知覚変動
わたねべ
知覚変動
ドリップコーヒーの最後の一滴が、ボダムの中で円環の紋様を描き終える。少し泡立った表面が、完全に凪いで生まれる沈黙は、私の脳が覚醒し始める静かな合図だ。
温かさを保つための二層式タンブラーに注がれた、深くローストされた豆の香りは、今日も私のリズムを整えるための、心地よい指標となっている。この朝のルーティンを何年続けても飽きないのは、そこに一切の無駄も偶然性もない、完璧な再現性があるからだろう。
熱さにやられないよう、ズッと音を立ててコーヒーを一口飲む。その液体は、喉を落ちるころには少しだけ温度を落とし、内に閉じ込めていた、ローストされた豆の香りを鼻腔の中で優しく開く。私は、その鮮烈な香りをじっくりと味わいながら、二枚のベーコンを焼き始める。
ベーコンがフライパンの熱によって、その身を縮ませ始めるころ、トースターは食パンの表面を均一な小麦色に染め上げる。中心に少し強めの焼き色がついたあたりで一度引き上げ、カリカリになったベーコンとまだ冷たいスライスチーズをのせて、再度トーストする。一分四十秒、これが長年の経験で導き出した最適な時間だ。
私は、貴重な朝の時間を無駄にしない。待ち時間を利用して、カット野菜と軽く洗ったミニトマトを、色彩と配置のバランスを計算しながら手際よく皿に盛り付けていく。中心を少し盛り上げてやるのがおいしく見せるコツだ。
コーヒーとサラダをお気に入りのランチョンマットに置いたところで「チンッ」という待ちわびた合図が鳴り、お腹の虫が騒ぎ始める。すっかり餌付けされてしまったようだ。
トースターをガパッと引き開けた瞬間、チーズからあふれた動物性の油がじゅわじゅわと魅力的な音を奏でているのが聞こえてくる。いまだ中心でふつふつと沸き立つチーズは、見る者の期待を裏切らないトロリとした粘度で糸を引く姿を想像させ、私の胃袋を直接誘惑する。まだ熱いベーコンチーズトーストを手早く皿に移し、ピタリと両手を合わせる。
完璧だ。この完璧な始まりが、私の仕事には欠かせないのだ。
私は、いつも通りの朝食を、そのすべての工程を味わい尽くすと、きっちりアイロンをかけた襟付きのシャツを羽織り、会社へと向かった。
◆ ◆ ◆
「「「ノムラディレクター、おはようございます!」」」
「ああ、おはよう。今日も頑張ろうか!」
私がスタジオに入ると、元気のよい挨拶がこだまする。
こうしようと決めているわけではないが、私が挨拶を続けているうちに自然とこうなっていた。
やはり率先して何かをするというのは非常に大事で、それが周りにプラスの影響を与えるならなおさらそうだ。挨拶が大事なんて、おじさん臭いといわれるかもしれないが、それでいい。
ほかのスタッフと段取りを確認していると、今日の主役が入ってくるのが見えた。
「おはようございます」
やや元気には欠けるが、毎回、腰を九十度に曲げ、指先までピンと伸ばしながらお辞儀をする彼は、現場スタッフからの評判もいい。かくいう私も彼のことは結構好きだ。
「ムラヤマ君、今日もよろしく頼むよ」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
最近売り出し中のムラヤマ君は、会社に推し出される理由がよくわかる。ルックスもよく、礼儀正しい真摯な姿勢は、ついついおせっかいを焼いてしまいたくなるかわいさがあるのだ。今の自分を見たら、同級生たちは「歳をとった」と笑うだろうが、若い世代を可愛がるというのは、年功序列の世の中で輝く数少ない利点なのだから、むしろどんどんやるべきだろう。
ムラヤマ君にも今日の段取りを伝えて、さっそく収録のリハーサルを開始する。
綿密な段取りの甲斐あって、スタジオ収録は滞りなく進み、1番の盛り上がりどころである、ご当地のグルメを味わうコーナーに差し掛かった。
「お肉の繊維に沿って、幅五センチほどに切り分けられており、食べ応えがありますね。また、表面の焼き色と、内側の美しく輝く桃色のコントラストは非常に食欲をそそります。表面をやや強めに焼き上げることで、肉汁がしっかりと閉じ込められているのも美味しさの秘訣ですね。味付けはシンプルにお塩ののみですが、しっかりとした油の甘みを引き立ててくれるので相性がよいですね」
「カット!!」
