幕間 ──アーデン・ルーベルトの独白

扉を閉めた瞬間、

 膝が折れた。


 背中が壁にぶつかり、

 息がうまく吸えず、喉の奥が焼けるように痛くなった。


 泣いたことなど何年もなかったのに、

 涙が勝手に零れ落ちた。


(……どうして……

 あんな言い方をしてしまったんだ……)


 本当はわかっている。


 リィナ様は悪くない。

 傷つけるつもりなんて、ない。


 なのに――

 わたしは、彼女を傷つけてしまった。


(また……繰り返してしまう……)


 ずっと胸の奥で固まっていた“影”が動き出す。



 十年前。

 守れなかった少女――エルナ。


 彼女も巫女だった。

 リィナ様と同じように、

 優しくて、儚い声で星の色を語った。


 私は何度も言った。


「私の後ろにいてください」


 けれどエルナは前に出た。

 村を守るために。

 皆を救うために。


 その日、星喰いはあらゆる色を飲み込んでいた。

 エルナだけが唯一、闇を“色として”見ていた。


 だが私は何も見えなかった。


 彼女が何を見て、

 どこに敵がいて、

 どれほど恐ろしいものを見ているのか――

 私には理解できなかった。


 だから“遅れた”。


 エルナが叫んだとき、

 わたしは違う方向へ走った。


 星喰いの影が彼女を飲み込むのを、

 ただ遠くで見ていた。


何ひとつできなかった。


 剣も、叫びも、祈りも。

 すべて間に合わなかった。


(また……同じことが起こる……)


 その恐怖が喉を締めつける。



「あなたを守りたい」


 本当の気持ちは、

 もっと醜い。


(あなたを失ったら……

 私は……もう立っていられない……)


 その弱さを見せたくない。

 嫌われたくない。

 拒まれたくない。


 そんな自分を見せたくなくて、

 嘘をついた。


 祠でリィナ様に問われても、

 私は答えられなかった。


「アーデンさん、嘘をついてるんですか?」


 あの問いは、胸に深く刺さったまま抜けない。


(正直に言えばよかった……

 “怖いから逃げたんだ”って……

 “あなたを守れない自分が……怖いんだ”って……)


 でも、言えなかった。


 彼女が失望するのが怖かった。

 嫌われるのが怖かった。

 距離を置かれるのが、何より怖かった。


 そして皮肉にも――

 その恐れが、彼女との距離を生んだ。




 リィナ様は強い。

 星に触れ、痛みに耐え、

 少女を救い、村の闇を見抜き、

 恐れてなお、前へ進む。


 どれほど傷ついても、

 彼女は誰かのために光を使う。


 ――それが怖い。


(どうしてそこまで……

 誰かのために、迷いなく前へ進めるんだ……?)


 アーデン・ルーベルトができなかったことを、

 彼女は軽々と越えてしまう。


 その光が眩しすぎて、

 追いかけようと手を伸ばしても、

 いつか届かなくなる気がして。


 だから、前に出てほしくなかった。

 彼女の光を、影に落としたくなかった。


 護衛の責務?

 違う。


――わたしの“弱さ”が、

 彼女を檻に閉じ込めようとしていたのだ。




「今夜だけは、ひとりにしてください」


 言ってしまった瞬間、

 自分の愚かさに気づいた。


(なんてことを……

 彼女をひとりにすれば……

 赤の囁きはもっと深く入り込むのに……)


 護衛として最低だ。

 人間としても最低だ。


 でも――

 あの瞬間のわたしは、

 彼女の優しさに触れるのが怖かった。


(……もう、誰も守れないと

 思い知らされるのが怖かったんだ……)


 背中を丸めて、壁に額を押し付ける。


「リィナ様……

 本当に……すみません……」


 声に出した瞬間、涙が零れた。


(でも……

 本当は――離れたくない……)


 ずっと、そばにいたい。

 彼女の光に触れていたい。

 彼女の笑顔を見ていたい。


 なのにその願いが、

 彼女を傷つけている。




 祈祷室の扉の向こうで、

 リィナ様が息をしている気配がする。


(……どうか、眠れていてくれ……)


 赤の残滓は、必ず彼女を狙う。

 祠の奥で、あれはまだ呼んでいる。


 星を見られるのは

 世界でただひとり、リィナ様だけ。


 だからこそ――

 あれは彼女を“喰いたがる”。


(……次に近づいてきたら……

 私の命を差し出してでも、

 あなたを守る……)


 胸に手を当てて、

 静かに誓った。


「わたしは……あなたを二度と失わない」


 願いにも似た、その決意が痛いほど胸に刺さる。


(もし……それでまたすれ違っても……

 それでも構わない)


 地面には、ぽたりと一滴だけ涙の跡があった。

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