第6話「引き裂かれた二人」

「殿下、直ちに出発の準備を。国では公爵派が不穏な動きを見せております」


 ゼノンの言葉は、アシュレイにとって冷や水のように現実を突きつけるものだった。

 記憶の奔流にめまいを覚えながらも、アシュレイは瞬時に状況を把握していた。

 自分は王子であり、国と民に対する義務がある。

 あの襲撃、政略結婚、そして逃亡。

 すべての記憶が鮮明に蘇るにつれ、この数ヶ月間の森での生活が、まるで幻のように思えてくる。

 だが、幻ではない。

 この胸の痛みと、目の前で立ち尽くすフィンの存在が、それが真実であることを叫んでいた。


「……少し、時間をくれ」


 アシュレイは騎士たちを手で制し、フィンの方へと歩み寄った。

 フィンは青ざめた顔で、一歩後ずさる。

 その拒絶にも似た動作が、アシュレイの心をえぐった。


「フィン」


「……来ないでください、殿下」


 フィンの声は震えていた。

「殿下」という呼び名が、これほどまでに残酷に響くとは。


「俺は、アッシュだ。君の知っているアッシュだ」


「違います。あなたは、雲の上の人でした。私が触れていい相手じゃなかった」


 フィンは必死に涙をこらえていた。

 ここで泣きついてしまえば、彼の迷惑になる。

 彼は王子なのだ。国へ帰り、王となるべき人なのだ。

 一介の薬師が引き止めていい相手ではない。


 アシュレイはフィンの肩を掴もうと手を伸ばしたが、空中で止めた。

 今、彼に触れれば、もう二度と離せなくなる。

 そして、今の自分には、彼を連れて行く力がない。

 公爵家の陰謀が渦巻く王宮にフィンを連れて行けば、彼を危険に晒すことになる。


「……必ず、迎えに来る」


 アシュレイは絞り出すように言った。


「国を正し、俺が俺の意志ですべてを決められるようになったら、必ず君を迎えに来る。だから……」


「嘘です」


 フィンは首を横に振った。


「あなたはご結婚されるのでしょう? 婚約者様がいると、騎士の方が……」


「あれは……!」


「行ってください。お願いします」


 フィンは背を向けた。

 これ以上、彼の顔を見ていられない。

 希望を持たせるような言葉など、残酷なだけだ。


「殿下、お時間を」


 ゼノンが焦れたように声をかける。

 アシュレイは奥歯を噛み締め、背を向けたフィンの背中を見つめた。

 抱きしめたい。

 連れ去りたい。

 だが、今の無力な自分には、彼を守りきれない。


「……待っていてくれ。愛している」


 その言葉を残し、アシュレイは馬上の人となった。

 号令と共に、騎士団が動き出す。

 遠ざかる蹄の音。

 フィンはその場に崩れ落ち、泥にまみれて慟哭した。

 森は再び静寂を取り戻したが、そこにはもう、かつての温かな光はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る