ムラヤマ君は間違いなく真剣に打ち込んでいる。だがしかし、それだけにもったいない。
私がここで彼を導いてあげなければ、そんな思いで撮影を止める。
「ノムラディレクター、どこかダメなところがありましたか……?」
「ダメなところ、か。そうだな、ムラヤマ君。君は私に、眼に見えるものの説明をしてくれたのかい? それとも、眼に見えない感覚を伝えてくれたのかい?」
私は彼の眼を真剣に睨みつけた。
「情報を伝えています……」
「だよね。以前にも伝えたけれど、君の表現は見た目の情報に偏りすぎているんだ。この意味がわかるかい?それは視聴者がすでに知っている情報であって、まだ知らない味を伝えなくちゃあならないんだよ。それを君は、味の部分はたった一言で済ませてしまっている」
この熱量が彼に響くかはわからないが、ここでへこたれるようでは業界ではやっていけない。私はそんな思いからも少し厳しい物言いをする。
ムラヤマ君は手を組み、 親指をトントンと動かし下を向いている。少しすると私のメッセージを咀嚼し終えたようで「もう一度お願いします」と言いながら、彼は頭を下げた。
挨拶をするときよりも深いそのお辞儀の角度からは、彼の真剣さがうかがえる。
「もちろん。もう一度やろう」
このやり取りが功を奏したようで、現場の空気はぐっと引き締まり、程よい緊張感が走っている。淡々と準備が進み、現場の集中力が高まったところで、再び彼が食レポを披露するシーンに差し掛かった。
「やわらかい!噛めば噛むほど肉汁があふれてきておいしいです。ソースもまた絶品ですね。柑橘類をベースにした少し甘めの味付けが、生ハムメロンのような塩味と甘味のハーモニーを奏でています!」
「カット!!」
私の掛け声にあたりの者たちがビクッと肩をすくませる中、ムラヤマ君に歩み寄る。
「さっきの方がまだよかったじゃないか。そもそも、食べ物をほかの食べ物で例えるのは、料理人の方にも失礼だしご法度だよ!それにもっと想像の膨らむような表現をしてくれないとさあ……」
「……申し訳ございません。」
反省している様子の彼に対して、私はアドバイスを続けた。
「謝ってほしいわけじゃないんだ。君に成長してほしいんだよ」
そんな話を続けていると、彼は途中からがっくりとうなだれて反応が鈍くなってきたため、一度休憩を入れることにした。
「ムラヤマ君。さっきはごめんね。少し強く言い過ぎたよ。ただ君のためを思ってのことなんだ」
「ノムラディレクター、ありがとうございます。大変勉強になりました」
気落ちしていた彼は、私が声をかけると思いのほか前向きに答えてくれた。
「よければこの収録が終わったら、一杯飲みにいかないかい?もちろん、私がごちそうするよ」
「いいんですか?ぜひ、よろしくお願いします」
約束通り収録後、彼と居酒屋へ足を運ぶ。
お酒が進み、つい創作論を語り始めた私に、意外にも彼は同じ熱量でうなずいてくれている。最近の若者にはないと思っていた熱量を持つ彼とはえらく話が弾んだ。
私の描く表現とは異なるが、彼には彼自身の美学があった。やたらと視覚表現にこだわっていたのにもしっかり意味があり、「その食べ物や味を知らない人にも伝えられるような食レポ」を意識していたのだという。だからこそ、少しくどい、視覚以外の情報があまりない食レポになってしまっていたそうだ。
確かに、私のいう食レポは知識が共有されていることが前提になっている部分がある。
近くの共有という部分に目を向ける彼の考え方を私の表現に取り入れれば、より鮮烈で唯一無二の表現ができる、そんな浮足立つ感情であふれていた。
「ムラヤマ君!君は優秀だねえ。すごく楽しいよ」
「ありがとうございます。僕も楽しいです」
そんな会話の記憶を最後に、私の意識は途切れる。
◆ ◆ ◆
ズキズキとした痛みを伴う目覚ましにたたき起こされると、目の前には知らない部屋の景色が広がっていた。
窓を覆う真っ黒な遮光カーテンも、何枚も重ねられて布団のようになっている絨毯も、無機質に部屋を照らす丸形のLEDライトも、すべて初めて見る景色だった。
完全に飲みすぎたと後悔しながら、もうひと眠りする前に時間を確認しようとスマホへ手を伸ばす。
「……ん?」
手が動かない。
なぜか体の後ろ側でしばりつけられている腕に気が付くと、背後からギイィと木製のドアが開く音が聞こえた。
