第7話「色のない世界」

 アッシュが去ってからの森は、まるで死んでしまったかのように静かだった。

 鳥のさえずりも、風の音も、フィンの耳には届かない。

 朝起きても、二人分の朝食を用意しようとして手が止まる。

 薪を割ろうとして、重い斧を持ち上げられずに立ち尽くす。

 生活の至る所に「アッシュ」の痕跡が残っていた。


『愛している』


 最後の言葉が、呪いのようにフィンの心を縛り付ける。

 期待してはいけない。

 彼は王子で、自分は森の薬師。

 住む世界が違う。

 オメガバースという運命の番の伝説など、所詮はおとぎ話なんだ。

 フィンは薬草園の手入れに没頭することで、思考を麻痺させようとした。


 そんなある日、麓の村の少年が、父親に背負われて小屋へやってきた。


「フィン先生! 助けてくれ! 息子が、高熱で……」


 少年は高熱にうなされ、首筋には奇妙な赤い斑点が浮かんでいた。

 最近、国境付近で流行り始めている奇病だ。

 特効薬はなく、多くの子供が命を落としているという。


 フィンは直ちに治療に取り掛かった。

 解熱剤を飲ませ、体を冷やす。

 だが、熱は下がらない。

 手持ちの薬草では限界があった。


『何か……何か強力な解毒作用のある薬草があれば』


 フィンは薬棚を必死に漁った。

 その時、棚の奥から小さな革袋が転がり落ちた。

 それは、アッシュがまだ記憶を失っていた頃、「お守りだ」と言ってフィンに渡した袋だった。

 自分が着ていたボロボロの服のポケットに入っていたものだという。


 フィンは震える手で袋を開けた。

 中から出てきたのは、乾燥した紫色の花弁。

 一見するとただの枯れ草だが、フィンには分かった。

 薬師としての知識が、それが伝説の薬草「王家の紫苑」であることを告げていた。

 ヴァレンティス王家の庭園にしか自生せず、万病に効くとされる幻の薬草。


「これなら……!」


 フィンは迷わず花弁をすり潰し、煎じ薬を作った。

 少年に飲ませると、数時間後には嘘のように熱が引き、斑点も消えていった。


「ありがとう! ありがとう、フィン先生!」


 父親は涙を流して感謝した。

 少年が助かった安堵と共に、フィンの胸に一つの決意が宿った。

 この薬草を持っていたということは、アッシュは無意識のうちに、これを自分に託していたのではないか。

 そして、この病が国中で流行っているのなら、アッシュの国でも多くの人が苦しんでいるはずだ。


『会いたい』


 その想いが、理性を凌駕した。

 ただ待っているだけではダメだ。

 彼が迎えに来られないのなら、自分が会いに行けばいい。

 薬師として、この知識と技術を持って、彼の役に立ちたい。

 フィンは旅支度を始めた。

 もう、泣いているだけの時間は終わりだ。

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