第15話

扉が閉まる音がしてから、

 祈祷室は驚くほど静かになった。


 こんな静けさ、

 今まで一度も感じたことがなかった。


 いつもは――

 扉の向こうから彼の気配を感じた。


 歩く音も、呼吸も、

 静かでも確かに“側にいる”と分かる存在感。


 でも今夜は、

 その気配が消えていた。


(アーデンさん……)


 距離を置こうと言われた時の言葉が胸に刺さる。


「あなたの傍にいる資格がない」


 どうしてそんなことを言うの。

 わたしは……あなたにいてほしいのに。


 枕に顔を埋めると、

 胸の奥がじん、と熱くなった。


(わたし……何を言ってしまったんだろう……)


 責めるつもりなんてなかった。

 ただ、寂しくて、怖くて……

 祠で嘘をつかれたと感じて傷ついていた。


(アーデンさんも……苦しんでいたのに)


 そう気づくと、

 涙が一粒だけ頬を伝った。




 目を閉じようとすると、

 胸の奥が無理やり引っ張られるような感覚が走る。


(……痛っ……)


(……オイデ……)


 声だ。


 赤い残滓が呼んでいる。


 祠の奥から。

 深い、深い穴の底から。


(……イロ……ホシイ……

 ……ヨル……コソ……)


(やめて……)


 わたしは布団を握りしめる。


 でも、声は止まらない。


(……ヒトリ……デシカ……

 ……コレナイ……)


(ひとり、じゃない……

 ひとりにされたわけじゃない……

 アーデンさんは……!)


 そう思おうとしても、

 胸の奥がずきりと痛んだ。


(……ひとりに、なっちゃった……)


 赤い囁きが、

 その弱さに触れてくる。


(……コワイ……?

 ……ワタシ……ナラ……

 ……ナク……サナイヨ……)


(いや……っ!)


 耳を塞いでも、心の奥に響く。


(アーデンさん……早く戻ってきてよ……)


 でも、来ない。




 ふと、窓の外から小さな悲鳴が聞こえた。


「誰か――お母さんが……!」


 祈祷室を飛び出し、外へ出る。


 夜の村は薄紫の霧に包まれていた。

 昼間より濃く、重く、呼吸が苦しい。


(……星の色が……沈んでる……)


 見えるはずの星の光が、

 紫と黒に飲まれて震えている


家の前には、リトがいた。


「リトくん!」


「リィナ姉ちゃん……っ!

 お母さん、また……苦しがって……

 夢に声が聞こえるって……!」


(悪い夢……また?)


 小さく震える彼の手を握る。


「大丈夫。すぐに行くね」


 だが、そのとき。


 背後の闇から、

 微かな“足音”が響いた。




 ゆっくりと歩いて来たのは、

 以前、赤に“覆われていた”少女だった。


 今は正常な色に戻っている。

 でもその瞳はどこか虚ろだった。


「……リィナ、お姉さん……」


「大丈夫? もう苦しくない?」


 少女は首を振った。


「……また、来る。

 あの黒いお穴が……呼んでるよ」


 指を、村外れの祠の方向へ向けた。


「“かえして”って……

 “ほしを かえして”って……」


 その瞬間、

 空の星がひとつだけ――黒く瞬いた。


(……まずい……)


 星喰いの残滓が動き始めている。



(アーデンさんがいない……

 でも……今行かなきゃ……)


 胸の奥が苦しくて、

 足が震えている。


 だけど、

 誰かが助けを待っている。


 少女も、リトの母も、村の人も。


(怖い……けど……

 アーデンさんなら……背中を押してくれる……)


 わたしは祠の方を強く見つめた。


「行かなきゃ」


 呟くと、赤い囁きが静かに笑った気がした。


(……ソウ……ソレデイイ……

 ……オマエハ……ワタシノ……)


(違う……!

 行くのは“あなたの元”じゃない!)


 走り出そうとした瞬間――


「リィナ様っ!!」


 悲鳴のような声がした。


 それは、

 アーデンさんの声だった。



 彼は走ってきた。

 息が切れるほど。


「リィナ様、危険です!!

 祠の残滓が――動いている!!」


 彼の目は恐怖に揺れていた。

 でもそれ以上に、焦燥と後悔がにじんでいた。


「どうして戻ってきたんですか……」


 問いかけると、

 アーデンさんはわたしの手を強く握った。


「離れた瞬間に分かったんです……

 あなたを、こんな夜にひとりにしてはいけなかったと……!」


 その手は温かく、震えていた。


「すれ違っても……

 嫌われても……

 それでも私は、あなたを守りたい……!」


 胸が熱くなる。


(……ずるい人……

 そんなふうに言われたら……

 許しちゃうじゃない……)


 でもその一瞬の再会の温度を、

 夜の闇がかき消した。




 祠の方向から、

 地鳴りのような声が響いた。


(……クル……

 ……ホシノニオイ……

 ……チカイ……)


 地面が震える。


 少女が泣き出す。


 リトが母の家の前に隠れる。


 空の星がまたひとつ、黒く落ちた。


「アーデンさん……!」


「行きましょう、リィナ様!

 今度こそ、二人で倒す!!」


 その手を握り、

 わたしたちは祠へ走り出した。


(もう……逃げない。

 もう……ひとりじゃない)


 たとえ星喰いがどれほど深い闇でも――

 この手を離さなければ、大丈夫だ。

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