知らない部屋で感じる人の気配と、この異常な状況に緊張で息が詰まる。
快適な温度の部屋の中でダラダラと汗が流れ始めた。耐えきれない空気に声を出そうとした瞬間。
「おはようございます」
「うわああぁっ!!」
情けない声を出しながら見たその男の顔には見覚えがあった。
「ノムラディレクター、こっちまでびっくりするじゃないですか」
「ごめん、ムラヤマ君。ついびっくりしてしまって……」
見知った顔を見て状況を察した私はほっとして「よかったあ」と口からこぼすが、直後にまったくよくないことをすぐに思い出す。
「ちょっと待って、なんで私は縛られているんだい?もしかして、何かのどっきりかい?それとも、酔って何かした……?」
掘っても掘っても見つからない記憶におびえながら質問をする。
「大丈夫ですよ。少し飲みすぎてお店で寝てしまっただけです」
「いや……、だったらなんで手足を縛られているんだ?」
笑うでもなく怒るでもなく、淡々と吐く彼の言葉に込められた思いが読めず、ひどく不気味だった。
これまでの行動を省みると恨みを買っていないとは言えない。切れる若者や簡単に闇バイトに手を染めるZ世代の倫理観の低さが頭をよぎる。彼のことを読み誤ったかもしれない。目の前で私を見下ろす男の瞳がやけに黒く濃い色に見えた。耳の上あたりでバクバクと脈打つ音が徐々にうるさくなる。何をされるかわからない状況を前にして、本能的に体を縮めて丸まっていると、彼は話し始めた。
「きっかけは……そうですね。人前で怒られたのが癪に障ったからです」
彼は一度言葉を切り、私の反応を確かめるように見つめた。
「それでいつか、僕の気持ちを分かってもらおうと思って、こんな防音設備を用意していたんですよ。でも……」
彼の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ノムラディレクターの意見には、無視できない理論があると気が付いたんです。そうしたら、それまでのくだらない感情なんて吹き飛んで、むしろもっと知りたくなったんです。だから……」
「だから……?」
「だから、こうしてゆっくりお話をしようと思ったんです」
私には彼の理論が分からなかった。いたずらに刺激しないように言葉を選びながら、状況の解決を試みる。
「そうか、でも話をするだけなら居酒屋で十分じゃないか。頼むからまずは手足を自由にさせてくれないか?」
「昨日誘っていただけたときは本当にうれしかったですよ。もっと知りたいと思っていた人が、向こうから場を整えてくれたんですから」
決して声を荒げるようなことはしないが、私の問いかけを気にも留めず、ひたすらに自分の思いを語る彼は明らかに正気ではない。
自身の置かれた状況を理解し始めたのとは反対に、目の前にいる男のことはどんどんわからなくなる。その狂気的な空間は、咀嚼されて喉の奥に流れ込む食べ物のように、私を出口の見えない不安の渦へ引きずり込む。
「ディレクター。あなたの理論をたくさん聞かせてください。それがきっと、他人に自身の知覚情報を共有するという、僕の表現を一段階上に押し上げてくれるはずなんです。見てくださいよ、今日のためにこんなものまで用意したんですよ」
彼は冷蔵庫や棚の中で、ごそごそ何かを探している。「ほらこれ、食べたことないでしょう」と言いながら差しだされたラインナップは吐き気を催すほどにおぞましい。
そこらへんで乱暴に引き抜いたであろう雑草は土にまみれており、虫に食われた繊維質な茎は、食べ物と呼ぶにはあまりにも原始的だ。その隣でうねりながら光沢を放つ小さな生命は、むしろ食べられないことに特化した、嫌悪感にあふれた姿をしている。ちきちきと開閉する口元はその生命の持つ生々しさを、際立たせていた。そして極めつけは、目をそむけたくなるほどに赤い、下処理とは無縁の肉塊だ。ぶつ切りにされたそれは、よく見ると特徴的な前歯や、長いしっぽが見える。
「ムラヤマ君!ほんとにどっきりじゃないのかい!?」
私は丸めた体をうねうねと捩らせて必死に距離をとる。無意味だ。
彼は居酒屋で騒ぐ、社会人デビューしたうるさい人間を見るような、冷めた眼差しを私に向けている。そして、私が、必死に確保した安全をたった一歩で破壊する。
パアンッ!
