寺で、になるとお考えなのですか」

「禅僧が師と相まみえるのはの――命懸けなんじゃ。れ寺にはあやかしが巣くっておるやもしれんぞ」

 

 いぶしむ忍びに向かって、幾らか皮肉をこめつつ宗純は答えた。

 かくて宗純の独居どっきょ修行の日々は終焉を迎え、懐かしき堅田の庵へと帰還の途についたである。

 東の空は次第に白くなり、夜が明けようとしていた。

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