第1話
「……本当に、行くんですね、私」
翌朝。
簡素な部屋の中で、リィナは小さな荷物袋を抱えながら、窓の外を見つめていた。
教会本部の塔から見下ろす街は、どこまでも石畳が続く。
遠くに見える城壁の向こうには、旅人たちが行き交う道。
教会で暮らすリィナにとって、街も、城壁の向こうも全く知らない未知の世界だった。
(まさか、自分の足でそこを歩くことになるなんて……)
扉が、控えめにノックされた。
「リィナ様。アーデンです。少々お時間よろしいでしょうか。」
「は、はいっ!」
慌てて荷物袋を抱え直し、「どうぞ」と声をかける。
扉が開き、黒衣の紳士が姿を現した。
昨日と同じ、紺のロングコート。胸元のブローチ。
ただ今日は、腰に小さな魔導書と短杖を携えている。
「支度はお済みですか」
「いちおう……えっと…これくらいしか持っていくものがなくて」
リィナが抱えているのは、小さな布袋ひとつ。
替えの修道服と、少しの身の回りの道具、それから——。
「星図と、筆記具、ですか」
「はい。星を見たら、その記録もしないと……」
布袋の口から覗いた羊皮紙を見て、アーデンが小さく頷く。
「良い心がけです。星の乱れの原因を探るには、あなたの観測が何よりの手がかりになります」
「で、でも……私、昨日みたいに、また倒れたりしたら……」
「大丈夫です。そのための、わたくしですから」
アーデンはそう言って、当たり前のような顔をした。
リィナは、胸の前で布袋をぎゅっと握る。
「……アーデンさんは、不安じゃないんですか? 私の星が乱れてるって、聞いたのに」
「不安、ですか」
一瞬だけ、彼の瞳が揺れた気がした。
だがすぐに、その色は落ち着きを取り戻す。
「危険性は、承知しています」
「やっぱり、危険なんですね……」
「ええ。しかし——」
アーデンはそこで言葉を切り、少しだけ柔らかい声色で続けた。
「あなたひとりに、その重荷を背負わせるわけにはいきません。わたしは、そのためにここにいます」
「……」
そう言われると、少しだけ、息が楽になる。
いつもなら、星のことを話すと、相手はどこか遠巻きになってしまうのに。
(この人は、星読みの巫女のこと、怖がってない……のかな)
胸の中で小さく問いかけながら、リィナはそっと頷いた。
「が、がんばります。私にできることを、ちゃんと」
「その意気です。では——」
アーデンはリィナの方へ一歩近づき、右手を差し出した。
「行きましょう、リィナ殿」
「えっ」
「階段が急です。足元にお気をつけて」
「あ、は、はいっ!」
思わず差し出された手を見つめてしまい、慌てて自分の手を重ねる。
革手袋越しの感触。
ほんの少し、指が絡む。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
(……え?)
「顔色が少し赤いですね。やはり、まだ熱が?」
「だ、大丈夫です! ちょっと、緊張してるだけで!」
自分でも驚くほど大きな声が出てしまい、リィナは慌てて口を押さえた。
アーデンは一瞬だけ目を瞬かせ——そして小さく笑ったようだった。
「初めての旅ですからね。緊張もするでしょう」
(ち、ちがう……そうじゃない……気がする……)
けれど、自分の胸のざわめきが一体何なのかわかんなくて、リィナは「そうなんです」と曖昧に笑うしかなかった。
塔の上から見ていた街とは違う。
人の声、荷馬車の音、パンを焼く香り。
すべてが、目の前で息づいている。
「リィナ様。歩きながら見物するのは構いませんが、足元には十分ご注意を」
「は、はいっ」
そう言いながらも、視線はあちこちに泳いでしまう。
露店に並ぶ果物、笑い合う子どもたち。
リィナはずっと塔の中で育ったから、こんなに近くで人々の日常を見るのは初めてだった。
(みんな、こんなふうに生きているんだ……)
そのとき。
すれ違った若い夫婦の頭上に、淡い黄色と柔らかな青の星が見えた。
重なり合って、揺れながら、寄り添うように輝いている。
(あ……きれい)
彼女は思わず立ち止まり、星を見上げる。
喜びと、穏やかな好意。
きっと、仲の良い夫婦なのだろう。
「リィナ様!!!」
「わ、ご、ごめんなさい!」
腕をぐいっと引かれる。
気づけば、目の前を荷馬車が勢いよく通り過ぎていった。
「あ……」
もしアーデンに腕を引かれていなかったら、ぶつかっていたかもしれない。
「申し訳ありません。わたしがついていながら、危ういところでした」
「い、いえ! 私がよそ見してただけで……」
リィナの腕を掴んでいたアーデンは、そのまましばらく手を離さなかった。
指先に、ほんの僅かな震え。
(え……? 震えて……る?)
見上げると、彼はいつもの落ち着いた表情を取り戻している。
だがその目の奥に、わずかな焦りが残っているようにも見えた。
「人混みでは、こうしていた方が安全です」
そう言って、今度は逃がさないようにとでもいうように、しっかりと手を握られる。
距離が、近い。
心臓が、また大きな音を立てた。
「……はい」
返事をしながら、リィナはそっと空を見上げる。
彼の頭上に、星は——やはり、見えない。
ぽっかりと空いた透明な空間だけが、そこにある。
(この人の星が見えたら、何色なんだろう)
そんなことを考えた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
理由がわからなくて、彼女は小さく首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
「い、いえ。何でもありません」
にこりと笑って誤魔化すと、アーデンはそれ以上は追及せず、小さく頷いただけだった。
やがて大きな門が見えてきた。
重厚な扉の向こうには、白い朝の光。
門番が扉を開けると、ひやりとした風が頬を撫でた。
「……わあ」
思わず、声が漏れる。
リィナたちはゆっくりと門をくぐった。
やがて街を抜け、石畳が土の道へと変わる。
どこまでも続く道。その先に、まだ見ぬ星と出来事が待っている。
「最初の目的地は、東の小さな村です」
アーデンが、歩きながら静かに告げる。
「そこでも、星の乱れが確認されていると?」
「はい。あなたには、その星々を読んでいただきます」
「……私に、ちゃんと読めるでしょうか」
「読めますよ」
アーデンの声は、やはり揺るがなかった。
「リィナ様。あなたは、星を見るために生まれてきたのでしょうから」
その言葉が、胸の中にじんわりと広がる。
(星を見るために……)
それは、少しだけ嬉しくて、でもどこか不安でもあった。
もし、自分の星が乱れたことで、誰かが傷つくことになったら——。
もし、星が示す未来が、取り返しのつかないものだったら——。
リィナは、胸元に下げた小さなロケットをぎゅっと握った。
中には、幼い頃に拾った、小さな光の欠片が収められている。
「……大丈夫です」
ぽつりと呟いたつもりが、意外と大きな声になっていた。
アーデンが横目でこちらを見て、少しだけ眉を上げる。
「リィナ様?」
「いえ……その。がんばろうって、思って」
我ながらひどく不器用な言葉だ。
だがアーデンは、ふっと目元を和らげた。
「ええ。共に頑張りましょう」
そう言って、繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込める。
彼もまたそれにこたえるように握り返してくれたのが、なぜかとても心強く感じられて——。
リィナは、自分の鼓動がまた少し早くなるのを感じながら、前を向いた。
彼女の頭上で、透明な星が、静かに瞬いているとも知らずに。
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