第2話「空白の記憶」
闇の中にいた。
深く、冷たい泥の底のような場所。
痛みさえも遠く、感覚が麻痺している。
このまま沈んでいけば楽になれるかもしれない。
そう思った瞬間、どこからか温かな光が差し込んだ。
誰かの声がする。
柔らかく、優しい声。
そして、鼻孔をくすぐる清涼な香り。
薬草と、雨上がりの土と、そして甘い花の蜜のような匂い。
「……う……」
男は重い瞼を持ち上げた。
ぼやけた視界が徐々に焦点を結んでいく。
見慣れない木の天井。
鼻を突く薬草の香り。
そして、心配そうにこちらを覗き込む、透き通るような榛色の瞳。
「気がつきましたか?」
その声は、闇の中で聞いたものと同じだった。
男は体を起こそうとしたが、激痛が走り、再び枕に沈み込んだ。
「無理をしてはいけません。傷が開いてしまいます」
青年が慌てて男の肩を支える。
その手は小さく、少しひんやりとしていて心地よかった。
男は荒い息を整えながら、周囲を見回した。
質素だが、手入れの行き届いた小屋だ。
そして目の前には、栗色の髪をした華奢な青年がいる。
「ここは……」
「森の奥の、僕の家です。あなたは倒れていたんですよ」
男は自分の額に手を当てた。
頭が割れるように痛い。
自分がなぜここにいるのか。なぜ怪我をしているのか。
それどころか、自分が誰なのかさえ、霧がかかったように思い出せない。
「俺は……」
言葉に詰まる。
名前が出てこない。
過去の記憶が、黒く塗りつぶされたように欠落している。
恐怖がこみ上げ、男の呼吸が乱れた。
「思い出せませんか?」
青年の静かな問いかけに、男は無言で頷いた。
青年は悲しげに眉を寄せ、しかしすぐに温かい微笑みを浮かべた。
「無理に思い出そうとしなくていいんです。今は、体を治すことだけを考えてください」
その言葉に、張り詰めていた糸が緩むのを感じた。
青年はスープの入った椀を差し出した。
湯気と共に、食欲をそそる香りが漂う。
「これを。体力がつきますから」
スプーンで口に運ばれたスープは、滋味深く、冷え切った体に染み渡るようだった。
一口、また一口と飲み込むたびに、生きる力が湧いてくる。
飲み干した頃には、男の顔にも少し赤みが差していた。
「ありがとう。……君の名前は?」
「フィンです。薬師をしています」
「フィン……」
男は口の中でその名を転がした。
不思議と馴染む響きだった。
「あなたの名前は……分からないんですよね」
フィンは少し困ったように首をかしげ、それから男の髪に視線を向けた。
「その髪、燃え残った灰(アッシュ)の中で輝く残り火のように綺麗です。……アッシュ、というのはどうでしょう?」
「アッシュ……」
悪くない。
むしろ、空っぽになった自分に、新しい命が吹き込まれたような気がした。
男――アッシュは、フィンの瞳を見つめ返した。
そこには、打算も警戒心もない、ただ純粋な善意だけがあった。
「ああ、いい名前だ。ありがとう、フィン」
アッシュが微笑むと、フィンは少し照れくさそうに頬を染めた。
窓の外では、雨上がりの森に、小鳥たちのさえずりが響き始めていた。
何もかもを失ったアッシュにとって、この小さな小屋とフィンの存在だけが、世界のすべてになった瞬間だった。
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