第5話

朝の光が差し込む頃、リィナは目を覚ました。

 昨日の疲れはまだほんのり残っているものの、胸の重さは幾分か和らいでいる。


(……今日は、あの家に行く)


 強い決意とまでは言えないけれど、妙に心があの家に惹かれていた。

 理由は分からない。ただ、星が“助けて”と何度も訴えているように感じたのだ。


 支度を整えたころ、扉の向こうから控えめにノックの音が響いた。


「リィナ様。入ってもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


 扉が開き、アーデンが姿を見せる。

 朝日を受けた紺色のロングコートが、微かに青く輝いている。


「おはようございます。体調はどうですか」


「大丈夫です。昨日より頭も軽いです」


「本当によかった」


 アーデンは短く息をつき、ほっとしたように笑った。

 その穏やかな表情に、リィナの胸はまたくすぐったくなる。


「では、行きましょう。まずは――」


「あの家、ですよね」


「はい。あなたが気にしていた場所ですから」


 自然すぎる返事に、リィナはつい目を瞬かせた。


(……私が言ったの、覚えてくれてたんだ)


 言いかけた言葉を飲み込み、うつむきながら小さくうなずいた。


  ◇


 村の外れにあるその家は、他の家々から少し離れてぽつんと立っていた。

 屋根は古く、壁は少しひび割れている。

 だけど、窓の前には花が植えられ、小さく手入れされた痕跡があった。


「誰かが……ちゃんと、ここで生きてるんだ」


 リィナが呟いた直後、家の扉がそっと開いた。


 出てきたのは、まだ幼さの残る少年だった。

 年齢は十歳前後だろうか。髪は栗色で、少し寝癖がついている。


「おはようございます。君は、この家の方でしょうか?」


 アーデンが丁寧に声をかけると、少年は少し緊張した面持ちでうなずいた。


「……はい。ぼく、リトって言います」


「私はえっと、星読みの巫女のリィナ。こちらは私の護衛をしてくださっているアーデンさん。昨日この村に来て……あなたたちの家の星を見に来ました」


 少年はリィナをじっと見つめる。

 その瞳には、驚きと、どこか怯えのような揺らぎがあった。


「……ぼく、お母さんが……」


 言葉が詰まり、少年は唇を噛む。


(あ……)


 リィナは胸が締めつけられるのを感じた。


 少年の頭上に浮かぶ星は、淡い紫と、深い疲労の灰色が混じっていた。

 そして、家の中から漏れ出ている星の色は――昨日見た通り、限界ぎりぎりの“擦り切れた紫”。


(これは……長い間、誰かを看病してる色……)


 心が痛む。


「リト君。お母さん、具合が悪いの?」


「……うん。ずっと……ずっと、寝てばっかりで。薬も祈りもきかなくて……」


 小さな声が震える。


「ぼくが、“もうだめなの?”って聞いたら、お医者さん……黙っちゃって……」


 その瞬間、リィナの胸の奥で、星の揺らぎが痛みとして走った。


「……見せてもらってもいい?」


「え……?」


「お母さんの星を、見てもいいかなって」


 迷うようにアーデンが横目でリィナを見てきた。

 けれどリィナは、そっと首を横に振った。


(大丈夫……たぶん……見なきゃ後悔する)


「……いいよ」


 リトは小さくうなずき、家の中へ案内してくれた。


  ◇


 中は薄暗く、薬草の匂いと煮込んだスープの香りが混ざって漂っていた。


 ベッドには痩せた女性が横たわっている。

 頬はこけ、呼吸は弱々しく、まぶたはぴくりとも動かない。


 その頭上に――“星”があった。


 淡い紫の層の奥に、濁った黒が小さくゆらゆらと揺れている。


(……黒……でも、完全な黒じゃない)


 黒星は死や絶望の象徴。

 しかし、この黒はまだ“点”だ。


(助けようとして頑張って……でも限界が来そうで……そんな感じ……)


 胸が苦しくて、思わず手を伸ばしそうになった。


「リィナ様」


 アーデンの声が、肩を押し留めるように響いた。


「無闇に星へ触れようとするのは危険です」


「ご、ごめんなさい……」


 衝動的に手が動いてしまった。

 星読みに慣れているはずなのに、今日はどうしてか心が揺れすぎている。


「……どう、なんですか」


 リトが不安げに問う。


 リィナはそっと息を整え、できるだけ優しく答えた。


「……まだ、手遅れじゃない。

 でも、お母さん……すごく疲れてる。もう一歩間違ったら、星が完全に黒くなってしまうかも」


「……!」


 少年は唇を噛み、涙をこらえる。


「でもね、まだ“白い光”が少しだけ残ってるの」


 リィナは続けた。


「希望が……少しだけ、残ってる。だから……大丈夫。絶対に、まだ間に合うよ」


「……ほ、ほんとう……?」


「星は嘘をつかないから」


 その言葉に、リトはぽろりと涙をこぼし、すぐに手で拭った。


「……助けて、ください……!

