GIRLs! 〜新約聖書の裏庭〜 コリント編
倉井香矛哉
第1話 イストミア大祭
一世紀中葉、春のギリシャである。
──ギリシャか、ギリシアか。それは、今は不問としよう(詳しいことは、日本西洋古典学会公式ホームページのQ&Aコーナーを読んでくれ)。
オリンピック発祥の地と呼ばれるギリシャ。古代において、ギリシャはポリス(polis)と呼ばれる都市国家の集合体であった。新約聖書の本文には、もっぱらアカイア、アテネ、コリントといった個別の都市名で記されることが多い。
じつは、オリンピック以外にも、古代ギリシャの各地でさまざまな祭典が催されていた。オリンピア、ピューティア、ネメア、イストミア、これら4つの競技祭典は四大大会(或いは四大競技祭典)と呼ばれ、神々への祭祀と結びつき、大いに人気を博した。
そのうちの一つ、二年に一度、コリント地方の東側で開催されるイストミア大祭が、まもなく開幕を迎えようとしていた。
この祭典は、海神ポセイドンをまつる地方祭典である。同時に、帝政ローマの時代には、皇帝崇拝を基盤とする国家主義に組み込まれ、帝国各地のさまざまな階層からなる領民を統合する祝祭空間の一つとして再編されていく側面もあった。
……
「おっす、おっす!!
ケンクレアイの女性奉仕者フェベが、会堂に集結した仲間たちの前で語っている。彼女は、コリント地方一帯のキリスト者が今回のお祭りに参加するにあたって、陣頭指揮を執っている。
普段は自由気ままな彼女だが、今日は、
コリント市の南東、サロニコス湾からエーゲ海を経由してアジア(ここでは、小アジア、すなわち現在のトルコ一帯を指す)との交易を行う中継地点が、ケンクレアイである。
そして、フェベこそは、当地の教会を指導する奉仕者に他ならない。人呼んで、みはるかすエーゲの
フェベは、今、会衆の前で力説している。
「ここ、コリント、ケンクレアイは、昔から地震や津波などの自然災害に見舞われてきた。それでも
「
会衆の一人がふざけて聞く。この教会には子どもが多い。執事の考えるべきことは多い。
「それは重大議案やから後な笑笑 せやけどギリシャは自由や! 心配することあらへん。──ともかく!! 震災で亡くなった方々のぶんも毎日を大切に生きてゆこう。それが!! うちらコリントの
震災復興。それは、近年のイストミア大祭の全体テーマにもなっている。くわえて、数年前にはローマ帝国全域で未知の感染症が拡大し、人々は、大幅な行動変容、活動自粛を強いられた。当時、お祭りなどの不要不急の行事は、ほとんどが中止または延期することを余儀なくされた。
しかし今、パンデミックはようやく終息しつつある。人々は街に戻り、さまざまな活動が再開しはじめた。
人々は、自然災害や感染症の拡大を経験する過程で、人と人とのつながりの大切さを再認識していた。殊に、未知の感染症の拡散は目には見えぬ事柄であるゆえ、人々は不安にかられ、孤立し、しばしば衝突し、社会の分断が進んでしまった。
傷つく中で、人々は学んだ。
──人が独りでいるのは良くない、社会は助け合う者なしでは成り立たない、と。
今回のイストミア大祭は、パンデミック終息後の、最初の博覧会として位置づけられている。コリント市の威信をかけた、国際的祭典。そのお祭りで「にぎわい」を創出する飲食ブースとして、市の南東ケンクレアイのキリスト教会も正式に出展する予定なのだ。人と人とをつなぎ、地域と共にある教会として再出発するために。今日は、その出展申し込みにあたって、地域住民を招いての事前説明会なのである。
今日、説明会に出席している指導者は、フェベだけではない。初代キリスト教会の第一の使徒、またの名を超絶おてんばお嬢さん! マグダラのマリアも一緒である。
「ひっさしぶりのお祭り!! たのしみだーーッ!! ワクワクするなァ〜〜!!」
