第5話「崩落の予兆」

 幸せの絶頂は、残酷なほど唐突に終わりを迎える。

 その日、フィンとアッシュは、町へ薬を売りに行くために森の入り口まで来ていた。

 普段はフィン一人で行くのだが、アッシュが「重い荷物を持たせられない」と同行を申し出たのだ。


 街道に出たところで、地響きのような音が聞こえてきた。

 蹄の音だ。

 それも、一頭や二頭ではない。

 整然とした軍馬の行進音が、急速に近づいてくる。


「……軍隊?」


 アッシュが怪訝な顔で街道の先を睨んだ。

 やがて姿を現したのは、豪奢な鎧を身にまとった騎士団だった。

 掲げられた旗には、双頭の鷲の紋章。

 隣国ヴァレンティスの国章だ。


 フィンは本能的に恐怖を感じ、アッシュの袖を掴んだ。

 隠れなければ。

 そう思ったが、遅かった。

 先頭を行く騎士が、二人――いや、アッシュの姿を認め、目を見開いたのだ。


「全隊、止まれ!」


 騎士が大声で号令をかけると、一糸乱れぬ動きで馬列が停止した。

 先頭の騎士が馬から飛び降り、土埃を上げてアッシュの元へ駆け寄ってくる。

 そして、その場に膝をつき、深く頭を垂れた。


「捜しました……! ずっと、お捜ししておりました!」


 騎士の声は震えていた。

 アッシュは呆然と立ち尽くし、困惑したようにフィンを振り返る。


「人違いではないか? 俺は……」


「いいえ! その赤髪、その威容……見間違えるはずもございません!」


 騎士は顔を上げ、涙ながらに叫んだ。


「アシュレイ殿下! ヴァレンティス王国第一王子、アシュレイ・ヴァレンティス様! どうか、王宮へお戻りください!」


 ――殿下。王子。

 その言葉が、フィンの頭の中で反響した。

 世界が音を立てて崩れていくような感覚。

 隣にいるアッシュが、突然遥か遠い存在になったように感じられた。


 その時だった。

 アッシュが苦悶の声を上げ、頭を押さえて膝をついた。


「ぐ……あ、あああ!」


「アッシュ!」


 フィンが駆け寄ろうとするが、騎士たちが「殿下に触れるな!」と剣の柄に手をかけ、制止する。

 アッシュのうめき声が続く。

 まるで、封印されていた記憶が、強引にこじ開けられるかのような痛み。


「思い……出した……」


 アッシュの呼吸が荒くなる。

 瞳の色が変わっていく。

 森でフィンに向けていた穏やかな光が消え、代わりに、統治者としての鋭く冷徹な光が宿っていく。

 そして、彼はゆっくりと顔を上げた。

 そこにいたのは、フィンの愛した「アッシュ」ではなく、騎士団を統べる「アシュレイ王子」だった。


「……ゼノン、か」


 低く、威厳に満ちた声。

 騎士団長ゼノンは感極まったように頷く。


「はっ! ご記憶が戻られましたか!」


「状況は理解した。……随分と長く、夢を見ていたようだ」


 アッシュ――アシュレイは立ち上がり、フィンへと視線を向けた。

 その瞳に浮かんだ複雑な感情を、フィンは読み取ることができなかった。

 ただ一つ分かったのは、二人の間にあった「壁」が、今や天まで届くほど高く、分厚いものになってしまったという事実だけだった。

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