幕間

幕間 


 星の乱れが報告されたとき、最初に呼び出されたのは、巫女ではなく、わたしだった。


「アーデン。星読みの巫女の護衛を命ずる」


 大司祭の言葉に、わたしは即座に頭を下げた。


「星の乱れが、巫女様に及ぶほどの規模なのですね」


「そうだ。星読みの巫女リィナの星が、大きく揺らいでいる。彼女自身が倒れれば、この世界から星読みは絶えるだろう」


「……承知しました」


 それは、決して拒めない命令だった。


 ――表向きは。


 実際には、わたし自身が最も望んでいたことでもある。


 星読みの巫女を、側で見張ること。

 透明の星を、側で観測すること。

 そして――破滅の鍵が開かないよう、必要とあらば、自らの手でそれを閉ざすこと。


 それが、わたしに与えられた役目だ。


 星喰いの封印。

 透明の星。

 “恋は、色を持たない”。


 古文書の行間に埋もれたその言葉を見つけたときから、わたしの人生は、とっくにこの少女へ向かっていたのかもしれない。


  ◇


 初めて彼女を見たのは、祭壇の上だった。


 星を仰いで立つその姿は、ふわりと光をまとったように見えた。

 白い修道服。

 透ける袖。

 揺れる髪。


 星の光が降り注ぐ中、リィナはそっと呟いた。


「……まるで、嵐みたい……」


 その瞬間、わたしは悟った。


 ああ、本当に“視えているのだ”と。


 星の乱れが、彼女の目を通して世界に流れ込み、その細い身体を軋ませている。


 祭壇の上で、彼女は膝を折りかけていた。


 倒れる。

 そう思った時には、すでに身体が動いていた。


「立てますか」


 支えた腕は、驚くほど軽い。

 布越しにも分かるくらい、小さく震えていた。


「……あの」


 顔を上げた彼女は、思っていたよりも幼く、そして、思っていたよりも強い眼をしていた。


 その眼が、一瞬、わたしの頭上の空へと向く。


 分かっていた。

 星読みである彼女は、わたしの星を見ようとするだろう。


 どう見えるのかも分かっていた。


 ――何もない、空白として。


(……見えるか)


 問いかけるような気持ちで、わたしは星を見上げる彼女を見つめた。


 次の瞬間、彼女の瞳が揺れる。


(気づいたな)


