森で助けた記憶喪失の青年は、実は敵国の王子様だった!? 身分に引き裂かれた運命の番が、王宮の陰謀を乗り越え再会するまで

藤宮かすみ

第1話「雨音と森の静寂」

 激しい雨が、森の木々を打ち据えていた。

 雷鳴が轟くたび、うっそうと茂る木々の影が、一瞬だけ白く浮かび上がる。

 フィンは濡れた前髪を払い、籠を背負い直した。

 貴重な光苔は、こうした嵐の日にしか採取できない。

 ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながら、フィンは慣れた足取りで獣道を進んでいく。


『……ひどい天気だ。早く帰って、暖炉に火を入れないと』


 フィンは小さく身震いをした。

 古びた外套の下まで、冷たい雨が染み込んできている。

 森の奥深く、人との関わりを避けるように建てた小さな小屋。そこがフィンの世界のすべてだった。

 オメガという性を持って生まれた自分にとって、この静寂だけが唯一の安らぎだったのだ。


 その時だった。

 雨音に混じって、何かが折れるような音が聞こえたのは。

 動物だろうか。それとも、落雷で木が倒れたのか。

 フィンは足を止め、耳を澄ませた。

 微かだが、生臭い匂いが漂ってくる。それは雨の匂いでも、土の匂いでもない。

 鉄錆のような、血の匂い。


 フィンは恐る恐る、匂いのする方へと茂みをかき分けた。

 巨大な古木の根元に、それはあった。

 いや、いた。

 泥と血にまみれ、ぐったりと横たわる男の姿が。


「……っ!」


 フィンは息を呑み、駆け寄った。

 男は豪奢だがボロボロに引き裂かれた服を身にまとっていた。

 質の良い布地は泥に汚れ、その下からは痛々しい裂傷が覗いている。

 そして何より目を引いたのは、泥に塗れてなお鮮烈な、燃えるような赤髪だった。


「しっかりしてください! 聞こえますか?」


 フィンは男の肩を揺さぶった。

 反応はない。

 男の体は冷え切っていたが、首筋に触れると、弱々しいながらも脈打つ鼓動が指先に伝わってきた。

 生きている。


『放っておけない』


 フィンはとっさに判断した。

 男の体格は自分より一回り以上大きく、筋肉質で重かった。

 それでも、ここで見捨てれば彼は確実に死ぬだろう。

 薬師としての使命感が、フィンの細い腕に力を込めた。


「……くっ」


 泥に足を取られながら、フィンは男の体を引きずるようにして歩き出した。

 小屋まではそう遠くない。

 男の重みと降りしきる雨の冷たさ。

 だが、フィンの胸中には不思議な熱が宿っていた。

 この出会いが、静止していた自分の運命を大きく動かすことになるなど、知る由もなかった。


 ***


 小屋に運び込み、男をベッドに寝かせた頃には、雨足は幾分か弱まっていた。

 フィンは暖炉に薪をくべ、手早く湯を沸かした。

 薬草の瓶が並ぶ棚から、傷薬と解熱作用のある乾草を取り出す。


 男の服を脱がせると、鍛え上げられた肉体が露わになった。

 その逞しさに、フィンは思わず目を伏せそうになる。

 彼はアルファだ。

 意識を失っていても、肌から漂う特有のフェロモンが、フィンの本能を微かに刺激する。

 だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


「……ひどい傷」


 背中には刀傷のような深い裂傷があった。

 誰かに襲われたのだろうか。

 フィンは丁寧に傷口を洗い、すり潰した薬草を塗り込んでいく。

 男が苦痛に顔を歪め、うめき声を上げた。


「大丈夫ですよ……すぐに楽になりますから」


 子供をあやすように優しく声をかけながら、フィンは包帯を巻いた。

 手当てを終え、濡れたタオルで男の顔を拭うと、整った顔立ちが現れた。

 意志の強そうな眉、通った鼻筋。

 今は蒼白だが、血色が戻ればさぞ美しい男だろう。


 フィンは椅子に腰掛け、男の寝顔を見つめた。

 暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが、室内に響く。

 いつもの孤独な夜とは違う。

 他人の呼吸音がすぐそばにあるという奇妙な感覚。

 それは、フィンにとって不安でもあり、同時に、ほんのりと温かい灯火のようでもあった。

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