第6話「女神のささやき」
私の仕事が始まってから、一月が過ぎた。
クロード様の補佐としての日々は、驚きと発見の連続だった。
彼が「氷の公爵」と呼ばれている理由が、少しだけ分かった気がする。
彼は感情で物事を判断しない。常に冷静に、事実とデータに基づいて最適な答えを導き出す。
その厳格さが、一部の者には冷酷に映るのだろう。
しかし、彼の政策の根底には、常に領民への深い思いやりがあった。
どうすれば民が豊かになれるか、安全に暮らせるか。彼はそのことだけを考えている。
ただ、その表現方法が恐ろしく不器用なだけなのだ。
私の提案は、次々と採用されていった。
月影草の毒に苦しんでいた村には、私の見立て通り陽光花が送られ、病は瞬く間に収束した。
冷害に悩む村では黒麦の栽培が始まり、領民たちは今年の冬を越せる希望を見出した。
私の仕事は、机上の空論だけでは終わらなかった。
「現場を見ずして、正しい判断は下せない」
クロード様のその一言で、私は彼と共に領内の視察へ出かけることになった。
屈強な護衛騎士たちに守られながら、馬に乗って村々を巡る。
初めは、公爵様と共に現れた見慣れない私に、領民たちは遠巻きに様子をうかがうだけだった。
しかし、私が彼らの生活に寄り添った提案を始めると、その雰囲気は少しずつ変わっていった。
「奥様方、いつもお洗濯、大変でしょう。この川の水は冷たいですから。灰を水に溶かして煮詰めると、汚れがよく落ちる『灰汁(あく)』が作れますよ。冷たい水でも、ゴシゴシこする手間が少し省けます」
「この辺りの森には、『癒やしの葉』がたくさん自生していますね。乾燥させておけば、ちょっとした切り傷や火傷の薬になります。お子さんが怪我をされた時に、きっと役立ちます」
アリアンヌ様の元で、あらゆる雑学を叩き込まれた経験が、こんな形で人々の役に立つなんて。
私が話す生活の知恵に、村の女性たちは目を輝かせた。
初めは遠巻きに見ていた人々が、次第に私の周りに集まり、様々なことを質問してくるようになった。
そんな私を、クロード様は少し離れた場所から、静かに見守っていた。
彼が何を考えているのかは分からない。
けれど、その眼差しがとても優しいものであることだけは、なぜか分かった。
ある日、私たちは特に貧しいとされている山間の村を訪れた。
痩せた土地で、作物はほとんど育たない。村人たちの顔には、疲労と諦めの色が濃く浮かんでいた。
村長の話を聞きながら、私は周囲の山に目をやった。
そこには、ある種のキノコが群生しているのが見えた。
王都の貴族たちは見向きもしないが、栄養価が高く、独特の風味があるキノコだ。
「あのキノコ……『山笑い』を、特産品にできませんか?」
私の言葉に、村長もクロード様も怪訝な顔をした。
「リリア殿、あれは腹の足しにはなるが、しょせんただのキノコだ。金にはならん」
「いいえ。乾燥させて刻み、香辛料として売るのです。少し癖のある香りですが、肉料理の臭み消しに最適です。王都の高級料理店なら、きっと高値で買い取ってくれるはずです」
これも、アリアンヌ様が主催する晩餐会の献立を考える際に得た知識だった。
私の突飛な提案に、村人たちは半信半疑だったが、クロード様は違った。
「……試してみる価値はありそうだな。すぐに商人たちに連絡を取り、販路を確保しよう」
彼の鶴の一声で、プロジェクトはすぐに動き出した。
結果は、私の予想以上だった。
山笑いは「北の地の黒い宝石」と呼ばれ、王都の食通たちの間で大評判となった。
貧しかった村はキノコ景気に沸き、瞬く間に活気を取り戻した。
この一件以来、領民たちの私を見る目は、明らかに変わった。
彼らは尊敬と親しみを込めて、私のことをこう呼ぶようになった。
「幸運の女神様」と。
そんな大げさな呼び名に、私は恐縮するばかりだったが、クロード様はどこか満足そうだった。
城に戻る馬の上で、彼はぽつりと言った。
「君が来てから、領地の空気が変わった。皆の顔が、明るくなった」
「そんな……私だけの力ではございません。クロード様が、私の意見を信じてくださったからです」
「それでも、きっかけは君だ」
夕日が彼の銀髪を橙色に染めている。その横顔は、いつもの厳しさが嘘のように、穏やかに見えた。
「リリア。君は、自分の価値をまだ分かっていない。君は誰かの影ではない。多くの人々を導く光になれる存在だ」
その言葉は、温かい雫のように、私の乾いた心にじんわりと染み込んでいった。
アリアンヌ様の影として生きてきた私。誰かに認められることなど、諦めていた。
けれど、この人は、クロード様は、私自身も気づかなかった私の可能性を、見つけ出してくれる。
『この人の隣でなら、私はもっと変われるかもしれない』
胸の中に、温かい感情が芽生える。
それは、感謝や尊敬だけではない、もっと甘くて少しだけ切ない、名付けられない感情だった。
北の地の厳しい冬はもう間近に迫っていたが、私の心には、春のような陽だまりが生まれつつあった。
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