私の前でかがんだ彼は、冷めた目をしたまま、右手の裏側で私の右頬を鋭く振りぬいた。
ひりひりする皮膚の痛みよりも、体の奥に鈍く響く、骨をはたかれた痛みに思わず涙がこぼれる。
自分が何をされたのか。それを理解すると、体は小刻みに震え、奥歯がカチカチと音を立て始めた。
蛍光灯を背に覗き込む顔には暗い影が落ち、その体は私に届く部屋の光を遮る。ぐっと身を乗り出した彼の姿のみが視界に広がり、私は何も考えられなくなっていた。
「うぅ」とか「やだ」とか、そんな短い言葉が、自分の意思とは関係なく、とめどなく発せられている。
パアンッ!
恐怖の音に目をつむり、体をこわばらせるが、先ほどとは異なり、どこも痛くない。
その代わりに彼が目の前で、両手を合わせているのが見えた。
「ノムラディレクター……。なんでそんな反応をするんですか。あなたの望み通り、僕はレベルアップしようとしているんです」
私の髪の毛をがっしりとつかんで、口の中に泥まみれの雑草を押し込んできた。
「ぐうう!」
必死に口を閉じて抵抗すると、鼻っ面に鉄槌を振り下ろされて、思わず口を開けてしまう。
ひどいにおいがする。ぐずぐずになった私の鼻でもとらえられるほどの青臭さと泥の匂いが口内に広がった。味なんてものはとてもじゃないが感じられてない。しいて言うならただ苦いだけのごみを、口の中に無理やり詰め込まれた感覚だ。
鼻水と唾液をまき散らしながら、必死で吐き出したが、口の中に残るにおいと、じゃりじゃりとした砂の感触が不快で仕方がない。
「どうぞ。食レポしてください」
「……え?」
「だから、早く食レポしてくださいよ。僕が食べたことの無いものを、しっかりと想像できるように、感覚が共有できるように伝えてくださいと言っているんです。」
化け物だ。まったく共感できない。言っていることはわかるし、彼が何をしたいのかも理解できたが、それを実行する意味が分からない。こいつは、恨みでも何でもなく、ただ自分のためだけに私の人生を踏みにじっているのだ。しかも、そこには罪悪感も、ためらいもない。その証拠に、この化け物は私が雑草を吐き出して泣いているとき、つまらなそうにあくびをしていたのだ。
たった今も早くしろよといった感じで無感情な視線を送られている。
同じ人間とは思えない化け物。こいつの作り出した空間から一刻も早く抜け出したい。私は震える声で食レポを始めた。
「にっ……にがみがひどい。同時に抜ける草の香りと合わさって、熟しきる前の、柑橘類の皮のような味わいになっている。……あとは、触感も最悪だ。どんなに砂抜きをしていない貝よりもひどい不快感がある」
「ひどいな……。怖がりすぎですよ。もう少し落ち着いてください。」
他人事のように話始める姿が、余計に恐ろしかった。
「わ、わかった。落ち着くから許してくれ」
過呼吸気味になりながら懇願すると、彼は「許すも何も……」と言いながら、何かを私に投げつけてきた。
「ひっ……!」
それはまだ動いている虫だった。正確にはカブトムシの幼虫のように見える。
まさか、私は今からこれを食べさせられるのだろうか。彼は何も言わないが、きっとこれを口にしなければ、さっきのように鼻を殴られるだけでは済まない。
最悪の事態と尊厳を天秤にかけて、ずたずたに引き裂かれたプライドに涙を流しながら、私は必死に口を動かした。
「野性味あふれる見た目はインパクトがあります。まるまるとした身は、産卵前のエビのようです。新鮮で活きが良く、まだ動いているのがいいですね」
涙が止まらないことを除いて、普段通りの食レポができている。
私は目の前の絶対者の顔色をちらりと窺った。
「味は?」
ズッと鼻をすすり、私はソレを口にした。
犬のように、口だけを使って、絶対者に頭をたれながら……。