 お母さん、いつも……ぼくのために頑張ってくれてて……!!」


 小さな背中が震える。

 その姿に、リィナは耐えられず、そっと抱きしめた。

(……痛い。胸が、すごく痛い……)


 星を読む痛みなのか、少年の気持ちに引きずられているのか――自分でも分からない。


「リィナ様」


 アーデンの声が低く響いた。


「そろそろ離れてください。あなたがその感情を受けすぎると、星が乱れます」


「……はい……」


 ゆっくりとリトを離す。


 少年の星は少しだけ白が混ざり、胸の奥が温かくなった。


 けれど――。


(あ……また、頭痛……)


 視界がじんと揺れる。


 紫と黒の星が、ぐらっと色を変える。


(や……ばい……)


 その瞬間、アーデンが彼女の手首を強く掴んだ。


「ここまでです、リィナ様」


「で、でも……!」


「限界のように見えます!」


 アーデンの声はいつになく鋭かった。


「これ以上、星を深く覗けば――あなた自身が倒れます」


 リィナは思わず息を呑んだ。


 自分の頭上を見上げようとしたが、その前にアーデンが手で遮る。


「見るな」


 低く抑えた声が、胸に刺さる。


「今のあなたが自分の星を見れば、負担に耐えきれず気を失う」


「だ、でも……!

 お母さんの星は……今にも黒に飲まれそうで……!」


「それは分かっています。だが、あなたが倒れてしまえば、村全体の調査が止まる。助けられるものも助けられなくなる」


「……っ」


 悔しい。

 悔しいのに――アーデンの手の温度が、妙に落ち着く。


 彼の顔を見上げると、いつもの穏やかな表情ではなく、ひどく真剣な顔をしていた。


「頼むから……あなた自身を犠牲にしないでくれ」


「……アーデンさん……」


 胸に刺さる言葉。


 自分のためを思って怒ってくれる、まっすぐな気持ち。


 それがなんなのか、まだ分からないけれど――息が詰まりそうになるほど、嬉しかった。


 アーデンはリトへ向き直り、穏やかな声で言った。


「リト君。あなたのお母さんの星は、まだ守れる。

 だが、巫女の力には限界がある。今日はここまでにして、明日また改めて星を読む。」


「……はい……」


「治す方法は、必ず見つけます。約束します」


 リィナがそういうと、その言葉に、リトは涙を拭いて頷いた。


 家を出てから、アーデンはしばらく何も言わなかった。

 リィナもまた、沈黙のまま歩き続けた。


 村の川沿いまで戻ったところで、彼がふっと立ち止まる。


「……リィナ様。手を」


「え?」


「ふらついている」


 言われて初めて、自分がまだ少しふらついていることに気づいた。

 アーデンは自然な動作でリィナの手を取り、指を軽く絡める。


「……ごめんなさい」


「謝るべきはわたしの方です。危険だと分かっていながら、あなたを止めるのに遅れた」


「そんな……私が勝手に無理しただけで……」


「違います」


 アーデンは小さく首を振った。


「あなたは優しすぎる。だからこそ、誰かの痛みを自分のことのように抱えてしまう」


 リィナは驚いて顔を上げる。


 アーデンの瞳は、透明なほどまっすぐ彼女を映していた。


「その優しさが、いつかあなた自身を壊してしまわないように――わたしが止める。護衛とは、本来そういうものだ」


「……アーデンさん……」


 胸の奥が、また熱くなる。


 先ほどの痛みとは違う。

 不安とも違う。


 名前のない、温かい何か。


「だから、頼むから……ほんとに、お願いだから…もう、無茶はしないでください」


「……はい……」


 アーデンはずっと手を離さなかった。

 まるで、今離したら倒れてしまうとでも思っているかのように、優しく、しかし確固として。


 リィナは、繋がれた手を見下ろしながら、思った。


(なんで……アーデンさんに触れられると、こんなに安心するんだろう)


 透明な星が、ふたりの頭上で風に揺れながら、かすかに震えた。


 まだ誰にも見えないその光は、ゆっくりと――確かに強くなっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る