第4話「北の地で芽吹くもの」
馬車に揺られること数日。
王都の喧騒は完全に姿を消し、窓の外には荒々しくも雄大な自然が広がっていた。
聳え立つ灰色の山脈、どこまでも続く針葉樹の森、そして時折見える、厳しい冬に備えて煙を上げる小さな村々。
ここが、クロード様が治めるヴァルハイト公爵領、通称「北の地」だった。
王都の温暖な気候に慣れた身には、空気が肌を刺すように冷たい。
けれど、その空気はどこまでも澄み切っていて、息を吸い込むたびに、澱んでいた心の中が浄化されていくような気がした。
やがて馬車は、小高い丘の上に建つ壮麗な城の前で止まった。
ヴァルハイト城。
黒い石を基調とした質実剛健な造りで、華美な装飾はないが、長い歴史と絶対的な権威を感じさせる威容を誇っていた。
「着いたぞ」
クロード様に促され、私はおずおずと馬車を降りた。
城の玄関前には、すでに数人の使用人たちが整列して待っていた。
誰もが私のような見ず知らずの女の登場に驚きを隠せない様子だったが、主君の前でそれを表に出す者はいなかった。
「彼女はリリア。今日からこの城で暮らす。私の客人として、丁重にもてなすように」
クロード様の簡潔な紹介に、使用人たちの間にどよめきが走った。
「客人」という言葉が、彼らにとってどれほど衝撃的だったかは想像に難くない。
何しろ、この氷の公爵が女性を、それも身なりの貧しい若い女性を城に招き入れたなど、前代未聞のことだっただろうから。
私自身も、その言葉に耳を疑った。
『客人……? 侍女として、働くのではなくて?』
私はてっきり、新しい場所でまた侍女として働くことになるのだと思っていた。
それしか、私には能がないのだから。
戸惑う私をよそに、年配の侍女長が恭しく一礼した。
「かしこまりました、クロード様。リリア様、長旅でお疲れでございましょう。お部屋へご案内いたします」
案内されたのは、城の東翼にある、日当たりの良い広々とした部屋だった。
大きな窓からは、眼下に広がる領地の街並みと、その向こうに連なる山脈が一望できる。
天蓋付きのベッドに、猫足の美しい衣装箪笥。
私がアリアンヌ様の侍女として与えられていた屋根裏の小部屋とは、比べ物にならないほど豪華な部屋だった。
「あの……私は、ここで何をすればよろしいのでしょうか」
湯浴みを済ませ、用意された簡素だが上質なワンピースに着替えた後、私は侍女長に尋ねた。
何か仕事をしなければ落ち着かない。居場所がないように感じてしまう。
しかし、侍女長はにこやかに首を横に振った。
「クロード様より、リリア様にはしばらくゆっくりとお休みいただくよう、言われております。何かご入用でしたら、何なりとお申し付けください」
そう言って、彼女は静かに部屋を退出してしまった。
一人、広すぎる部屋に残され、私は途方に暮れた。
ただ客人として、何もしないで過ごす。そんな生活は、生まれてこの方、一度も経験したことがない。
アリアンヌ様の元では、一瞬たりとも気を抜くことは許されなかった。
常に彼女の顔色をうかがい、次は何を要求されるのかと神経を張り詰めていた。
その緊張から解放されたはずなのに、心は少しも安らがなかった。
むしろ、何かの役に立っていない自分は無価値なのではないか、という不安に襲われる。
『私は、ここにいていいのだろうか……』
窓辺に立ち、夕日に染まる北の空を眺める。
王都の空とは、色も、雲の形も、何もかもが違っていた。
その夜、夕食に招かれた食堂で、私は再びクロード様と顔を合わせた。
長いテーブルの端と端。二人きりの食事は、気まずい沈黙に満ちていた。
「……何か、不自由なことはあるか」
沈黙を破ったのは、クロード様だった。
「いえ、とんでもないです。あまりにも、もったいないおもてなしを受けて、戸惑っているくらいで……」
「そうか」
彼の返事は短く、また会話が途切れる。
その無表情からは、彼が何を考えているのか全く読み取れない。
なぜ、彼は私をここまで厚遇するのだろう。
彼が言っていた「私の真の価値」とは、一体何なのだろうか。
食事が終わり、部屋に戻ろうとした私を、クロード様が呼び止めた。
「リリア」
「はい」
「ここでは、君は誰に気兼ねする必要もない。アリアンヌ嬢の時のように、自分を殺して生きる必要もない。君が君らしくいられる場所だ」
そう言った彼の蒼い瞳は、真っ直ぐに私を見つめていた。
その瞳の奥に、ほんの少しだけ、温かい光が灯ったような気がした。
「明日、私の執務室へ来い。君に見せたいものがある」
それだけを告げると、彼は背を向けて去っていった。
部屋に戻り、ふかふかのベッドに身を横たえる。
眠れるはずがないと思っていたのに、身体は正直だった。
長旅の疲れと、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだせいか、私は深い眠りに落ちていった。
北の地で迎える最初の夜。
それは、私が「ただのリリア」として生きる、新しい人生の始まりを告げる、静かな夜だった。
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