第8話「凍てついた心の溶解」

 北の地に、本格的な冬が訪れた。

 空からは白い雪が舞い降り、世界は一面の銀世界に姿を変える。

 厳しい寒さではあったが、ヴァルハイト城の中は暖炉の炎と人々の活気で、温かい空気に満ちていた。


 私とクロード様との関係も、この冬の間に、ゆっくりと、しかし確実に変化していた。

 執務室で共に過ごす時間が、当たり前の日常になった。

 私が書類仕事に集中していると、彼は黙って温かいハーブティーを淹れてくれる。

 私が夜遅くまで根を詰めすぎていると、「もう休め」とぶっきらぼうに言いながら、肩にブランケットを掛けてくれる。


 彼の言葉はいつも短い。

 けれど、その行動の一つ一つに、不器用な優しさが滲み出ていることを、私は知っていた。


 ある雪の夜、私は書庫で古い文献を調べていた。

 この土地に伝わる、薬草に関する伝承をまとめるためだ。

 高い棚の上にある本に手を伸ばした時、足元の台がぐらりと揺れた。


「危ない!」


 短い叫び声と共に、逞しい腕が私の身体をぐっと引き寄せた。

 気がつくと、私はクロード様の胸の中にすっぽりと収まっていた。

 とくん、とくんと彼の心臓の音が背中を通して伝わってくる。

 嗅ぎ慣れた、冬の森のような、彼の香り。


「……すまない」


 彼はすぐに私を離したが、その耳がほんのりと赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。


「い、いえ! こちらこそ、申し訳ありません! 助けていただいて、ありがとうございました!」


 慌てて頭を下げる私に、彼は何かを言おうとして、やめた。

 ただ、気まずそうに視線を逸らすだけ。

 氷の公爵が見せる初めての表情。その意外な一面に、私の心臓も、彼と同じくらい速く鼓動していた。


『どうしてだろう……クロード様のそばにいると、胸が苦しくなる』


 この感情が何なのか、私にはまだ分からなかった。

 ただ、彼がそばにいると安心する。

 彼に褒められると、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。

 彼が他の女性と話しているのを見ると、なぜか胸がちくりと痛む。


 そんな変化は、クロード様にも訪れていた。

 彼は時折、私に贈り物をくれるようになった。

 最初は、仕事で使うための上質な羽ペンだった。

 次は、冷え性の私を気遣って、暖かい羊毛のショール。

 そして最近では、夜空の色をしたサファイアの髪飾りをくれた。


「君の瞳の色に、似ていると思った」


 そう言って髪飾りを渡してくれた時の彼の顔は、いつになく真剣で、どこか緊張しているように見えた。

 私はその髪飾りを、宝物のように大切にしている。


 領民たちも、そんな私たちの関係の変化に、薄々気づいているようだった。

 私たちが並んで歩いていると、彼らは温かい眼差しを向け、親しみを込めて「公爵様と女神様だ」と囁き合った。


 その日、私はクロード様に誘われて、凍った湖へスケートに出かけた。

 人生で初めてのスケートに、私はおっかなびっくりで、何度も転びそうになる。


「手を」


 クロード様が、分厚い手袋に包まれた大きな手を差し出してくれた。

 私はためらいながらも、その手を取る。

 彼に導かれるまま、一歩、また一歩と氷の上を進む。


「上手くなったな」


 いつの間にか、私は彼の手を借りなくても、一人で滑れるようになっていた。

 銀盤の上を滑る爽快感に、思わず笑みがこぼれる。


「楽しいです! こんな気持ち、初めて……!」


 くるりとターンをすると、目の前にクロード様の顔があった。

 彼は立ち止まって、じっと私の顔を見つめていた。

 その蒼い瞳には、今まで見たことのない熱っぽい光が宿っていた。


「リリア」


 彼が、私の名前を呼ぶ。その声は、少し掠れていた。


「君が笑っていると、俺も……嬉しい」


 雪が、しんしんと降り積もる。

 世界には、私と彼、二人しかいないような気がした。

 彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 私は目を閉じることも、身を引くこともできず、ただ、これから起こるであろう奇跡を、待っていた。


 しかし、その瞬間、遠くから私たちを呼ぶ声が聞こえた。

 城からの伝令だった。王都から、緊急の知らせが届いたという。


 クロード様の表情が、いつもの「氷の公爵」のそれに一瞬で戻る。

 彼は私からそっと離れると、「城に戻るぞ」と短く告げた。


 甘い空気は霧散し、現実に引き戻される。

 けれど、私の胸の中には、先ほどまでの温かい余韻が、確かに残っていた。

 握られた手の温もり。熱を帯びた彼の眼差し。そして、触れ合う寸前だった唇の記憶。


 凍てついていた彼の心も、そして、諦めに満ちていた私の心も、この北の地で、ゆっくりと、しかし確実に溶け始めている。

 そのことに、私たちはもう、気づかないふりをすることはできなかった。

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