悪役令嬢の身代わりで追放された侍女、北の地で才能を開花させ「氷の公爵」を溶かす

藤宮かすみ

第1話「悪役令嬢の影」

 銀の食器が甲高い音を立て、床に散らばる。

 純白のテーブルクロスには、血のように赤いワインの染みがじわりと広がっていた。


「どうして私がこんな目に遭わなければならないの!?」


 金切り声の主は、私の主人であるアリアンヌ・フォン・ベルンシュタイン公爵令嬢。

 陽光を弾いて輝く蜂蜜色の髪、薔薇の花びらを思わせる唇。神が寵愛を注いで創り上げたかのような完璧な美貌も、今は怒りで見る影もなく歪んでいる。


「リリア! あんたのせいよ! あんたの確認が甘いから、あんなみすぼらしい男爵令嬢に先を越されたんじゃない!」


「申し訳ございません、アリアンヌ様」


 私は床に膝をつき、砕けた陶器の破片を拾いながら、ただ頭を下げた。

 アリアンヌ様が王太子アラン殿下へ贈るはずだった刺繍入りのハンカチ。

 それをライバルであるケイトリン男爵令嬢が先に殿下へ渡してしまった。ただ、それだけのこと。

 けれどアリアンヌ様にとっては、天地がひっくり返るほどの一大事だった。


『私のせい、ね……。ハンカチを渡す日取りを忘れて、夜会で踊り明かしていたのはどなたでしたか』


 そんな心の声を押し殺し、私は黙々と後始末を続ける。

 アリアンヌ様の侍女である私の仕事は、彼女の身の回りの世話だけではない。

 彼女の輝かしい人生に立ちふさがる、あらゆる障害を取り除くこと。

 それには彼女の癇癪の後始末も、失言の火消しも、時には非合法な手段さえも含まれていた。


 全ては、ベルンシュタイン公爵家への忠誠のため。

 幼い頃に両親を亡くし、遠縁である公爵家に引き取られた私にとって、それは絶対の義務だった。


 後片付けを終え、アリアンヌ様の部屋を出ると、冷たい空気が廊下を吹き抜けていた。

 その先に、壁に寄りかかって立つ人影がある。見慣れた、しかし決して慣れることのない威圧感。


「……クロード公爵様」


 氷を思わせる銀髪に、抜き身の剣のような鋭さを持つ蒼い瞳。

 王太子殿下の側近であり、この国で「氷の公爵」と畏れられる人、クロード・フォン・ヴァルハイト様。

 彼は私を一瞥すると、何の感情も浮かばない声で言った。


「またお前の主人は何か問題を起こしたようだな」


「……滅相もございません」


「その口先だけの忠誠心には反吐が出る。主の過ちを諌(いさ)めることもできず、ただ尻拭いに奔走するだけの無能な侍女め」


 彼の言葉は常に刃物のように冷たく、私の心を切り刻む。

 クロード様は、アリアンヌ様が問題を起こすたびにどこからともなく現れ、私をこうして詰るのが常だった。

 アリアンヌ様に直接苦言を呈することはなく、その矛先はすべて、影である私に向けられるのだ。


『無能、か。そう見えても仕方ないわね』


 アリアンヌ様の行いを、私が肯定しているわけではない。

 けれど、私には注意する権利も力もない。

 できるのは、彼女が望むままに動き、その結果生じた問題を処理し、彼女の栄光が傷つかないよう守ることだけ。


 クロード様は私の諦念を見透かしたように、小さく鼻を鳴らした。


「来週は王立学園の卒業記念舞踏会だ。お前の主人がこれ以上アラン殿下にご迷惑をおかけしないよう、せいぜい首輪をきつく締めておくことだな」


 それだけを言い残し、彼は長い脚で音もなく去っていく。

 その背中を見送りながら、私はぎゅっと拳を握りしめた。

 彼の言う通りだ。卒業記念舞踏会は、アリアンヌ様がアラン殿下の婚約者として、その地位を不動のものにするための最も重要な舞台。

 絶対に失敗は許されない。


 舞踏会までの数日間、私は文字通り寝る間も惜しんで準備に奔走した。

 アリアンヌ様が纏うドレスは、王都一のデザイナーに作らせた一点物。

 そのドレスに合わせる宝飾品は、公爵家の宝物庫から最も格式高いものを選び出した。

 そして彼女が他の令嬢たちの中で最も輝けるよう、あらゆる情報を集め、想定されるトラブルへの対策を練った。


 特に警戒していたのは、やはりケイトリン男爵令嬢の存在だ。

 彼女は最近、何かとアラン殿下に近づき、その健気で儚げな姿で殿下の同情を引いている。

 アリアンヌ様は苛立ちを隠さず、「あの女、舞踏会で恥をかかせてやるわ」と息巻いていた。


「リリア、いいこと思いついたわ。あんた、あの女が階段から足を踏み外すように、ちょっと細工してきなさい」


「アリアンヌ様、それは……」


「何よ、できないって言うの? 私の命令が聞けないの?」


 血の気の引くような命令だった。傷害罪に問われかねない危険な行為。

 しかし、アリアンヌ様の瞳は本気だった。ここで私が拒めば、どんな仕打ちが待っているか分からない。


「……かしこまりました」


 私は深くうなずくしかなかった。

 もちろん、本当に男爵令嬢を傷つけるつもりはない。

 アリアンヌ様には細工をすると約束し、実際には何もしない。

 後で「失敗しました」と報告して、彼女の怒りを一身に受ければいい。

 いつも通りの、汚れ仕事だ。


 そして、運命の卒業記念舞踏会当日。

 煌びやかなシャンデリアが照らす大広間は、着飾った貴族たちで埋め尽くされている。

 その中でも、アリアンヌ様はひときわ美しく輝いていた。

 アラン殿下のエスコートを受け、優雅に踊る姿は、まるで物語のお姫様のようだ。


 私は壁際に控えて、その光景を静かに見守っていた。

 どうか、何事もなくこの夜が終わりますように。そう祈っていた矢先だった。


「きゃあああっ!」


 悲鳴は、大階段の方から聞こえた。

 視線を向けると、そこには倒れ込むケイトリン男爵令嬢と、その傍らに凍りついたように立ち尽くすアリアンヌ様の姿があった。


『しまった……!』


 私が細工をしなかったにもかかわらず、事故は起きてしまった。

 いや、あるいはこれは事故ではないのかもしれない。アリアンヌ様が、私に隠れて何かをしたのか。


 すぐにアラン殿下が駆け寄り、ケイトリン嬢を抱き起こす。


「大丈夫か、ケイトリン嬢! 一体誰がこんなことを!」


 ケイトリン嬢は涙を浮かべ、か細い指でアリアンヌ様を指さした。


「アリアンヌ様が……私を……」


 その一言で場の空気は一変した。ざわめきが波のように広がる。

 アリアンヌ様は血の気を失い、震える唇で何かを言おうとするが、言葉にならない。


 その時、アラン殿下の隣に、いつの間にかクロード様が立っていた。

 彼の蒼い瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。

 それはまるで、これから起こるすべての悲劇を予見しているかのような、冷たい光を宿していた。

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