「奥歯を押し返すほどの弾力が心地よく、食べ応えがあります。身質はトロトロで、口の中に独特の苦みを届けてくれます……」
そういったところで、私はびたびたと汚い音を立てながら、吐瀉物をまき散らした。
今までの人生で積み上げたプライドも尊厳も、鍛えぬいた味蕾も、すべて壊されてしまった。
「伝わらないなあ……。それに、食べ物を食べ物で例えるなって言ったじゃないですか。ノムラディレクターは今度から、エビの代わりにカブトムシの幼虫を食べていればいいじゃないですか……」
彼はそう言い残すと、ため息をついて部屋を出ていった。
数刻ぶりに訪れた化け物からの解放という安堵に、恐怖で固められた氷が解けていくのを感じる。
溶けた氷が全身の穴から流れ落ち、またのあたりが温かくなっていくのを感じたが、今はそれよりもつかの間の幸せをかみしめたかった。
もう3年も顔を合わせていない、田舎で暮らす母親に会って抱きしめてもらいたい。今はそんな気持ちでいっぱいだった。
過呼吸気味だった、呼吸は次第に落ち着きを取り戻し、ようやく深く息を吸い込んだその時。
バアァン!!
勢いよく扉が開かれた。
音を発生させた主は、じっと私の様子を見つめた後に、嬉しそうな笑顔を見せた。
その整った顔立ちから作られる無邪気な表情は、こんなにも最低な彼のことを、好きになってしまうような美しさがあった。
「わかりましたよ!ノムラディレクター、ありがとうございます!」
ずっと理解できない。何一つわからない。そんな男が、またわけのわからないことを言い始めた。
もうやめてくれ。怖いんだ、ずっと。だんだんと思考がまとまらなくなってくるのを感じる。
彼の出す音が、彼の話す言葉が、彼のする行動が、すべてが恐ろしいのだ。
そんな彼が私に向けて、スッと腕を差し出す。
その動きを見るや否や、私はぎゅっと目をつむる。
しかし何も起こらない。
私は恐る恐る目を開ける。
カシャッ
静かなシャッター音が響いた。
「今までどう頑張ってもOKをもらえなかったのはこういうことだったんですね。自分に足りないものがよくわかりました。今日はノムラディレクターと話ができて本当に良かったです」
何が起きたか理解できずに固まる私など眼中にないかのように、彼は淡々と話し続ける。
「僕に足りなかったのは、全身での表現力だったんですね」
そう、にこやかに言い放つと、彼は「ほら素敵ですよ」と、撮った写真を私に見せてきた。
そこには、眉が下がり、目は潤み、涙と鼻水を垂らしながら口を半開きにしている、不細工な男が写っていた。この男からは、おおよそ知性というものを感じられない。しかし、その表情を見ただけで何かに恐怖していることは、しっかりと伝わってきた。
「言葉だけでなく、身振り手振りや声のトーン。そうしたボディランゲージが僕には足りなかったんですね。うれしいと自然と笑顔がこぼれるし、おいしい時には恍惚とした表情になる。まさに、僕の求めていた非言語の伝達ですよ」
目の前の男は「すっきりしたー」と大きく伸びをすると、私の拘束を解いて、どこか別の部屋へ行ってしまった。
望み通り自由になったのに、私は涙が止まらなかった。
「ちがう……ちがうんだ……」
私の培ってきた表現が、感覚が、人生が、暴力と恐怖によって上書きされていく。
ガタンッ
と、どこかの部屋で音が鳴ると、私は反射的に体を丸めていた。
そして口からは、自分の意思に反して「怖い」だとか「やだ」だとか、短い単語ばかりを漏らしていた。
いち早く逃げ出したいと思っていたが、もうどうでもよくなっていた。
今は早く、眠りたかった。
知覚変動 わたねべ @watanebe
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