エリート捜査官・中川理沙の憂鬱 監視対象はひとりの少女
夏風
1 エリート警部、中川理沙はドッキリを疑う
「はぁ。ホントに出向なんだ……」
中川理沙は木枯らしに吹かれて歩きながら、突然の出向命令を思い出していた。銀杏並木はすっかり葉を落とし、寒そうな枝が寒風にそよいでいた。彼女は永田町のとある建物の前で立ち止まり、ため息をついた。
理沙は国家公務員上級試験に合格後、警察庁入りしたキャリア警察官である。警視庁出向で現場経験を積み、現在は警察庁公安サイバー対策室所属の警部級、三十八歳独身。捜査経験と高度な情報処理能力を兼ね備えた有能な女性警察官である。
――――
年末のある日の朝、彼女はいつものように霞が関のオフィスに出勤していた。午前九時過ぎ、彼女の直属の上司である公安サイバー対策室 室長が中川を呼んだ。
「中川警部、ちょっと人事課まで来てもらえるかな」
中川は本庁舎七階の警察庁 警務局 人事課長室に出向いた。室長、そして人事課長が中川をじろりとにらんだ。仰々しい雰囲気だった。
「着席したまえ」
「はっ!」
「中川理沙、内閣情報調査室 第二分析室 サイバー連絡官として、出向を命ずる。着任日は翌一月四日である」
人事課長が辞令を伝えた。上司からは慰労と期待の言葉が添えられた。彼女はデスクに戻り、渡された報告書を開いた。その業務は…… とある少女を護衛・監視するというものだった。理沙はいぶかしみ、読み進めるうちに頭が混乱してきた。
その報告書は昨年夏に発生した「淡路南部大震災」についての記載からはじまっていた。理沙はあの「大震災」がいかに異常だったかを思い出した。あの時、なんの前触れもなく突然緊急地震速報が鳴り、厳戒態勢がとられた。確かに大きな揺れは観測された。しかしほんのわずかな時間だけでその地震はおさまったのである。
世間では「誤報地震」とも「空振り地震警報」とも揶揄された。一方、「金狐様降臨」「GoldenFox」などが世界中のSNSで席巻された。
報告書の内容は信じられないものばかりだった。その騒動を収めたのは、小学三年生の少女だと記載されていた。関係者欄には、当該児童が出生時は男児と判別されていた旨の備考が添えられていた。
「え?え?えーーーー!?」
報告書の記載は常識の理解を大きく超えていた。理沙は読み進めるにつれ、どんどん頭が混乱していった。荒唐無稽で、おとぎ話のように思えた。
彼女は報告書を読みながら頭を抱え込んだ。思わず室内の隠しカメラを探し回った。タチの悪い民放テレビの特番に売られたのだと思ったのである。三十代後半のキャリア女性をからかう企画、確かに画になりそうである。
理沙は報告書を机に置いたまま、周囲をきょろきょろと見回した。
(そうね。まずは空調の吹き出し口かしら)
指先で髪を払いながら、吹き出し口を覗き込んだ。
「こんなとこに…… ないわよね……」
次に、彼女は天井の角を見上げた。消防設備の赤いランプが、怪しく瞬いている気がした。
「あ、あれか!あれ、赤ランプじゃなくて録画ランプじゃん」
しかしランプは本物だった。次の瞬間、彼女はデスクの下に潜り込んだ。スーツのスカートを押さえつつ、両肘を床について匍匐前進した。机の裏、そして引き出しの奥まで覗き込んだ。
(……落ち着くのよ、理沙。ここ、霞が関よ?なんで私、床にはいつくばってるの?後ろから撮られて、スカートにぼかしとか入れられて、お茶の間の笑いものになったら、一生のデジタルタトゥーじゃない)
理沙は反射的に激しく振り返った。
ゴツン
「痛っ。でも、絶対カメラがあるはず。ドッキリ警察庁?まさか、笑える公安?」
(国家公務員に、こんな悪質ドッキリ、仕掛けてもいいの?)
トントン
「中川警部。警部?」
「あ、ちょっとね。配線の…… 点検を……」
書類を持ってきた職員が怪訝そうに首をかしげた。理沙はにっこり笑い、ごまかした。 職員が去って、彼女が机に戻る途中、彼女はふと何かに気が付いた。彼女は壁の時計をじっと見て、眉をしかめた。
「あれ?秒針の動き、なんだか不自然じゃない?」
彼女は腕を伸ばし、時計の裏に手を伸ばした。カメラは…… なかった。
「どうした、中川君?」
「あ、い、いや。い、異常ありません!」
理沙は反射的に背筋を伸ばし、敬礼した。そして報告書を胸に抱え直した。
(え、嘘…… まさか、これ、ほんとに、ガチ辞令?)
――――
ヒュウ
「寒ぶ」
現実に引き戻された理沙は、風に吹かれた髪を押さえた。凍えるような寒さの中、その現実味の薄い命令書の内容だけが、やけに鮮やかに頭に浮かび上がった。
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