幕間 ──赤の街で、揺れる影(アーデン視点)



 ホルンの街が視界に入った瞬間、胸の奥にざらつきが走った。


 風が重い。

 湿気ではない。

 まるで空気そのものが“怒っている”。


(この気配……報告より深刻だな)


 星が見えぬわたしにも、嫌な予感だけは分かる。


 そんな中、隣でリィナ様がふと立ち止まり、空を見上げた。


「……赤い……すごい赤……!」


 怯えたような、その声。


 わたしの心臓がひやりと冷えた。


「リィナ様、離れないでください」


「あ……はい……」


 声が震えている。

 手も、細く震えている。


(この街の“赤”は……彼女には強すぎる)


 星が見えるというのは祝福ではない。

 星読みは、感情の刃を“素手で掴む”ようなものだ。


 門に近づくほど、怒号が増えていった。


「どけよ!!」


「てめえが先に割り込んだんだろうが!」


 怒りの波。

 憎しみの叫び。

 その全てが、星としてリィナ様に襲いかかっている。


 ――それが、わたしには見えない。


 その事実が、胸の奥に鈍い痛みを生む。


 星が見えないということが、悔しい。彼女の痛みを、辛さを軽減できないのが悔しい。これは護衛としては出過ぎた感情であろう。それでも悔しいのだ。




「っ……!」


 リィナ様の膝が折れ、胸を押さえる。


「リィナ様!」


 反射的に腕を伸ばし、抱きとめた。


 細い肩が震えている。

 指先が冷たい。

 呼吸が浅く、まるでどこか深い場所へ引きずられそうな顔。


(まずい……! このままでは星に呑まれる)


「リィナ様、視界を閉じて! 星を見ないでください!」


「っ……アーデン……さん……!」


 彼女の声が弱い。

 あまりに弱い。


 その声の頼りなさが、胸を掴んで離さない。


「大丈夫です。わたしがいます。……わたしを見てください」


 震える手を包み込み、呼吸を合わせるように胸元へ引き寄せる。


 彼女の額がわたしの胸に触れた瞬間――


 リィナ様の震えが、ほんの少しだけ収まった。


(……よかった……追いついた……)


 しかし同時に、胸に鋭い痛みが走る。


 この温度は、護衛の務めとは別の何かを刺激する。


抱きしめる腕に力が入るのを、自分でも制御できなかった。


「リィナ様……苦しいときは、わたしの声だけを聞いてください。

 周囲の怒りは無視していい。あなたには必要のない痛みです」


「……っ、はい……」


 その返事があまりにか細くて、

 わたしは今にも彼女を抱き上げて街から連れ出したい衝動に駆られた。


(どうして……これほどまでに)


 どうして彼女が苦しむと、胸が裂かれたような気持ちになるのか。


 仕事だからではない。

 使命だからでもない。


 もっと……手の施しようがないほど個人的で、

 本来、わたしが持つべきではない感情。


(恋に気づくな、アーデン。

 この感情は、彼女の星を危うくする)


 頭では分かっている。

 けれど胸は、彼女を離したくないと強く訴えていた。



 周囲の怒りの渦の中、ひとつだけ異質な気配があった。


(……この重さ……どこかで感じた……)


 そう、昨日の村で。

 祠の地下に眠っていた“黒”の気配。


 リィナ様は苦しげに胸を押さえたまま言った。


「この赤……怒りだけじゃない……

 外から来てる……何かが……混ざってる……!」


 鼓動が跳ねた。


(やはり……!)


 星喰いの残滓。

 村の祠にあった“闇”。

 星読みの巫女が贄にされていた歴史。


 あれが、この街にも根を伸ばしている……?


 そんな思考の途中で、リィナ様の身体から力が抜けかけた。


「っ……リィナ様!」


 強く抱き寄せる。


「もう無理をしないでください……!

 あなたまで……あなたまで消耗したら――」


 言葉の続きは飲み込んだ。


(あなたが壊れたら、わたしは……どうすればいい)


 そんな言葉を、言えるはずがない。



 彼女を支えながら、静かに呼吸を整える。


「……アーデンさんの声……おちつきます……」


 胸元で、小さくそう呟かれた。


 その瞬間、心臓が跳ねた。


(……どうして……そんな言葉を……)


 彼女にとっては、“安心できる誰か”の一言にすぎないのだろう。

 だが、わたしには――


 まるで告白のように聞こえてしまう。


(いけない……浮かれるな。

 距離を間違えれば、彼女の星に触れてしまう)


 そう分かっていながら、

 腕の力を緩められなかった。


 赤い星の渦の中で、彼女の震えだけが現実で、

 彼女の温度だけがわたしを動かしていた。

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