第6話 陰陽道(6)

 その次の夜のことだった。

 夕餉を終え、湯で身を清めていたところに、父の声がかかった。


 「夜斗。――来なさい」


 いつもの稽古前とは違う、どこか張りつめた調子だった。


 案内されたのは、黒瀬家の内庭の一角である。

 昼間は物干しに使われるだけの殺風景な場所だが、今夜ばかりは様子が違っていた。


 四隅には小さな灯籠が置かれ、柔らかな火が静かに揺れている。

 地面はきれいに均され、その中央には白砂が円を描くように撒かれていた。


 白砂の輪の真ん中に――黒く塗られた木の板が、一枚。


 父が「式盤」と呼んだものだ。


 「式盤は用意させてもらった」


 父は板のそばに立ち、振り返ってこちらを見る。


 「霊符は、夜斗。お前が書け」


 少し離れた几帳の上には、清められた紙束と墨、筆が整然と並べられていた。


 「……僕が、ですか」


 わざと一拍置いて問うと、父は当然だというように頷く。


 「式神との契約は、術者と式との約定だ。それを他人の筆に任せるような者に、式を預けるわけにはいかん」


 もっともな話だった。


 「座れ」


 促され、几帳の前に正座して筆を取る。

 墨の香りが、静かに鼻をくすぐった。


 「まず、主としての名を書け」


 父の声に従い、紙の上段に「黒瀬夜斗」と記す。

 幼い手つきながら、できるだけ字が崩れないように。


 「次に、式の呼び名だ」


 「……まだ、どんな式が来るかもわからないのに、ですか」


 思わずそう問うと、父はわずかに目を細めた。


 「名は枠だ。枠なきところに力は定着せん。

  お前が望むかたちに近い名を、ここで決めておけ」


 望むかたち――。


 力自慢の鬼でも、目立つ獣でもなく。

 影に潜み、よく視て、よく嗅ぎ分け、牙を隠したまま噛みつける者がいい。


 少しだけ考え、筆を走らせた。


 『朧』


 夜の霧。輪郭の定まらぬ影。


 「……朧、か」


 背後から覗き込んだ父が、小さく呟く。


「悪くはない。形を結びきらぬ名は、それだけ応じる余地も広い」


 評価ともつかぬ言葉だが、否定はされなかった。


 「さて――次が肝心だ。契約の縛りを書け」


 父の声音が、わずかに低くなる。


 「式が主を裏切らぬこと。主の命を奪わぬこと。最低限、それを明文で刻んでおけ。あとは、お前の考え次第だ」


 ここからが、本番だった。


 (さて、どこまで絞るべきか)


