第5話 陰陽道(5)
「おはようございます、父上」
庭に出て一礼すると、父は腕を組んだまま、短く告げた。
「ああ。――では見せてもらおうか。五行術の初歩、その一連の流れを」
喉の奥でひとつ息を整える。
この一週間、繰り返し身体に刻み込んだ感覚を、順に呼び起こしていく。
火から水へ、水から木へ、木を土で支え、最後に金で断ち切る――五つの行を、一筋の流れにまとめ上げるイメージだ。
「それでは、まいります」
そう告げて静かに目を閉じると、胸の奥で眠っていた霊力が、呼び水を得たようにざわりと動き始めた。
熱と冷たさが絡み合い、掌へ、足裏へ、指先へと、快活に巡り出していく。
* * *
――まずは、火。
吸う息と共に、みぞおちのあたりに熱を集める。
そこから右腕を通して、掌へと押し出す。
「火行・灯火」
低く呟いた瞬間、掌の上に、米粒ほどの橙の火がふっと灯った。
風もないのに、蝋燭の炎のように小さく揺れる。
「……よし。次だ」
父の声が、少しだけ硬くなる。
火をそのまま燃やし続けることもできたが、あえてそこで霊力の流れを切り替えた。
熱を一度胸に戻し、その周りを巡る冷たさへ意識を移す。
――次は、水。
「水行・滴り」
今度は左の掌に、冷たさを引き下ろす。
指先に集まった霊力が、表面張力を得るように丸まり、透明な水滴がひとつ、光を受けてきらりと光った。
火の残り香と、水の冷たさが、掌の上でぎりぎり共存している。
* * *
――水の次は、木。
左手の水の気配を、そのまま細く延ばし、庭の隅の若木の枝先へと導く。
同時に、胸に残していた熱を、ほんのわずか混ぜる。
「木行・芽吹き」
枝先がぴくりと震え、小さな新芽がひとつ、ゆっくりと顔を出した。
昨日まではなかった、それを僕は確かに見ている。
「……ふむ」
父の低い唸り声が聞こえた。
木に込めた霊力をそっと解き、今度は足裏へと意識を落とす。
――土行。
庭の中央に転がっている小石をひとつ選び、その下の土に霊力を沈めた。
「土行・支え」
地面の色が、わずかに濃くなる。
人が蹴っても、石がほとんど動かなくなる程度に、土を固める。
父が足先で軽く石をつつき、動きの鈍さを確かめている気配がした。
(最後だな)
* * *
金行は、一歩でも踏み外せば怪我をする。
だからこそ、これは一番控えめに見せるべきところだ。
胸に残った霊力を、一度冷まして細く圧縮し、右手の二本指に集める。
父が差し出した細工用の紐が、僕の目の前で揺れていた。
「金行・断ち」
囁くように呟き、指先を軽く払う。
紐が、かすかな抵抗と共に、音もなく切れた。
切り口は、あえて少しだけ荒くしておく。あまりに滑らかすぎれば、余計な詮索を招きかねない。
「……以上です、父上」
霊力の流れを静かに解き、深く一礼する。
掌の中には、まだ火と水の名残が、じんわりと残っていた。
* * *
しばしの沈黙。
風が庭の木々を揺らし、葉擦れの音だけが耳に入ってくる。
「顔を上げろ、夜斗」
促されて顔を上げると、父の視線が真正面からぶつかってきた。
「……初歩としては、出来すぎだな」
「畏れ入ります」
できるだけ素直そうな顔で答える。
「火行と水行は、一週間の子どものものとは思えん。木行も、芽吹きまで持っていくのに普通はもう少しかかる」
列挙されるたびに、胸の奥で、冷たいほうの霊力がちりちりと痺れた。
(褒め言葉なのか、はたまた疑念なのか…)
判断に迷うところだ。
「……ただし」
父はそこで少し言葉を切り、息を吐いた。
「まだ天才と呼ぶほどではない」
「……そうでしょうか」
思わず、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「初歩は、感覚のいい者なら早く覚える。真価が問われるのは、その先だ。中伝、上伝、行を掛け合わせる術――そこでこそ、天と地が分かれる」
それは、昨夜自分で考えていたこととほとんど同じだった。
(やはり、本当に隠すべきは、そこから先だな)
父は腕を組み直し、庭をぐるりと見渡してから、静かに告げた。
「約束どおりだ。五行初伝は、合格と見なす」
胸の奥で、熱のほうがわずかに膨らむ。
「……ということは」
「そうだ。一体だけ、式神との契約を許そう」
その一言で、視界の色が少し変わった気がした。
「ただし、勘違いするなよ、夜斗」
父の声音が、鋭さを帯びる。
「早く契ったからといって、それだけで強くなるわけではない。術者が怠れば、式はすぐに主を追い越し、いずれ喰う側に回る」
「……はい」
「お前の場合、なおさらだ」
「なおさら、ですか」
「火と水、ふたつの性を抱えた霊力だ。扱いを誤れば、お前自身が霧になって消える」
物騒な言い回しだが、たぶん父なりの警告なのだろう。
「式神を早く持ちたいというのも、理由としては悪くない。だが、持った以上は、その式を守る責任も背負うのだと、肝に銘じておけ」
守る、という言葉に、ほんの一瞬だけ眉が動く。
(……利用するつもりではいるが)
口には出さず、深く頭を下げるだけにとどめた。
「承知いたしました、父上」
父はひとつ頷き、空を見上げる。
「今宵はまだ、準備が要る。式盤と霊符、それに契約の場を清めねばならん。――明日の夜、契約の儀を行う」
明日。
思っていたよりも、ずっと早い。
「それまでの間、今日と同じく霊力の感知だけは怠るな。
式に触れたとき、流れを乱せば、それだけで命取りだ」
「はい」
返事をしながら、胸の奥で霊力が静かに波打つのを感じる。
一週間、「秀才」ぶってみせた結果としては、上々だ。
僕は式神を得る。
そして、その成長の時間を、誰よりも早く積み重ねることができる。
その代わりに、父にはある程度の「手の内」を晒した。
(まあ、悪くない取引だ)
火と水、二つの性を抱えた霊力が、掌の内側で小さく鳴った気がした。
こうして僕は、黒瀬夜斗として初めての相棒を得るための門の前に、ようやく立ったのである。
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