第9話「過去との決別」

 王都からの緊急の知らせは、私の心を再び凍てつかせるには十分な内容だった。

 差出人は、アリアンヌ様だった。

 クロード様宛に送られてきたその手紙には、これまでの無礼を詫びる言葉と共に、驚くべき要求が書かれていた。


『リリアを、王都へお返しください。彼女は、わたくしにとって、なくてはならない侍女なのです。彼女がいなくなってから、わたくしの周りでは不幸なことばかりが起こります。どうか、この通り、お願いいたします』


 文面は丁寧だったが、その裏にある傲慢さと自己中心的な考えは透けて見えた。

 彼女は自分たちの失態の原因がリリアの不在にあると気づき、再び彼女を便利な道具として利用しようとしているのだ。


 クロード様は手紙を読み終えると、屑籠にでも捨てるかのように、無造作に机の上に放った。


「くだらない」


 吐き捨てるようなその一言に、彼の怒りが滲んでいた。


「リリア、君はどうしたい? もし君が望むなら、王都へ帰っても……」


「帰りません!」


 私は、彼の言葉を遮るように、強く言い切った。

 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。


「私の居場所は、もうあそこにはありません。私の居場所は、ここです」


 まっすぐにクロード様の目を見て、私は告げた。

 もう、迷いはなかった。アリアンヌ様の元へ戻るなど、考えられなかった。

 あの息の詰まるような日々には、二度と戻りたくない。


 私の答えを聞いて、クロード様は安堵したように、微かに息を吐いた。


「そうか。……分かった」


 その日の執務は、それで終わりになった。

 けれど、私の心は穏やかではなかった。

 手紙を読んだ瞬間から、忘れていたはずの過去の記憶が、悪夢のように蘇ってきたのだ。

 アリアンヌ様の理不尽な命令。罵倒の声。そして、舞踏会での裏切り。

 あの時の絶望感と無力感が、再び胸に迫ってくる。


『私は、本当に過去を乗り越えられたのだろうか』


 自室に戻っても、不安は消えなかった。

 窓の外の雪景色を眺めていると、背後で静かにドアが開く音がした。

 振り返ると、そこにクロード様が立っていた。


「眠れないかと思った」


 彼はそう言うと、手に持っていた銀の盆をテーブルに置いた。

 温かいミルクと、蜂蜜の甘い香りが部屋に広がる。


「……ありがとうございます」


「気に病むことはない。君は、何も悪くないのだから」


 彼は私の隣に立ち、窓の外に目を向けた。


「アリアンヌ嬢もアラン殿下も、ただ自分たちの過ちから目を背け、責任を君に押し付けようとしているだけだ。君が戻ったところで、何も変わらない。彼らは、また同じことを繰り返すだろう」


 彼の言葉は、冷静で、的確だった。

 その通りだ。私が戻っても、彼らが改心することなどあり得ない。

 私はまた、都合のいい道具として使い潰されるだけだ。


「分かって、います。でも……」


 それでも、心のどこかで、アリアンヌ様に尽くした日々を完全に切り捨てられない自分がいた。

 育ててもらった恩義。幼い頃に交わした、他愛ない約束。

 それらが、亡霊のように私に付きまとう。


「怖いのです。また、裏切られるのが。信じていた人に、すべてを奪われるのが……」


 震える声で、私は本音を漏らした。

 それは、ずっと心の奥底にしまい込んでいた、私の弱さだった。


 すると、クロード様は、私の肩を優しく抱き寄せた。


「もう、君は一人ではない」


 耳元で囁かれた声は、驚くほど穏やかで、温かかった。


「私がいる。君が誰かに傷つけられることは、私が決して許さない。このヴァルハイトの名にかけて、君を生涯守り抜くと誓う」


 それはプロポーズの言葉にも似た、力強い誓いだった。

 彼の腕の中で、私はこらえきれずに涙を流した。

 それは、絶望の涙ではなかった。過去の呪縛から、ようやく解き放たれた、安堵の涙だった。


 アリアンヌ様への忠誠心も、育ててもらった恩義も、もう私を縛る鎖にはならない。

 私は、私の人生を歩むのだ。この、温かくて、優しい人の隣で。


「クロード様……」


 見上げると、彼の蒼い瞳が、熱を帯びて私を見つめ返していた。

 窓の外では、雪が静かに降り続いている。


「リリア。君はもうベルンシュタイン公爵家の侍女ではない。アリアンヌ嬢の影でもない」


 彼は私の濡れた頬に、そっと手を添えた。


「君は、私の……大切な人だ」


 その言葉と共に、彼の顔が近づき、唇が優しく重ねられた。

 それは雪のように柔らかく、暖炉の炎のように熱い、初めての口づけだった。


 この瞬間、私は過去のすべてと、本当の意味で決別することができた。

 もう振り返らない。前だけを見て、この人と共に生きていこう。

 王都からの手紙は、皮肉にも、私たち二人の心を固く結びつけるきっかけとなったのだった。

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