第3話

  ◇


 村の中心にある集会所で、ふたりは村長と顔を合わせた。


 白い髭を蓄えた老人は、やつれた顔で、それでも礼儀正しく頭を下げる。


「遠いところを、星の巫女殿と、その護衛殿が……」


「星読みの巫女、リィナと申します。こちらは、教会所属の魔導士であり、私の護衛のアーデンさんです」


 リィナがおずおずと名乗ると、村長はほっとしたように表情を和らげた。


「巫女様が来てくださっただけでも心強い……。実は、この村では、ここ最近ずっと、妙なことが続いておりましてな」


「妙なこと?」


 アーデンが促すと、村長はゆっくりと語り始めた。


「作物が育たんのです。土も、水も、これまで通りのはずなのに。芽が出ても、途中で萎れてしまう。牛や羊も、病にかかりやすくなって……」


「……」


「人の身にも影響が出始めましてな。特に年寄りや、弱っている者から順に、床に伏せるようになっておるんです」


村長の声は、淡々としているのに、深い疲れを含んでいた。


 リィナは、村の上空を漂う淡い紫が、確かに“長引く不安と悲しみ”の色だと理解する。


 アーデンが短く問う。


「教会から、この村にはすでに祈祷師や治癒師も派遣されたと聞いています」


「ええ。病そのものは、祈りや薬でいくらか和らぐのですが……根本が良くならんのです。祈りを捧げても、作物の芽は萎れたまま。まるで、大地ごと、何かに呪われておるようで」


 “呪い”という言葉に、空気が僅かに重くなった。


 リィナは、握りしめていたスカートの裾からそっと手を離す。


「……星を、見てみてもいいですか」


「もちろんですとも」


 村長に案内されて、三人は集会所を出た。

 少し開けた場所まで歩き、リィナは立ち止まる。


 深く息を吸い、空を仰いだ。


 村全体を覆う淡い紫。

 その奥で、小さな星々が、何かを訴えるように瞬いている。


(みんな、不安で、怖くて……)


 リィナは、ひとつひとつの星に意識を向ける。


 病の床にある老人の星。

 心配そうに付き添う家族の星。

 収穫の不作を気に病む農夫の星。


 どれも、深く絶望してはいない。

 けれど、希望を持つには疲れすぎている。


「……かなり、長く続いているみたいですね、この色」


 そう呟くと、アーデンが静かに問いかけてきた。


「分かるのですか。いつごろから続いているのかが」


「だいたい、ですけど……。星の“色の層”で、時間の経過がなんとなく分かるんです。急に真っ黒になったばかりなら“今”の出来事だけど、何層にも薄紫が重なっている、というか……」


 言葉を探しているうちに、額がじんじんと痛み始めた。


 紫の層が、幾重にも重なって見える。

 その奥に、微かに黒い影が混じっている気がした。


(……黒?)


