クマとカメ
中田甲人
「クマとカメ」
調理完了を知らせる電子音が、土曜昼下がりのキッチンに響いた。
レンジを開けると、バニラの甘い香りがふわっと広がる。
ラップはせずに、六〇〇ワットで二分ちょうど。
少し柔らかめが晶子の好みだ。
耐熱ガラスの容器を取り出してトレーに並べる。
「しょうこー、プリンできたよー」
鍋つかみを外しながら、部屋に呼びかけた。
---
「んー、甘くておいしい」
スプーンを口に入れたまま、器用に喋る。
普段は物静かな子だけど、お菓子を食べているときはご機嫌だ。
「まだ熱いから、やけどしないでね。
……もう、食べてる時くらいそれ、やめときなさい」
「えー、だって」
「もう。晶子は最近、お絵かき大好きだね」
「うん。ねぇ見て、これ」
なんだろう。おおきな黒い影?
小人に囲まれた、黒いガリバー。
はいはいと聞き流しながら、口の周りについたカラメルを指で拭ってあげた。
---
好奇心旺盛な晶子は、これまでもいろんな遊びに熱中してきた。
ブロック遊び、風船遊び、クロスワードにジグソーパズル。
男の子に混じって夕方までサッカーしていたこともあったっけ。
怪我しないか心配で、わざわざ公園まで様子を見に行ったこともある。
今度はお絵かきか。
頑張ってる子には、ごほうびをあげなくちゃ。
きっと、そのほうがいい。
リビングでアニメを横目に、十二色色鉛筆で自由帳と格闘している姿を眺める。
薄茶色の柔らかい猫っ毛。はっきりした目鼻立ち。
この子は多分、綺麗な子になるんだろうな。
「ねぇ、晶子」
「ん、なに?」
「最近、お絵かきすっごく頑張ってるから、お小遣いあげよっか」
「え! いいの?」
目を輝かせる。
「うん。じゃあ——はい、百円」
「やったー」
その日から、以前に増して私の見える範囲で絵を描くようになった。
---
「そんなー、褒めすぎですよ。うちの子なんて、ほんと引っ込み思案で、飽きっぽくて……」
「いやいや、本当にすごいんですって。鈴木先生、晶子ちゃんの絵、皆の前で褒めてたらしいですよ?」
「えー、本当ですかぁ? どうなんですかねー」
「すごいわよー、鈴木先生、めったに褒めないんだから。——あ、ごめん、旦那帰ってきた。じゃあまたね」
「はーい」
受話器を静かに置く。
遥ちゃんのお母さんは、一度火がつくと延々と喋るタイプだ。
旦那さん、グッジョブ。
同じ姿勢で話していたせいで凝った背筋を伸ばしていると、
ダイニングテーブルで絵を描いていた晶子が、こちらを見ているのに気づく。
「……お母さん、ひっこみじあんって、なに?」
「んー、そうだねぇ。“しずかなおりこうさん”ってことだよ」
「ふーん」
気のない返事をする晶子。
短くなった青い色鉛筆の丸まった先端をじっと見ている。
「それより、夜ご飯なに食べたい? なんでもいいよ?」
「えー……じゃあ、さばみそ」
突然の渋いチョイスに、思わず笑ってしまう。
「でも今、お魚高いから、今日はハンバーグとかどう? 味噌ソースにしてさ」
「……うん。じゃあ、それでいい」
猫っ毛を軽くかき混ぜてあげてから、買い物に向かう。
出かけに晶子の描いた絵が目に入った。
一面の青にぽつんと緑の丸。なんだろう、島?
そこから無造作な楕円がいくつか伸びている。
まあ、なんでもいいか。
---
夜中すぎ、キッチンの薄い灯りだけつけて、夫と電話をしていた。
海外で単身赴任中のくせに、今日は妙に強気だ。
「もう、限界だよ。帰ったら話し合おう」
向こうがそう言うので、私はしばらく黙っていた。
沈黙は相手に勝手に喋らせる。便利なツールだ。
「離婚したいなら、どうぞ。でも家は私のものだから。もちろん晶子も」
「そんな言い方するなよ……」
「してるつもりないけど?」
ぽつ、ぽつ、と互いに小さな棘だけ投げ合う。
ふと後ろで床がきしんだ。
振り返ると、晶子が寝ぼけ眼で立っていた。
「……お母さん?」
「起きちゃったの? だいじょうぶ、ただのお話しだよ」
通話を切り、スマホを伏せたまま笑ってみせる。
晶子は何も聞いていないふりをして、そっと私の袖をつまんだ。
数日後。
晶子の担任の教師から、電話があった。
晶子がクラスメイトと喧嘩し、暴力を振るったという。
---
「三時間目の図工の授業中に、男の子に絵をからかわれて。
えー。それで、晶子ちゃんが怒っちゃったみたいで。
男の子の方は椅子から落ちちゃいましたが、尻もちをついたぐらいで、はい。あー怪我はなかったって聞いてますね。えー。
ただー、晶子ちゃんがねぇ、あのー、ちょっと取り乱しちゃってるので。
休ませてるんです。えー。保健室の方で」
大急ぎで準備を整え、学校に向かった。
保健室に入り、養護教諭に挨拶。
案内された先で仕切り用のカーテンを開けると、
帰る準備を済ませた晶子がベッドにぽつんと座っていた。
俯いた顔に髪がかかり、表情はよく見えない。
通奏低音のような空調の音。
窓の外に、昼休みのグラウンドで楽しそうに遊ぶ子供たちの姿が見えた。
「……じゃ、帰ろっか」
声を掛けると、晶子は何も言わずついてきた。
無言の帰り道の途中、手を引こうとしたが嫌がられてしまった。
---
夕日でオレンジに染まる晶子の部屋にそっと入る。
階段を登ってくる私の足音に気づいたのだろう。
ベッドの上、掛け布団を頭からかぶって息を殺している。
「……ね。晶子」
「……」
「先に晶子の絵をからかってきたのはあっちが悪いって、お母さんも思う。
でも、やっぱり、ぶったらだめだと思うな」
「……」
くぐもった、しゃくりあげる声。
「……ご飯、ラップして廊下においておくね。お腹が減ったら食べなさい」
大きくなる声を背に部屋を後にした。
---
私にはもう何もなく、晶子にはこれからがある。
そしていつの日か、晶子も私の前からいなくなる。
なら、それまでの時間を先延ばしにしたい。
何にも夢中になってほしくない。
私の顔色をうかがっていてほしい。
私は間違っている。
ただ、それはいけないことなのだろうか。
---
調理完了を知らせる電子音が、土曜昼下がりのキッチンに響いた。
思ったより真っ黒な出来になってしまったココアプリン。
見た目に不安を抱きつつ、部屋に呼びかける。
「しょうこー、プリンできたよー」
「最近、お絵かきしてないね?」
「……うん。なんかもう飽きちゃった」
「そっかぁ。お母さん、ちょっと残念だな」
「嘘つき」
クマとカメ 中田甲人 @nakata_kouto
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