マリアは、お祭りごとが大好きである。フェベの大演説を聴きながらも、マリアは、頭の中ではすっかり賑やかな祭典の風景を思い描いているのであった。
古来、ユダヤ民族の生活は、祭りと暦によって規定されてきた。季節ごとの祭礼、毎年の儀式。──人々は、
マグダラのマリアは信仰を守る人であったから、日々の生活においても、祭りと暦を重視している。……それもある、が、それよりも、単純に、お祭りは楽しい。おいしい食べ物に、愉快な出しもの。会場内を歩くだけでも、快活な心持ちになってくる。お祭り。それはとてもいいものだ。だが、今回マリアたちは、お客さんではいられない。楽しんでばかりではいられない。なにしろ、今回は自分たちでブース出展するのだから。
フェベの語りは、つづいている。
「ええな! 企画の運営は、自分一人でやるんやない、みんなで困難を乗り越えることに意味がある! せやけど出展手続きとかの細かいことは、うちがコリント市の責任者と話してきたから心配あらへん。みんなには、
「ほあ」
突然のご指名、マリアは上の空であった。彼女は、こういう会議になると、だいたい主旨とは関係ないことを想像している。しかし、フェベは真剣な目で告げる。
「ええなマリア!! 今回、うちとマリアが主役やねん!! 二人で女子みんなまとめて、みんなで出店やるで!!」
──えっ、あたしも主役?!
マリアはちょっと慌てている。
たしかに、彼女は出展手伝いのために、ケンクレアイへ呼ばれてきた。だが、実際のところ、コリント市のことに詳しくないし、イベントごとを器用にこなす手腕もない。
マリアはてっきり、今回、「むつかしいことはぜんぶフェベがしてくれる」ものと思い込んでいた。そこは、彼女の甘えであった。マリアは、内心、お祭りでどんな料理を食べようか、あれも、これも、と想像を巡らせていたのだ。オリーブオイルがよくあう大麦のパン、コーカサス地方の煮込み料理、羊の肉のロースト、ひよこ豆とハーブのペースト、デーツにいちじく、ヨーグルト! ……大規模なイベントになると、会場内で世界中の素晴らしい料理を一度に堪能できる。今や、マリアの頭の中には、各地の郷土料理や名産品が、ぐるぐる回っているありさまだ。
そんな彼女に、フェベはとつぜん、みんなをまとめろ、という。
う〜ん、第一の使徒マグダラのマリア。なんだか、たいへんなことになりそうだぞ?
…………
これは、前回のおはなしの数年前。──マグダラのマリアがエフェソで騒動を起こして、パウロのいるティラノの講堂へと向かった、あの夏の日の小さな冒険から、ちょっとだけ時間をさかのぼる。
さかのぼったぶん、彼女たちは、前回よりもちょっと幼い。マグダラのマリアは、少女だった頃の荒削りで烈しい性格を残している。だけども、彼女の信仰的情熱は、すでに心の中で燃え上がっていた。
なにはともあれ、決断の時だ。
──みんなで、コリント市の祭典、イストミア大祭で出店をやろう。そうだとも。マリアは、今回、そのために予定を変更して、はるばるケンクレアイへ来たのだから。
ことのはじまりは、コリント教会の信徒一同から、当時アンティオキアを訪問していたマグダラのマリア宛てに、一通のお手紙が届いたことである。
※註:日本西洋古典学会公式ホームページのQ&Aコーナー「『ギリシャ』と『ギリシア』、どちらが正しいのでしょうか?」( https://clsoc.jp/QA/2019/20190619.html )
次の更新予定
毎週 日・水 22:22 予定は変更される可能性があります
GIRLs! 〜新約聖書の裏庭〜 コリント編 倉井香矛哉 @kamuya_kurai
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