 ほんの一瞬だけ、濃い色が視界をかすめる。

 リィナは思わず目を細めた。


「リィナ様」


 肩にそっと手が置かれる。


「それ以上は、いったんやめましょう」


「まだ……全部、見切れてないです……」


「今は全てを知る必要はありません。あなたが倒れてしまっては、本末転倒です」


 いつもと変わらぬ穏やかな声。

 だが、その掌には、確かな強さがあった。


「……ごめんなさい」


「謝ることではありません。星を読むというのは、そう簡単な仕事ではないのでしょう?」


 アーデンのその言葉に、リィナは少しだけ肩の力を抜いた。


「村長さん」


 彼女は村長の方を振り返る。


「この村全体に、不安と悲しみの色が広がっているのは確かです。でも、今のところ、完全な絶望の“黒”ではないと思います」


「本当ですか……?」


「はい。まだ、星たちは、踏ん張っています。だからきっと、完全に手遅れではないはずです」


 自分に言い聞かせるような言葉。

 村長はそれでも、目に見えて安堵したようだった。


「それを聞けただけでも救われます。どうか、あなた様のお力で、この村の星を……」


「できる限りのことをします」


 そう答えたリィナの横で、アーデンが静かに頷いた。


「今日は、村の様子を一通り見させていただけますか。明日以降、具体的な対処を考えましょう」


「ええ、もちろん」


 村長に案内され、ふたりは村を歩き始めた。


  ◇


 老人たちの集まる家。

 病に伏せる者の家。

 畑。

 家畜小屋。


 リィナはそのたびに、空と人々の星を見上げて、少しずつ記録を取っていった。


「……ふぅ……」


 夕暮れ時。

 村の外れの小さな丘の上で、リィナは膝にノートを乗せたまま、大きく息をついた。


「よく頑張りましたね」


 隣で、アーデンが水筒を差し出す。


「ありがとうございます……」


 受け取って口をつけると、冷たい水が喉を通っていく。

 ようやく、頭の痛みが少し和らいできた気がした。


「今日は、ここまでです。これ以上見るのは危険です」


「そんな……まだ、見れていない場所も……」


「すべてを一日で片づける必要はありません。あなたの力は、限りあるものなのですから」


「……そうなんですけど」


 分かってはいる。

 けれど、星の悲鳴を聞いてしまうと、放っておけなくなる。


 リィナは膝の上のメモを見つめた。


 畑の上の星。

 病人の家の上の星。

 大体の色合いと揺らぎを、彼女なりに記録してある。


 その中に、ひとつだけ、気になる箇所があった。


(村の外れの……あの家)


 村長の説明によれば、体の弱い女の人が住んでいる場所。

 その家の上だけ、紫に、ほんの僅かに黒い色が混じっていた。


「……アーデンさん」


「はい」


「明日、一番最初に、あの家を見に行きたいです」


 リィナは村の外れ、ぽつんと立つ小さな家を指さした。

 夕焼けの中、屋根が赤く染まり、細い煙が静かに上がっている。


 アーデンはそこへ視線を移し、少しだけ目を細めた。


「理由を、聞いてもいいですか」


「なんとなく、ですけど……。あの家の星だけ、他よりも、すごく疲れている気がして」


「疲れている」


「はい。悲しみとか不安とかよりも前に、“限界まで頑張って、もうこれ以上は無理”って、そんな感じの色で」


 言葉にするほどに、胸が締め付けられる。


「……私の気のせいかもしれないです。でも、もし本当にそうだったら、少しでも早く見てあげたいなって」


 アーデンはしばらく黙っていた。

 風が、ふたりの間を抜けていく。


「分かりました」


 やがて、彼は静かに答えた。


「明日は朝一番で、あの家を訪ねましょう」


「いいんですか?」


「あなたの勘は、星に近い。無視すべきではないでしょう」


 そう言って、アーデンは立ち上がる。


「そろそろ、宿に戻りましょう。夕食の時間もありますし、あなたには休息が必要です」


「う……分かりました」


 立ち上がろうとして、思ったよりも膝に力が入らず、よろける。


アーデンが即座に手を伸ばし、肩を支えた。


「やはり、限界まで星を見ているではありませんか」


「ご、ごめんなさい……」


「責めているわけではありません。ただ――」


 彼は、ほんの少しだけ苦笑する。


「あなたが倒れたら、わたしの心臓に悪いというだけです」


「えっ」


 あまりにもさらりと言われたので、リィナは固まった。


 アーデンは気づいていないのか、そのまま続ける。


「星の乱れよりも、あなたの体調の方が、今は大問題ですからね」


「そ、そんな……。星の乱れの方がずっと大変ですよ!」


「わたしにとっては、そうとも限りません」


 さりげなく口にされた言葉が、じわじわと意味を持ち始める。


(……今、なんて?)


 胸の奥が、再び熱を帯びる。

 さっきまでの疲労感が嘘のように消えて、心臓の音だけが妙に大きく響いた。


 アーデンは、そんなリィナの狼狽に気づいた様子もなく、淡々とした調子で告げる。


「行きましょう。日が完全に落ちる前に、宿へ戻ります」


「あ、はい……」


 差し出された手に、自分の手を重ねる。

 革手袋越しの感触。


 その冷たさが、今はなぜか、やけに心地良かった。

 

 透明な星は、ほんの少しだけ、紫とは違う色合いで震えていた。


 

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