第2話「偽りの断罪」

「アリアンヌ・フォン・ベルンシュタイン! 君との婚約は、今この時をもって破棄させてもらう!」


 アラン殿下の声が、静まり返った舞踏会場に響き渡った。

 それは紛れもない、断罪の宣告だった。

 周囲の貴族たちは息をのみ、誰もが固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。


 アリアンヌ様はかろうじて立っているのがやっとという様子で、わなわなと震えていた。

 その美しい顔は蒼白になり、信じられないといった表情でアラン殿下を見つめている。


「な……何を、仰るのですか、殿下……? わたくしが、ケイトリンさんを突き落とすなど……そんな、何かの間違いですわ!」


「間違いだと? これだけ多くの者が見ている前で、よくもそんな白々しい嘘がつけるものだ!」


 アラン殿下は、腕の中で気を失ったふりをしているケイトリン嬢を庇うように抱きしめ、アリアンヌ様を憎々しげに睨みつけた。

 彼の目には、もはやかつての婚約者への愛情など微塵も残っていないように見えた。

 あるのは、軽蔑と怒りだけだ。


『まずい……このままでは、アリアンヌ様が……』


 私は壁際から一歩、前に出ようとした。

 私が前に出て、これは事故だったと、あるいは他の誰かの仕業かもしれないと弁明すれば、少しは状況が変わるかもしれない。

 たとえ気休めにしかならなくても、何もしないよりはましだ。


 そう思った、その時だった。

 絶望の淵にいたはずのアリアンヌ様の瞳が、ふと私を捉えた。

 そして、その瞬間、彼女の目に狡猾な光が宿るのを、私は見てしまった。

 まるで、蜘蛛の糸を見つけた罪人のように。


「……そうですわ! わたくしではございません!」


 アリアンヌ様は、突然声を張り上げた。

 そして、震える指で、まっすぐに私を指さした。


「すべて、わたくしの侍女であるリリアがやったことなのです! あの子が、わたくしの名を使い、ケイトリン嬢を陥れようと独断で……!」


 え?

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 舞踏会場にいるすべての視線が、私に突き刺さる。

 驚き、疑い、好奇、そして侮蔑。様々な感情を帯びた視線が、私という存在を貫いていく。


「リリア……? あの地味な侍女がか?」


 アラン殿下が訝しげに呟いた。無理もないだろう。

 私のような取るに足らない侍女が、王太子の寵愛を受ける男爵令嬢を害そうとする動機など、誰にも想像がつかないはずだ。


 しかし、アリアンヌ様は畳み掛けるように言葉を続けた。


「ええ! リリアは昔から、わたくしに歪んだ執着を抱いておりました! わたくしが殿下と親しくなるのを妬み、ケイトリン嬢にその嫉妬の矛先を向けたに違いありません! ああ、なんて恐ろしい……わたくしは、こんな者をずっと傍に置いていたなんて……!」


 まるで悲劇のヒロインのように涙を流し、その場に崩れ落ちるアリアンヌ様。

 その迫真の演技に、会場の空気は徐々に彼女へ同情的なものへと変わっていく。


『嘘……どうして……アリアンヌ様……』


 頭が真っ白になった。

 忠誠を誓い、すべてを捧げてきた主人からの、あまりにも酷い裏切り。

 足元から地面が崩れ落ちていくような感覚に襲われ、立っていることすらままならない。


「衛兵! その侍女を捕らえよ!」


 アラン殿下の号令で、屈強な衛兵たちが私を取り囲む。

 抵抗など、できるはずもなかった。

 腕を掴まれ、引きずられるようにして、私はアラン殿下の前へと突き出された。


「言い分は何かあるか」


 冷え切った声で問われ、私は必死に言葉を絞り出した。


「ち、違います……! 私は何もしておりません! アリアンヌ様の命令で……いえ、命令は受けましたが、実行など……!」


 しどろもどろの弁明は、誰の心にも届かなかった。

 むしろ、主人の名を出すことで、罪をなすりつけようとしている卑劣な侍女、という印象を強めてしまっただけだった。


「見苦しいぞ! 証拠もあるのだ!」


 アラン殿下が合図をすると、一人の衛兵が小さな布袋を差し出した。

 中から出てきたのは、アリアンヌ様が私に渡した、階段に細工をするための小さなガラス玉だった。

 私が受け取った後、すぐに処分したはずのもの。


「これは、お前の部屋から見つかったものだ。これでもまだ、とぼけるつもりか」


 偽造だ。罠だ。そう叫びたかった。

 けれど、声が出なかった。

 アリアンヌ様が、ここまで用意周到に私を陥れる準備をしていたという事実に、ただただ打ちのめされていた。


 彼女はいつから、私を切り捨てるつもりだったのだろう。

 私が汚れ仕事を請け負うたびに、その証拠を少しずつ集めていたというのだろうか。

 私が彼女に尽くしてきた日々のすべては、この瞬間のための布石でしかなかったというのか。


 絶望が、冷たい水のように心を満たしていく。

 もう、誰も私を信じてはくれない。


「侍女リリア。お前の罪は、ベルンシュタイン公爵令嬢の名を騙り、ケイトリン男爵令嬢を殺害しようとした大罪である。本来であれば死罪に値するところだが、アリアンヌ嬢の寛大な計らいにより、王都からの永久追放処分とする。即刻、この場から立ち去るがよい!」


 アラン殿下の判決が下される。永久追放。

 それは、私という存在が、この国から完全に抹消されることを意味していた。


 衛兵に両脇を抱えられ、私は舞踏会場から引きずり出されていく。

 すれ違いざまに見たアリアンヌ様は、アラン殿下に寄り添い、庇護されるか弱い乙女を演じきっていた。

 その瞳の奥に、一瞬だけ嘲るような色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。


 最後まで、クロード公爵は何も言わなかった。

 ただ、氷のような蒼い瞳で、私が出ていくのを静かに見つめているだけだった。

 その瞳にはいつものような軽蔑の色はなく、何か別の、読み取れない深い感情が揺らめいているように見えた。

 だが、今の私には、それを確かめる術も気力もなかった。


 すべてを失った。名誉も、居場所も、信じていたものさえも。

 私の人生は、今この瞬間、終わったのだ。

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