 霊符は、式神にとっても逃げ道の有無を決める鎖だ。

 締めすぎれば反発を招き、緩すぎればこちらの首が絞まる。


 墨を含ませた筆先を、紙の上にそっと落とした。


 『一、朧は、主・黒瀬夜斗に仇なさず』


 ――まずは当然の条。

 主への敵対を禁じる。父の前で外すわけにはいかない。


 『一、朧は、主の命を他すべてに優先して守ること』


 これは、僕のわがまま。

 正義や大義より、まずは自分の首である。


 『一、主が命じざる殺生を、みだりに行わず』


 好き勝手に人を殺されては、面倒ごとしか生まない。余計な死体は要らない。


 『一、主の命が尽きしとき、朧はこの契約より解かれん』


 僕の死後に暴れられても困る。

 霊符そのものが、ここで効力を失うように。


 ――そして、一呼吸置いてから、最後の一文を付け足した。


 『一、主の命を守るために必要とあらば、朧は一時、主の命令に背くを許されん』


 筆を離すと同時に、父の気配がわずかに揺れた。


 「……ふむ」


 低く漏れた声。


 「主の命令よりも、主の命そのものを優先させるか」


 「はい。愚かな命令を下すことも、あるかもしれませんから」


 あえて、年相応の照れ隠しを混ぜてみせる。


 「そんなときにまで従ってもらっては、困ります」


 「七つの口から出る言葉とは思えんな」


 父は呆れたように言いつつも、霊符を取り上げて改めて目を通した。


 しばしの沈黙ののち、短く言う。


 「……よいだろう」


 霊符は父の手から戻され、僕の前にそっと置かれた。


 「では、血を」


 銀の小さな鋲が差し出される。

 躊躇わず指先に刺し、滲んだ血を霊符の下辺に一滴、落とした。


 紙がわずかに赤く染まり、すぐに墨の黒と溶け合っていく。


 「それが、お前と式との道筋だ」


 父は霊符をつまみ上げ、式盤の中央に静かに置いた。


 * * *


 「供物も、用意してある」


 父の視線の先には、低い台の上に小さな香炉と、黒く乾いた肉片がいくつか載せられていた。


 「肉……ですか」


 「第四階・小怪のうち、獣性の強いものと縁が結びやすくなる。

  お前の望む影に潜む従者と相性がよかろう」


 父なりに、僕の選んだ名から意図を読んだのだろう。


 香炉に火が入れられ、細い白煙が立ちのぼる。

 庭の空気が、すこし重たくなる。


 「よいか、夜斗」


 父が式盤のそばに立ち、静かに言う。


 「今から呼ぶのは、第四階・小怪のうち、邪気に近い幼体だ。姿は薄いが、言葉を解し、影を這い、匂いを追える程度のもの」


 「……はい」


 「こちらから望む性分は、三つまで。よく視ること、よく隠れるこ、匂いを嗅ぎ分けること、――今のところ、そのあたりだろうな」


 完全に図星だった。


 「他に望むものがあれば、今のうちに言え」


 少しだけ考え、ひとつだけ付け足す。


 「……逃げ足の速いものを」


 父が、わずかに目を細める。


 「逃げるためか」


「はい。僕も、式も、死んでしまっては意味がありませんから」


 その答えに、父は短く笑った。


 「欲深いな。――だが、悪くない」


 * * *


 式盤の周囲に、白砂で簡素な結界が描かれる。

 四隅の灯籠の火が、風もないのにわずかに揺らいだ。


 父は式盤の手前に膝をつき、目線で合図を送ってくる。


 「ここから先の呪は、夜斗。お前が唱えろ」


 「僕が、ですか」


 「ああ。霊符も名も、お前のものだ。呼びかける声もまた、お前自身でなければ意味がない」


 当然、といった口ぶりだ。


 短く、しかし重い呪文を、父が低く囁く。

 それを頭の中で二度、三度と反芻し、言い回しを自分のものにしていく。


 呼びかける階位。

 結ぶ縁の深さ。

 逃げ道を残す範囲。


 どれも誤れば、この身を締め上げる縄になる。


 「……承知しました」


 式盤の前に進み出て、膝をついた。

 霊符は盤の中央で、静かに横たわっている。


 深く息を吸い、胸の奥の熱と冷たさを、ひとところへ集めた。


 「黒瀬夜斗が、名をもって呼ぶ」


 自分の声が、夜気の中に落ちていく。


 「第四階・小怪のうち、影を這い、匂いを嗅ぎ分け、主のために、よく視て、よく隠れるものよ――」


 言葉に合わせて、霊力を式盤の中心へ流し込む。


 「朧と名づけられしものとして、我が契約に応じよ」


 最後の節を言い切った瞬間、式盤の縁に刻まれた紋様が、淡く青白い光を帯びた。


 灯籠の火が一斉に揺らぎ、庭の空気がぐう、と沈む。


 式盤の上――霊符の周りに、黒い靄がゆらりと立ち上がった。


 ただの煙ではない。

 夜の闇よりもなお濃く、まとわりつくような気配をしている。


 靄はゆっくりと渦を巻き、ところどころで、四つ足の獣の輪郭をかたどった。

 尖った耳の影、細い尾の影――それが浮かんでは崩れ、また形になりかけては溶ける。


 (……狼の、影?)


 胸の奥の霊力が、それに呼応するように微かに震えた。


 黒い影は霊符の文字をなぞるように、ゆっくりと円を描き、

 やがて一度、子狼ほどの大きさの影となって背を丸め――


 次の瞬間、すとんと音もなく、僕の足元へ落ちた。


 地面に伸びる僕自身の影が、ほんのわずかに膨らむ。

 輪郭が、耳と尾のかたちをかすかに形づくり、すぐにまた平らに戻った。


 (……潜ったな)


 足元から、こちらの様子をうかがうような気配がする。

 見えはしないが、暗闇のどこかで小さな目が笑っているのがわかった。


 「……今の、見えましたか、父上」


 「見えたとも」


 父は腕を組んだまま、静かに頷く。


 「第四階・小怪。影狼の仔だな。邪気と実体のあいだを揺れておる」


 「影……狼」


 思わず繰り返す。


 「尾も耳も、まだ影の端にしか見えぬがな。育て方しだいでは、よく働くだろう」


 そう言って、父はわずかに目を細めた。


 「黒瀬夜斗。

  それが、お前の最初の式神だ」


 足元の影の中から、くぐもった笑い声のようなものが、ほんの一瞬だけ聞こえた気がした。


 こうして僕は、黒瀬夜斗として最初の相棒――

 影に棲む小さな怪異、影狼の仔・『朧』と、契約を結んだのである。


————————————————————————


★評価が励みになります。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月18日 12:05

 妖都陰陽録―式神と歩む、分家陰陽師の生存戦略― 蛇足 @mikan22310

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画