第3話「森での暮らし」
アッシュの回復力は驚異的だった。
数日もすれば起き上がれるようになり、一週間後には杖をついて歩けるようになった。
傷が癒えるにつれ、彼の身体能力の高さが明らかになっていく。
フィンが水を汲もうと桶を持てば、いつの間にかアッシュがそれを奪い取り、軽々と運んでしまう。
「アッシュ、まだ無理をしてはダメですよ」
「これくらい何でもない。俺を助けてくれた礼がしたいんだ」
アッシュはそう言って、爽やかに笑うのだった。
記憶こそ戻らないものの、彼は働き者で、そして驚くほど器用だった。
薪割り、家の修繕、フィンが苦手な重い荷物の運搬まで、アッシュは率先してこなした。
ある晴れた日の午後。
フィンは庭で薬草の選別をしていた。
アッシュは少し離れた場所で、壊れかけていた柵を直している。
クワを振るうその姿は堂々としていて、農作業というよりは、まるで剣舞を見ているかのような洗練された動きだった。
『彼は、きっと高貴な生まれの人なんだろうな』
フィンは手元の作業を続けながら、ぼんやりと考えた。
言葉遣いの端々に感じる気品。
食事の時の洗練された所作。
そして、時折見せる鋭い眼光。
彼はただの村人や旅人ではない。
いつか記憶が戻れば、彼はこの森を出て、本来いるべき場所へ帰ってしまうだろう。
胸の奥がちくりと痛んだ。
孤独だった生活に、アッシュという色彩が加わってしまった今、彼がいなくなることを想像するだけで、フィンは息苦しさを覚えた。
「フィン、どうした? 手が止まっているぞ」
いつの間にか、アッシュが目の前に立っていた。
汗を拭いながら、屈託のない笑顔を向けてくる。
「い、いえ。なんでもありません」
「そうか? 疲れたなら休もう。お茶でも淹れるよ」
「アッシュがお茶を? 淹れ方を教えましたっけ?」
「見よう見まねだがな。フィンの真似をすれば、きっと美味しくなる」
アッシュは悪戯っぽく片目をつぶる。
そんな子供のような無邪気さと、アルファ特有の頼もしさが同居している。
フィンは、自分の中で膨らんでいく感情に気づかないふりをした。
***
その日の夕食は、森で採れたキノコと野菜のシチューだった。
質素な食事だが、二人で囲む食卓は、どんな豪華な晩餐よりも豊かに感じられた。
「美味い。フィンの料理は、どんな宮廷料理よりも美味い気がする」
アッシュが心からの賛辞を口にする。
「宮廷料理なんて、食べたことあるんですか?」
フィンが冗談めかして聞くと、アッシュはスプーンを止めて考え込んだ。
「……分からない。でも、舌が覚えている感覚と比べて、君の料理の方が心が満たされるんだ」
真っ直ぐな瞳で言われ、フィンは顔が熱くなるのを感じた。
アッシュは嘘をつかない。
感じたことを、そのまま言葉にする。
それが、どれほどフィンの心を揺さぶるか、彼は知っているのだろうか。
食後、二人は暖炉の前で並んで座った。
アッシュがフィンの傷んだ手を取り、そっと指先で撫でる。
薬草を刻み、土をいじる薬師の手。
洗練とは程遠い、働き者の手だ。
「綺麗な手だ」
「……ガサガサですよ」
「いや、誰かを救うための手だ。俺はこの手が好きだ」
アッシュがフィンの手の甲に口づけを落とす。
心臓が跳ねた。
アルファの熱が、肌を通して伝わってくる。
抗いがたい引力。
フィンは手を引っ込めることができなかった。
むしろ、もっと触れていたいと願う自分がいた。
静寂な森の小屋で、二人の距離は、言葉よりも雄弁な沈黙の中で、確実に縮まっていた。
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