第5話「秘められた才覚」

 翌朝、私は案内の侍女に連れられて、クロード様の執務室へと向かった。

 重厚な樫の扉を開けると、そこは壁一面が本棚で埋め尽くされた、広大な空間だった。

 床から天井までぎっしりと詰め込まれた書物は、歴史、法律、地理、薬学と多岐にわたる。

 この城が、そしてこの領地が、彼の知性によって治められていることを物語っていた。


 クロード様は部屋の中央にある巨大な執務机で、すでに書類の山と格闘していた。

 私が来たことに気づくと、彼はペンを置き、顔を上げた。


「来たか」


「おはようございます、クロード様。お呼びと伺いました」


「ああ。そこに掛けてくれ」


 彼が示した椅子に腰かけると、目の前に数枚の羊皮紙が差し出された。

 それは、領地内の村から上がってきた陳情書のようだった。


「これを読んで、君の意見を聞かせてほしい」


「私の、意見……ですか?」


 思わず聞き返してしまった。

 侍女でしかなかった私が公爵家の領地経営に関する書類に目を通し、意見を述べるなど考えたこともなかった。


「だが、私は……」


「君は、ベルンシュタイン公爵家でアリアンヌ嬢の学業の手伝いもしていたそうだな。家庭教師が匙を投げた難解な歴史書や政治学の論文も、君が分かりやすく要約して、彼女に教えていたと聞いている」


 彼の言葉に、私は息をのんだ。

 なぜ、そんなことまで知っているのだろう。

 それは、私がアリアンヌ様の影として行っていた、誰にも知られていないはずの仕事だった。


「君の知識量は、そこらの貴族令嬢はもちろん、並の役人よりも上だ。謙遜は不要だ。思ったことを率直に言えばいい」


 クロード様の蒼い瞳は、すべてを見透かしているようだった。

 私は観念して、恐る恐る羊皮紙に目を通し始めた。


 書かれていたのは、深刻な問題だった。

 ある村で原因不明の病が流行し、多くの領民が衰弱していること。

 また別の村では、冷害によって作物の育ちが悪く、今年の冬を越せるか危うい状況にあること。

 問題は山積みだった。


 私は夢中で書類を読み込んだ。

 アリアンヌ様の元で、あらゆるトラブルを解決するために、様々な分野の知識を詰め込んできた。

 それは、いつか役に立つかもしれないと信じて、必死に学んだものだ。

 まさか、こんな形で活かされる時が来るとは思ってもみなかった。


「……まず、この病ですが、症状から見て、特定の植物に含まれる毒素による中毒の可能性があります。村の近くに生える『月影草』という薬草によく似た毒草があり、それを誤って煎じて飲んでしまったのではないでしょうか。解毒作用のある『陽光花』をすぐに村へ送るべきです」


「ほう。それで?」


「こちらの冷害の村ですが……この土地の土壌は、寒さに強い麦の一種である『黒麦』の栽培に適しているはずです。王都で主流の品種に固執せず、土地に合った作物を育てるよう指導してみてはいかがでしょう。収穫量は少なくとも、飢えを凌ぐことはできるはずです」


 次から次へと言葉が溢れてくる。

 蓄えてきた知識が、パズルのピースがはまるように、目の前の問題と結びついていく。

 それは自分でも驚くほどの感覚だった。


 私が一通り話し終えると、クロード様はしばらく黙って私を見つめていた。

 その表情は相変わらず読めなかったが、彼の瞳の奥に確かな感心の光が宿っているのが分かった。


「……素晴らしい。役人たちが何日も頭を悩ませていた問題を、君は一瞬で見抜いた」


 彼は静かにそう言うと、立ち上がって窓辺へ向かった。


「やはり、私の目に狂いはなかった。君は、影の中にいるべき人間ではない」


 振り返った彼の顔には、初めて見る、微かな笑みが浮かんでいた。

 それは、氷が解ける瞬間を目の当たりにしたような、衝撃的な光景だった。


「リリア。改めて、君に頼みたいことがある。私の補佐として、この領地の内政を手伝ってくれないか」


「私が、公爵様の補佐を……?」


「そうだ。君の知識と、細やかな気配り、そして何より、問題を的確に把握し解決する能力が、この領地には必要だ。もちろん、侍女としてではない。私の右腕としてだ」


 それは、あまりにも身に余る申し出だった。

 追放された、ただの侍女である私が、公爵の補佐官など務まるはずがない。


 しかし、私の心の中では、別の感情が芽生えていた。

 嬉しい、と思ってしまったのだ。誰かに必要とされること。自分の知識や能力が、誰かの役に立つこと。

 アリアンヌ様のために働くのとは違う、純粋な喜びと、やりがい。


『私にも、できることがあるのかもしれない』


 アリアンヌ様の影として生きてきた私に、初めて光が当たったような気がした。

 この人の隣でなら、私は新しい自分になれるのかもしれない。


「……私で、お役に立てるのでしたら。喜んで、お受けいたします」


 私がそう答えると、クロード様は満足そうにうなずいた。


「感謝する。これから、よろしく頼む」


 その日から、私の新しい仕事が始まった。

 クロード様の執務室の隣に私のための小さな机が用意され、私は毎日、領地から届く膨大な書類に目を通し、問題点を洗い出し、改善策を提案する日々を送ることになった。


 それは、決して楽な仕事ではなかった。けれど、不思議と苦ではなかった。

 自分の知識が、言葉が、この北の地で暮らす人々の生活を少しでも良くすることに繋がる。

 その実感が、私にこれまで感じたことのない充実感を与えてくれた。


 そして、仕事を通じてクロード様と過ごす時間が増えるにつれ、私は彼の新たな一面を少しずつ知っていくことになるのだった。

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