第10話「後悔の足音」
アリアンヌからの手紙に対するクロードの返信は、無慈悲なほど簡潔だった。
『リリアはヴァルハイト公爵領の人間である。彼女の意思に反して、王都へ帰すことはない』
事実上の最後通牒とも言えるその手紙を受け取ったアランとアリアンヌは、言葉を失った。
「ヴァルハイトの人間、だと……? クロードのやつ、何を考えているんだ!」
アランは執務室の机を拳で叩いた。
リリアがただの侍女ではなく、クロードにとって特別な存在になっている。
その事実を嫌でも認めざるを得なかった。
「あの女……! クロード様をだまして、まんまと公爵様の庇護下に入ったというの!? なんて計算高い、卑しい女!」
アリアンヌは扇子を握りしめ、わなわなと震えた。
彼女の頭の中では、リリアは今でも無能で地味な侍女のままだった。
そのリリアが、自分よりも遥かに格上のクロード公爵に気に入られている。
その事実が、彼女のプライドを酷く傷つけた。
彼らは、リリアを取り戻すための次なる手を考えた。
アランは王太子の権限で、クロードにリリアの返還を命じる勅命を出そうとした。
しかし、重臣たちから猛反対にあう。
「殿下、お待ちください! ヴァルハイト公爵は、今やこの国で最も力を持つ貴族の一人。彼を敵に回すのは得策ではございません!」
「北の地の経済力は、王家のそれを凌ぐとさえ言われております。彼の協力なくして、この国の財政は立ち行かなくなりますぞ!」
いつの間にか、クロードの力は、王太子であるアランでさえも無視できないほど強大なものとなっていた。
リリアという才能を得た北の地は飛躍的な発展を遂げ、その影響力は国全体に及んでいたのだ。
八方塞がりになったアランとアリアンヌは、焦りと後悔に苛まれていた。
街に出れば、民衆の囁き声が耳に入る。
「最近、王都は活気がないな。税金は上がる一方だし、物価も高い」
「北のヴァルハイト領は、それは豊かな土地らしいぜ。公爵様が連れてきた『女神様』のおかげで、皆、笑って暮らしているそうだ」
「それに比べて、王太子殿下とアリアンヌ様は……」
自分たちへの不満と、クロードとリリアへの称賛。その対比が、彼らの心を抉った。
『なぜ、気づかなかったんだ』
アランは自問自答を繰り返した。
リリアがそばにいた頃は、何もかもうまくいっていた。
彼女は常に先を読み、アランが失敗しないように陰で根回しをしてくれていた。
アランは、ただ彼女が用意した道を歩いているだけでよかったのだ。
彼は、リリアの有能さに気づいていた。だが、それを認めたくなかった。
侍女風情が自分より優れているなどと、プライドが許さなかったのだ。
だから、彼はリリアを遠ざけ、その忠告に耳を貸さず、結果として彼女を追放してしまった。
アリアンヌもまた、後悔の念に苛まれていた。
『リリアさえいれば……』
彼女は、自分の身の回りの世話をする新しい侍女を何人も雇った。
しかし、誰もリリアのようにはいかなかった。
リリアのように、言葉にしなくても自分の望みを察してくれる者はいなかった。
リリアのように、自分の失敗を完璧に隠蔽してくれる者はいなかった。
彼女は、自分がどれだけリリアに依存していたのかを、痛いほど思い知らされていた。
だが、それを素直に認めることは、彼女の傲慢さが許さなかった。
「全部、リリアが悪い。あの子が、私をこんな惨めな気持ちにさせるのよ……!」
責任転嫁をすることでしか、彼女は自分の心を保てなかった。
そんなある日、二人に追い打ちをかけるような出来事が起こる。
隣国との間で、長年の懸案だった国境線の問題が再燃したのだ。
これまで、その交渉はベルンシュタイン公爵家、すなわちアリアンヌの父親が担当していた。
しかし、リリアというブレーンを失った公爵は、交渉の場で失策を重ね、事態を悪化させてしまう。
隣国は態度を硬化させ、一触即発の事態に陥った。
この国家的な危機に際し、国王が白羽の矢を立てたのは、アランではなく、クロード・フォン・ヴァルハイトだった。
「クロード公爵に、全権大使として隣国との交渉を命じる」
国王の決定は、アランにとって、事実上の敗北宣言に等しかった。
王太子である自分を差し置いて、一貴族に国の命運を託す。
それは、臣下たちの前で、自分の無能さを天下に晒すことと同じだった。
王命を受けたクロードは、一人の補佐官を伴って、隣国へと旅立った。
その補佐官の名は、リリア。
かつて自分たちが追放した侍女が、今や国の運命を左右する重要な交渉の場で、クロードの隣に立っている。
その報せを聞いた時、アランとアリアンヌの心は、完全に折れた。
後悔の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
それは、自分たちが犯した過ちの代償を支払う時が来たことを告げる、冷たく、重い響きを伴っていた。
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