第6話

翌日の夕暮れ、村の中心にある広場には柔らかな橙色の光が満ちていた。


 昼間の調査を終えたリィナは、宿に戻る前にもう一度だけ空を見上げた。


「……まだ、紫が多いなぁ……」


 村の星は依然として弱い悲しみの色だ。

 重く沈む黒ではないが、希望の白もほとんど混ざっていない。


 そんな彼女に、アーデンが声をかけた。


「リィナ様。今日はもう星を見すぎています。宿に戻りましょう」


「うん……でも、もう少しだけ練習したいかも、です……。昨日みたいに、急に見え方が乱れたりしないように」


「……練習、ですか」


「はい」


 アーデンは少しだけ黙り、やがて静かに頷いた。


「では、この村の外れで。人が少ない方が集中できるでしょう」


「行きましょう!」


 リィナはぱっと顔を明るくした。


 ……その明るさに、アーデンが胸の奥で何かを押し殺すように目を細めたことには、彼女は気づかない。




 村の外れ。

 昨日ふたりが腰を下ろした小さな丘は、夜風が静かに通り抜けていく。


 空には無数の星。

 しかし、その輝きも、リィナにしか“本当の色”は見えない。


「ここなら大丈夫です。疲れたらすぐに休んでください」


「ありがとうございます。じゃあ……星の見方、少し確認してみますね」


 リィナは深呼吸をして、ゆっくりと空へ意識を向けた。


 その瞬間――


(あ、やば……)


 視界が少しだけ揺れた。


「……っ」


「リィナ様?」


 アーデンが即座に気づき、隣に座る距離がぐっと近づく。


「違います、違うんです……ちょっと集中しすぎただけで……」


「あなたの“ちょっと”は当てにならないと先日学びました。」


「う……」


 言い返せず、リィナは頬を膨らませた。


 アーデンは、疲れを見抜くように彼女の手元へそっと視線を落とす。


「星を見るとき、あなたはいつも肩に力が入りすぎている。呼吸が浅くなる。無理に視界を開こうとしすぎです」


「そう……なんですか?」


「ええ。昨日もそうでした」


「……どうすれば、力を抜けるんでしょう」


 ぽつりと漏らした言葉に、アーデンは少しだけ考えるように空を見た。


 そして、


「……こうすればいいのでは?」


 と言って、リィナの肩の後ろにそっと手を添えた。


「えっ……?」


「背筋を伸ばしすぎているのです。支えがあれば、余計な力が入らないはず」


「支え……?」


「はい。わたしが後ろから支えます。力を抜きやすいでしょう」


(……ちょ……近……)


 リィナは一瞬で顔が熱くなった。


 アーデンの片膝がリィナの背後に触れる。

 手は肩甲骨の少し下。

 ちょうど背中を守るような位置。


(む、無理……むりむりむり……)


 雄大な夜空より、今はアーデンの距離の方が気になって仕方がない。


「深呼吸をしましょう。肩を落として」


「……は、はい……」


「吸って……ゆっくり吐いて。そうです」


 落ち着くどころか、心臓が暴走していく。


(アーデンさん、なんでこんな優しい声出すの……!?

 落ち着けって無理じゃない?)


「……星の色はどうですか」


「え、あ……えっと……」


 もう星どころではなかった。


 けれど、アーデンは真剣だ。


「視界が揺れませんか?」


「……す、少し……」


「では、わたしが少し姿勢を調整します。失礼」


 そう言うと、アーデンの手がリィナの腰に軽く触れた。


「っ……!」


 息が止まる。


「力が入っている。腰を少しだけ前へ」


「あ、あの……アーデンさん……!」


「はい」


「ち、近くないですか……?」


 自分で言った瞬間、顔がさらに熱くなる。

 言うんじゃなかった。


 アーデンは一瞬驚いたようにまばたきし、それから淡々と答えた。


「これくらいの距離でなければ、姿勢を支えられません」


「で、ですよね……!」


(落ち着け……! 落ち着け……!!)


 彼の手が震えていないのに気づき、リィナの胸はさらにざわつく。


(……私は震えてるのに……アーデンさんは、すごい……冷静……)


「では、もう一度。空を見てください」


「……はい」


 ゆっくりと星を見上げる。


 昨日より、確かに見えやすい。

 視界が安定している。

 気のせいか、星の声も穏やかに聞こえる。


「……見えます。昨日より、全然……」


「良かった」


 アーデンの声が、すぐ後ろからふわりと落ちてくる。


(……だめだよ……そんな優しい声……)


 胸がまた熱くなる。


 星を読むたびに胸が痛くなるのと違う、名前のない熱。


 その熱が、じわりと広がっていくのを感じた。


「……リィナ様」


「はい?」


「今のあなたの顔……とても、穏やかです」


「えっ」


「星を見ているときの、苦しそうな表情ではなく……優しい顔です」


「そ、それは……アーデンさんが支えてくれてるから……」


 言った瞬間、アーデンの指がぴくりと動いた。


「……そうですか。ならば、良かった」


 なぜか、少しだけ声が低い。


 リィナは、胸がどきりと跳ねるのを感じた。



「今日の練習は、ここまでにしましょう」


「……はい。ありがとうございます」


「無理はしませんでしたか?」


「ぜんぜん……! むしろ、アーデンさんのおかげで……すごく楽でした……」


 言ってから、恥ずかしさがじわじわ襲ってきた。


(な、何言ってるの私……!?)


 夕闇の中、アーデンはじっとリィナを見つめている。


「……そう思ってもらえたなら、何よりです」


 その言葉が、火照った胸にそっと落ちていく。


 そして――


「今日はよく頑張りました。リィナ様」


 優しく頭を撫でられた。


「っ……!」


 さっきよりも心臓が跳ねた。



 リィナは耳まで真っ赤になる。


 アーデンは気づいているのか、いないのか。

 ただ静かに笑って、手を離した。


「さあ、宿に戻りましょう。冷えます」


「……はい……」


 夜風は冷たいのに、リィナの頬はずっと熱いままだった。


 そしてアーデンの心にも、静かに熱が灯っていたことを、リィナはまだ知らない。

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