第3話「氷の公爵と救いの手」

 夜の闇が、冷たい雨となって王都を濡らしていた。

 衛兵に城門の外へと放り出された私は、粗末な旅支度一つを持たされただけだった。

 行く当てもなく、石畳の道を歩く。舞踏会のために着ていた侍女服はすでに泥だらけで、雨水が容赦なく体温を奪っていく。


 心は、空っぽだった。

 悲しみも、怒りも、絶望さえも感じない。

 ただ、アリアンヌ様の嘲るような目が脳裏に焼き付いて、何度も何度も再生されるだけ。

 私が尽くした時間は、忠誠は、一体何だったのだろう。


『結局、私は都合のいい道具でしかなかったんだ』


 そう思うと、乾いていたはずの瞳から、熱いものがこみ上げてきた。

 雨に紛れて、涙が頬を伝う。

 誰にも気づかれることなく、このまま世界の片隅で消えてしまえたら、どんなに楽だろうか。


 そんな虚しい考えが頭をよぎった時、背後から馬蹄の音が近づいてきた。

 こんな夜更けに、王都の外れを走る馬車など珍しい。

 振り返る気力もなく、道の端に寄ってやり過ごそうとした。


 しかし、その馬車は私のすぐ隣で、ぴたりと動きを止めた。

 黒塗りの、装飾の一切ない、しかし上質だと一目でわかる馬車。その扉が、静かに開かれる。


 中から聞こえてきたのは、決して忘れられない、低く冷たい声だった。


「乗れ」


 心臓が凍りつくかと思った。

 そこにいたのは、氷の公爵、クロード・フォン・ヴァルハイト様だった。

 彼は馬車の薄暗い中に座ったまま、私をじっと見つめている。その蒼い瞳は、夜の闇よりも深い色をしていた。


「……なぜ、あなたがここに」


 かろうじて絞り出した声は、雨音にかき消えそうなほど弱々しかった。

 なぜ、私を最も蔑んでいたはずのこの人が、追放された私の前に現れるのか。

 最後の最後に、私を嘲笑いに来たのだろうか。


「いいから、早く乗れ。風邪をひく」


 彼の言葉は命令だった。有無を言わせない響きがある。

 私はまるで操り人形のように、ふらふらと馬車に足を踏み入れた。

 扉が閉まると、外の雨風の音が嘘のように遠ざかり、静寂が訪れる。


 馬車の中は、革と微かな香木の香りがした。

 クロード様は私の向かいの席に座り、窓の外に広がる闇に視線を向けたまま、何も言わない。

 重苦しい沈黙が続く。私から何かを話す勇気もなく、ただ濡れた服の裾を握りしめていた。


 しばらくして、馬車が滑るように走り出すと、彼がようやく口を開いた。


「君が犯人でないことは、最初から分かっていた」


「……え?」


 予期せぬ言葉に、私は顔を上げた。彼は私の方を見ずに、淡々と言葉を続ける。


「アリアンヌ嬢が君に雑事を押し付けていることも。彼女の失態を、君が裏で処理し続けてきたことも。すべて知っていた」


「な……ぜ……」


「私は王太子の側近だ。彼の婚約者の動向を探るのは当然の務めだ。その過程で、常に彼女の影にいる君の存在に気づいた」


 クロード様の横顔は彫像のように整っていたが、やはり何の感情も読み取れない。


「君は有能すぎた。あまりにも完璧にアリアンヌ嬢の影を演じ、彼女の無能さを隠し続けた。だからアラン殿下も、他の誰も、君の本当の価値に気づかなかった」


 彼の言葉は、鋭いナイフのように私の心の奥深くまで突き刺さった。

 それは、叱責でも、同情でもなかった。ただ、揺るぎない事実を告げているだけ。


「では……なぜ、あの場で助けてくださらなかったのですか。あなたが証言してくだされば、私は……!」


 声が震えた。ほんの少しの希望が見えた気がして、思わず彼に詰め寄っていた。

 もし、彼が真実を知っていたのなら。あの絶望的な状況を覆すことができたのではないか。


 クロード様は、そこで初めて私に視線を向けた。その蒼い瞳には、意外にも穏やかな光が宿っていた。


「あの場で君を弁護しても無意味だっただろう。アラン殿下はケイトリン嬢に夢中で、耳を貸さなかったはずだ。ベルンシュタイン公爵家の力は強大で、侍女一人の証言など簡単にもみ消される。君は、より惨めな結末を迎えるだけだった」


 彼の分析は、恐ろしいほどに冷静で、正確だった。私は言葉を失う。


「だから、君が完全に自由になるのを待っていた。アリアンヌ嬢の呪縛からも、ベルンシュタイン公爵家へのくだらない忠誠心からも、すべてから解放されるこの時を」


 馬車が大きく揺れた。

 クロード様はそっと手を伸ばし、私の冷たい手を握った。

 氷の公爵という異名が信じられないほど、彼の手は温かかった。


「リリア。私と共に来い」


 初めて、彼は私の名前を呼んだ。


「君の真の価値を、愚かな彼らに思い知らせてやろう。君がただの侍女ではないことを、世界に証明するんだ」


 その声には、不思議な熱がこもっていた。

 それは、私を絶望の淵から引きずり上げるような、力強い響きだった。


「私を、私の領地へ連れて行く。そこではもう、君は誰かの影ではない。君自身の力で、光り輝くことができる」


 クロード・フォン・ヴァルハイト。

 私が最も恐れ、蔑まれていると信じていた人。

 その彼が、今、私に救いの手を差し伸べている。


 まだ、何も信じられない。これは夢か幻なのではないか。

 けれど、握られた手の温かさだけが、確かな現実だと告げていた。


 私は、その温かい手を、震える指でそっと握り返した。

 それが、私の唯一の答えだった。

 馬車は夜の闇を切り裂き、まだ見ぬ北の地へと向かって、ひた走っていた。

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