 自分でも気づかないうちに、息を詰めていた。


 彼女は、わたしの星を“見ようとして、見えない”という経験を、初めてしたのだろう。


 色を持たない、透明な星。

 恋の核。

 封印の鍵。


 彼女がそれに気づくには、まだ早すぎる。


「どうかなさいましたか」


 あえて、平静な声で尋ねる。


 リィナははっとして、慌てて視線を逸らした。


「えっ」


「さきほどから、わたしの顔をじっと見つめているようですが」


「あっ、い、いえっ! あの、その……!」


 狼狽え方が、まるで小動物のようで、思わず目を細めてしまいそうになる。


 危険だ。

 この感情は、距離を誤らせる。


 だからこそ、口にする言葉は常に慎重に選んだ。


「星の乱れで、まだ気分が優れないのでしょう。ここは一旦、お部屋へお戻りください」


 本当は、彼女が星を怖がっているように見えたから、さっさとあの場から遠ざけたかっただけだ。


 だが、護衛という立場があれば、いくらでも言い訳は作れる。


 彼女の重さを、わたしの腕は覚えていた。


 それが、厄介なほど心地よく感じられたことも。


  ◇


 旅に出ることが決まった翌朝、彼女の部屋を訪ねたときも、同じだった。


 緊張しながら荷物袋を抱えている彼女は、塔から見下ろす星とは違う、地上の光をまとっていた。


「支度はお済みですか」


「いちおう……これくらいしか持っていくものがなくて」


 布袋の口から覗いた星図。

 星を読み続ける者の覚悟が、そこにあった。


 彼女は、己の力がどれほど危ういものかを自覚していない。

 世界の均衡を左右するほどの器であることも知らない。


 それが、怖くもあり、羨ましくもあった。


「……アーデンさんは、不安じゃないんですか? 私の星が乱れてるって、聞いたのに」


 真正面から向けられた瞳。

 ああ、この人は本当に“何も知らない”のだと、改めて思い知らされる。


「危険性は、承知しています」


 それは事実だ。


 彼女が恋を知れば、星の封印は揺らぐ。

 透明の星が核を露わにすれば、この世界は再び星喰いの脅威に晒される。


 古文書はそう警告していた。


 だが、そこにはもう一文あった。


 ――恋こそが、鍵を閉じる唯一の術である。


 それを、教会に伝えたことはない。

 信じてもらえるはずがないと思ったからだ。


 そして何より、わたし自身が、その真実を恐れていた。


 彼女が恋を知れば、世界は救われるかもしれない。

 だが同時に、彼女自身が、その代償を払うことになるかもしれない。


 それだけは、どうしても受け入れたくなかった。


 だから、わたしは選んだ。


 彼女の隣に立ち、その星を見守りながら――可能な限り、彼女の恋が痛みにならないようにと、祈り続けることを。


 それが、愚かしいと知りながら。


  ◇


 東の村に入った瞬間、空気の味が変わった。


 星読みではないわたしにも分かるほど、ここには淀んだ気配が漂っている。


 リィナはすぐに、空を見上げた。


「ここの星……みんな、少し泣いてるみたいです」


 その言葉に、わたしは目を細めた。


 ここへ来るまでの道中で分かったことがある。


 彼女は、星の色を見るだけでなく、感情そのものを “少しだけ” 自分の内側に取り込んでしまうらしい。


 そうでなければ、人の星を見ただけで、あんなに胸を押さえて苦しそうな顔をするはずがない。


 星読みの巫女というのは、どこまでが“仕事”で、どこからが“傷”なのだろう。


「無理はしないでください」


 そう言わずにはいられなかった。


 それでも彼女は、村人たちの星をひとつひとつ見て回り、疲れた顔で「まだ間に合う」と言っていた。


 あのとき、わたしは思っていた以上に胸を撫で下ろしていたのだと思う。


 星が絶望に染まっていたら。

 彼女が「もうダメです」と口にしたら。


 それを聞く自分が、どんな顔をするのか想像したくなかった。


  ◇


 外れの家の前に立ったとき、わたしは一瞬、足を止めた。


 見なくても分かる。

 この家には、疲れた星が宿っている。


扉が開き、痩せた少年が顔を出した。


 リト。

 その頭上の星は、紫と灰色が混じった色をしていた。


 母親を支えながら、自分自身もすり減っていく子どもの星だ。


 リィナが、その星を見て表情を曇らせた瞬間、わたしは危険だと直感した。


(深入りする)


 彼女は、他人の痛みに、簡単に心を裂かれてしまう。


 彼女は、自分の星でさえ守れていないのに、他人の星まで抱え込もうとする。


 ――だから、見張らなければならない。


 けれど、ベッドに横たわる母親の姿を見たとき、止めに入るタイミングを一歩遅らせたのも、また事実だった。



(……まだ、間に合う)


その言葉を聞いて、止めに入れなかったというほうが正しいだろうか。


 だからこそ、彼女は星に手を伸ばしかけ――。


「リィナ様」


 その手を、わたしは掴んだ。


 星へ直接触れようとすれば、彼女の感覚は星と混ざり合う。

 力の制御が甘い今の彼女では、相手の絶望ごと引き受けかねない。


 そして、それが誰より危険であることを、彼女自身が知らない。


「無闇に星へ触れようとするのは危険です」


 あれは、警告ではなく、懇願に近かった。


 リトの涙に、彼女はすぐに呑まれてしまう。

 抱きしめる腕は、優しすぎる。


 星読みとしては正しい。

 だが、一人の人間としては、脆すぎる。


 星を読みすぎる者は、自分の心を壊す。


 わたしは何度も、古文書でそういう末路を見てきた。


(あなたまで、そのひとりになる必要はない)


「ここまでです、リィナ様!」


 思わず、声が鋭くなっていた。


 彼女の頭上の星が、揺らいだ気配がしたからだ。もちろん私には自分の星は見えないが。それでもそう感じたのだ。


「これ以上、星を深く覗けば――あなた自身が倒れます」


 それは、誇張でも脅しでもない。

 事実だ。


 彼女の身体は、あまりにも細く、あまりにも繊細だ。

 星の重さを、そのまま受け止めるには脆すぎる。


「頼むから……あなた自身を犠牲にしないでくれ」


 口にしてから、自分でも言葉に驚いた。


 それは、護衛としての台詞ではなく、ほとんど個人的な感情の吐露に近い。


 彼女は、目を見開いてわたしを見上げた。


 その瞳には、星も、教会も、呪いも映っていない。

 ただ、目の前の少年を救えないかもしれない悔しさだけが映っていた。


 本当に――どうして、こんなにも愚かしいほど真っ直ぐなのだろう。


 わたしが彼女の手を握るたびに、透明な星の核が、僅かに光を増していく気がする。


 それが、恋の始まりだと知りながら。


 本来なら、その光を恐れるべき立場でありながら。


 わたしは、彼女が笑ってくれるなら、その光が少しぐらい強くなっても構わないと思ってしまっていた。


 星喰いが、この世に顕れるきっかけになるかもしれない光だとしても。


  ◇


 川沿いで、彼女に手を差し出したとき、震えていたのは、彼女の足だけではなかった。


「あなたが倒れたら、わたしの心臓に悪いというだけです」


 冗談めかして言ったつもりだった。


 だが、それは半分以上、本音だ。


 彼女が倒れるたび、わたしの胸は本当に止まりそうになる。


 星が乱れても、世界が傾いても、その危機は“仕事”として処理できる。

 だが、彼女が苦しむのは、どうしても“仕事”として割り切れない。


「わたしにとっては、そうとも限りません」


 本当のことを言えば、少しはブレーキになるかと思った。

 護衛として、これ以上彼女に無茶をさせないためにも。


 けれど、彼女はただ顔を赤くして、困ったように視線を泳がせるだけだった。


(……分かっていないのだろうな)


 彼女は、恋を“読めない”だけでなく、恋を“知らない”。


 恋の色がない世界に閉じ込められて育った少女だ。

 星に色があることを知りながら、自分の心にだけ色がないと思い込んでいる。


 そんな彼女が、自分に向けられた感情が何であるかに気づくには――時間がかかるだろう。


 ……それでいい、とも思っていた。


 彼女が恋を知るということは、透明の星が核を露わにするということ。


 それは、星喰いの封印が大きく揺れる合図でもある。


 おそらく、その瞬間が、この世界の分岐点だ。


 破滅か、救済か。

 どちらへ傾くのか、誰にも分からない。


 それでも。


 それでも、願ってしまうのだ。


(彼女が、恋を知るとき。

 どうか、その傍に、わたしがいられますように)


 星喰いの研究者としても、教団の魔導士としても、不適切すぎる願いだ。


 けれど、透明な星を見つめるほどに、その願いは強くなる。


 リィナの頭上で瞬く“空白”を見上げながら、わたしは心のどこかで、ずっと祈り続けている。


 ――どうか、この恋が、世界を壊すものではなく、救うものになりますように、と。


 その祈り自体がすでに、星の色を変え始めていることに、気づかないふりをしながら。


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