星空の記憶
鈴華圭
第1話 星空の記憶
昨年の春、僕は東京の大学に進学して一人暮らしを始めた。
東京の夜空は想像していたよりは綺麗だったけれど、かつてあの場所で見た星空と同じものとは到底思えなかった。
あるいは、隣に彼女がいたならば、東京の夜空も綺麗に映るのかもしれない。
思い出は胸を震わせ、行き場を失った左手は虚しく冷え切っていた。
肌を刺すような寒さの中、温かい缶コーヒーを片手に大学からの帰りのバスを待っていた僕は、まだ幼かった彼女のことを想っていた。
僕が生まれたのは、山のそばの小さな田舎村だった。
どうしてそんな田舎に住んでいたのかというと、すべては父のせいだった。父はギャンブル中毒者で、僕が生まれる少し前に多額の借金を背負ってしまい、それまでの生活ができなくなってその村へ引っ越してきたのだった。
学校へ行くにはまともに整備されていないぬかるんだ道を通らなければならなかったし、同世代の友達なんてほとんどいなかった。けれど当時の僕にとってはそれが普通のことであったから、特に辛苦の念を感じたことはなかった。
それに僕には、恋人と呼ぶべきなのだろうか、たった一人、とても大切な人がいた。彼女がいてくれたからこそ、都会に出てきた今でもなお、当時の記憶が褪せることなく鮮明に焼き付いているのだろう。
彼女の名は、
物心ついた時には、彼女は僕の傍にいた。
瀬川家は僕の家の近所で暮らしていて、一人娘の瀬川陽乃はその一帯では唯一の同級生だった。田舎というのはご近所同士の関係が親密であるのが常だし、同い年の子供を持つ母親同士が親しくなるのも自然なことだったのだろう。見刈家と瀬川家は家族ぐるみの付き合いをしていて、僕らはまるで兄妹のように育った。
僕は幼い頃から大人しい性格で、本ばかり読んでいた。一方、ハルはとても活発な子で、小学校からの帰路は彼女のわんぱくに付き合わされて、二人そろって泥だらけになって帰ることもしばしばあった。
そんな彼女のことを鬱陶しくも思っていたが、彼女に振り回されることに心地よさのようなものを感じていたのも事実だった。年月が経ち心身ともに成長するにつれ、僕はその感情がいわゆる恋なのだと自覚していった。
そして、それは僕らが中学2年生だった冬休みのある日のこと。
「葉ちゃん! 星を見に行こう!」
ハルは嵐のように我が家へやって来て、僕に向かってそう言ったのだった。
「……突然どうしたの?」
困惑とともに尋ねる。好奇心旺盛で活動的な彼女は、こんな風に唐突に遊びに誘ってくることがしばしばあったのだが、今度は星か。いったい何に影響を受けたのか。
「あのね、新月だと星が綺麗に見えるんだって! 知ってた?」
「それ、僕がこの前貸した小説に書いてあったことじゃないか。知らないわけないだろ」
「そうだっけ? まあなんでもいいや」
そんないい加減な彼女に僕は呆れる。
「それでね、今日は新月でしょ? で、冬は空気が澄んでいて星が綺麗に見えるって言うし。だから今日は、1年で1番綺麗な星空が見える日なんだよ!」
そこまで言い切るのはさすがにどうかと思うけど。
そう言おうとしたが、彼女の笑顔はとても輝いていて水を差すのも何となく気が引けたから、「まあ、そうかもね」と合わせておいた。これが失敗だった。このとき僕は適当なことを言って彼女の意識を星空から逸らすべきだったのだ。
「そういうわけだから、晩ご飯食べたらまた迎えに来るからね!」
僕の返事を待つこともなく、彼女はそう言い残して颯爽と帰って行ってしまった。
この時期、夜は本当に寒いから、正直に言うとあまり……かなり行きたくなかった。しかしながら、恐らく彼女の中ではすでに約束したことになってしまっている。あとで彼女がまた来た時に「行かない」などと言えば、「約束を破った」と怒るに違いなかった。ハルは喧嘩をしても次の日には大抵忘れてしまっているが、やはり彼女の怒った顔はあまり見たくない。仕方なく、僕は星を見に行く準備を始めたのだった。
「よーうーちゃん、あーそびーましょー」
ハルが来たのは21時を回った頃だった。僕の家もハルの家も、晩ご飯はだいたい18時頃だったから、どんなに遅くとも20時には来ると思っていたのだが、思った以上に彼女は遅れてやってきた。
「遅かったね」
僕が言うと、彼女は手に持っていた手提げ鞄を上に持ち上げた。
「ごめん、探してたの!」
「……鞄を?」
「ううん、レジャーシート」
鞄だけ見せられても分かるはずがない。
「いやー、レジャーシートなんてあんまり使わないからさ。どこに埋まってるのかお母さんも分からなくなっちゃって」
「……なんでもいいよ。早く行こう」
「おっ、葉ちゃんノリノリですなあ」
こうして玄関で話しているだけでもひどく寒いから、さっさと済ませてしまいたかっただけだ。「まったく葉ちゃんは面倒臭そうな顔してツンデレなんだから~」とニヤニヤしながら脇腹をつついてくるハルはかなりうざかった。
ハルに手を引かれて辿り着いたのは、地元の人にしか見つけられないような小さな湖だった。木々に囲まれて鬱蒼とした場所だったが、小さい頃から遊び場としていた僕たちにとっては馴染み深い場所だ。
「ひょわああああああ寒いいいいいいいいい」
冬の夜に、しかも水辺に来たのだから当然だ。彼女はバサバサと乱暴にレジャーシートを広げて、なぜか前転してから背中を地面につけて天を仰いた。
「おわあ、すっごいキレー!! 葉ちゃんも早くおいでよー!」
「はいはい」
寒さに身を固めながらのろのろと彼女に倣ってシートの上に横になり、空を見上げた。
闇に浮かぶ星々が、目に飛び込んできた。
息を吞むとは、まさにこういうことを言うのだろう。
読書が趣味の僕は、それまでに図鑑なんかで星空の写真や絵をたくさん見てきた。今さら星を見ても感動なんて出来やしないだろうと思っていた。
しかし、その雄大な美しさを前に、僕は言葉一つ出てこなかった。
「ね! 綺麗でしょ!」
一瞬、寒さも忘れて見入ってしまっていた僕はハルの言葉で我に返った。
「うん。本当に綺麗だ……」
こんなに寒い中、彼女に付き合って星を見に行くことをむしろ億劫に思っていたし、彼女をその気にさせてしまうような本を貸してしまった後悔もあったけれど、ここに来て良かったと、胸の内で彼女に感謝した。
すると、その時。ハルは僕の右手を取り、指を絡ませてきた。特段珍しいことではない。彼女が手を繫いできたり、腕を組んできたりは日常茶飯事だった。
「ねえ、葉ちゃん」
何となく、違和感を覚えたのはその声を聞いたときだった。彼女の声は少しだけ震えていて、寒さのせいだろうとも思ったが、何か緊張の色を帯びている気がして。しかしその表情は夜の闇に包まれていて、そこから何かを読み取ることは叶わなかった。彼女の心を読むことは諦めて、僕は尋ねた。
「どうしたの?」
そして、彼女は言ったのだった。
「葉ちゃん。私は葉ちゃんが好きです。私と付き合ってください」
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星空の記憶 鈴華圭 @Suzuhana_Kei
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