第2話



 東の村へ向かう街道は、思っていたよりも穏やかだった。


 柔らかな日差し。

 道端には白や黄色の小さな花。

 遠くで小川が光を跳ね返し、揺れている。


「……塔から見下ろしてた景色と、全然違いますね」


 荷物袋を抱え直しながら言うと、隣を歩くアーデンが横目でこちらを見た。


「上から見下ろす星も、地上から見上げる星も、同じ星です。だが、見え方は違います。」


「そうですね……きっと、そういうものなんですね」


 リィナは、つい癖で空を仰ぐ。


 昼間の空は薄い水色に霞んでいて、星は見えない。

 それでも、どこかで確かに瞬いていることを、彼女は知っていた。


「――あっ」


 視線が上に行ったまま、足元の小石に爪先を引っかける。


 身体が前に傾き、世界がぐらりと揺れた。


「リィナ様」


 ぐい、と腕を引かれる。

 気づけば、アーデンの胸元に抱き寄せられていた。


 深い紺色のコート。

 かすかに香る、魔導書に染み付いたインクの匂い。


アーデンが比較的華奢な体系をしているから気づかなかったけど、ちゃんと男性なんだとリィナは思う。


 距離が、近い。


「……っ」


 心臓がどくんと跳ねる。


 喉の奥が熱くなって、息がうまく吸えない。


「歩きながら上を見るのは推奨できません」


 すぐ上から落ちてくる声は、いつもの落ち着いた調子だ。

 アーデンはゆっくりと腕の力を緩め、リィナをまっすぐ立たせた。


「あ、す、すみません……」


「怪我は?」


「だ、大丈夫です。アーデンさんのおかげで転んでないので……」


「そうですか」


 淡々とした返事。

 けれど、その指先には、さっきまでの緊張の名残のような微かな震えがあった。


「人通りのない道とはいえ、油断してはいけません。足元に気をつけて下さい」


「……はい」


 顔がまだ熱い。

 リィナはそれを隠すように、視線を地面へ落とした。


(……なに、この感じ)


 胸が妙に苦しい。

 嫌な痛みではないのに、落ち着かない。


 アーデンの手袋越しの感触が、まだ腕に残っている気がした。


(怖くて固まっちゃっただけ、だよね……?)


 自分で自分にそう言い聞かせる。

 “それ以外の何か”だなんて、思いもしなかった。


 彼女の頭上で、誰にも見えない透明な星が、かすかに瞬いているとも知らずに。


  ◇


 やがて、道の先に、小さな村が見えてきた。


 木で組まれた柵と、屋根に藁を載せた家々。

 ところどころ煙突から白い煙が上がり、誰かがパンを焼いている香りが、微かに漂ってくる。


「ここが、東の村……」


「そうです」


 アーデンが短く頷く。


「今回、星の乱れが報告されている場所のひとつ。教会からは、ここで調査を行うよう指示されています」


「星の乱れって……どんな感じなんでしょう」


「詳しくは、村の代表から話を聞きましょう」


 村の入口に近づいたとき、リィナはふと足を止めた。


「……あれ?」


リィナはやっぱり無意識に、空を見上げてしまう。


 村の上空に浮かぶ星々が、淡い紫色に染まっていた。


 深く濃い不安ではない。

 だが、じわじわと滲むような“不安感”が、村全体を薄く覆っている。


「ここの星……みんな、少し泣いてるみたいです」


「分かりますか」


「はい。何か……大きな不幸があったというよりは……ずっと小さな悲しみが積み重なっているような……」


 言葉を探しながら目を細める。

 紫の星々は、重く沈むのではなく、終わらないため息のように、弱く瞬いていた。


(痛い……)

星を読むとき、リィナはいつも、少しだけ相手の感情を“自分のもの”のように感じてしまう。

 それは星読みの巫女としての宿命でもあり、彼女の弱さでもあった。


 胸の奥を、ひやりとした痛みが撫でていく。


「無理はしないでください」


 隣から、低い声がした。


「ここの星の色は、あなたにとってあまり心地良いものではないでしょう」


「……ちょっと、胸がぎゅってなります。でも、見られないほどではないので、大丈夫です」


 そう言って微笑むと、アーデンはほんの少しだけ眉を寄せた。


「胸が痛むほどなら、大丈夫とは言いません」


「う……」


「一人で星を見すぎないようにしてください。私もいるんですから。」


「心配かけてばっかりですね、私」


「……そうですね」


 即答されて、リィナは思わず肩をすくめる。


 アーデンは小さくため息をつき、言葉を足した。


「ですが、あなたが星を見てくれなければ、この村の人々は救われないかもしれません。だからこそ、あなたには倒れずにいてもらわないと」


「……はい」


 “倒れずにいてほしい”。

 たったそれだけの言葉なのに、なぜか胸の奥がほぐれていく。


(……やっぱり、この人と一緒だと、少し楽になる)


 塔の中では、星の色が見えすぎて、いつも疲れていた。

 でも、アーデンといるときだけは、星のざわめきが少し遠くなる。


 その理由を、リィナはまだ知らない。


 彼の感情が透明で、星に映らないからだなんて、考えたこともない。


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