夜鴉は虚空に啼く
夏目猫丸
序幕 夜もすがら
正長元年(一四二八年)
「
闇夜の
琵琶湖畔に面した砂浜で、ひとり
影は
「――お主か。その声を聞くのも久方ぶりじゃのう、サビトよ。しかし、儂も三十路をとうに過ぎた
「では
「なんぞ用か。別れの挨拶にでも参ったのか」
当代一の
黒衣の宗純より一層暗い
「――これを」
闇の中より、ぬうと差し出された手には
「
「それが――この先の峠道で、行き倒れていた小坊主が携えておりました。察するに
「なんと。して、その使いの者は――」
「介抱し、休ませてございます。いずれ気がつくでしょう」
「そうか」
命に別状なしと聞き一安心した宗純は、封紙を開け、切封を破り捨てて、急ぎ
ハテ、珍しい。
何しろ祥瑞寺は、寺とは名ばかりの貧乏な
闇の中で目を
書状にはひとこと、
『吾不欲死』
とだけ記されていたのである。
まさか。
そんなことが。
あの霊峰に刻まれた磨崖仏が如き
開け放った封紙からは、朝露にも似た清々しい香りが
***
短い言葉の中に、どこか不吉な気配が漂っている。
あるいは
この世に何も恐れるものなしと
もしくは老師は身の危険を感じているのやも知れなかった。持病の腰痛は悪化するばかりで、近頃は一日中寝たきりのこともあると聞き及んでいる。床に伏した老爺の首を絞めるなど、赤子の手を捻るより
だが、そこまで老僧の死を願うものが、師匠の周りにいるだろうか。禅僧に
憎むといえば、道場の中において憎まれ妬まれていたのは、何を隠そう宗純の方であり――宗純は事あるごとに対立していた
あの
さても風流からは程遠き御仁よな。
養叟は若き頃より華叟門で修行を重ねた僧であり、生真面目であるが邪な人物と思うたことはない。兄弟子が思い余り「いい加減に俺に跡目を譲れ」と
吾不欲死。この四文字――宗純には、師から下された最期の
「
宗純は決意した。師匠に会って、その真意を
***
「サビト、小坊主の面倒を頼めるか」
「
「時にお主、何ゆえ行き倒れなんぞを拾うたのじゃ」
「主の命にて、陰ながら宗純様の身辺を
「やれやれ――お上には、そろそろ一休めの身をご案じ召さるなと、そう伝えてくれぬか」
かつて先師・
世を
師を亡くし落胆する我が子の身を案じて、母が密かに様子を窺わせていたのであった。以来十数年の歳月、サビトは文字通り陰に日向にと宗純の身を護っている。
「
「ふん。お主も融通の利かぬ
石仏に例えられてもサビトは何の反応も示さなかった。普段は姿を見せず、その声を聞くこともない。ただ時折、京の喧騒の中に、
朝廷に仕える志能備たちの中でも、相当な術の遣い手なのだろう。
宗純は足についた砂を払い落し、
「儂は
「それが主の御下命なれば」
「そういうと思ったわい。では用心の為、刀を差しておいてくれるか」
「まさか寺で、そのような事態になるとお考えなのですか」
「禅僧が師と相まみえるのはの――命懸けなんじゃ。
かくて宗純の
東の空は次第に白くなり、夜が明けようとしていた。
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夜鴉は虚空に啼く 夏目猫丸 @nekowillow
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