第8話
地下室にいる俺たちにとって、外の世界の「秩序」は遠い物語だった。しかし、その物語は今、地中深くの俺たちの居場所を指し示し、世界規模の最終警告を発してきた。
セナが未来の予言に集中している最中、地下室に設置された古い緊急警報システムが、甲高いけたたましい音を立て始めた。テレビの代わりに設置されている、異能管理センターから傍受した情報を受信するモニターに、英語と日本語で巨大なテロップが流れる。
【緊急警報:国際異能管理機構より】
対象:東雲冬弥(Bug Editor)を筆頭とする初期型感染者一味。
罪状:世界の根源的論理の破壊、秩序の崩壊因子。
措置:国際指名手配(レベルSSS)。所在地の特定が完了次第、全存在のデリートを執行する。
その映像には、俺の顔写真と、「実験体01」という冷たいコードネームが並んでいた。そして、ヒカリ、アヤメ、キョウコ、セナ、アキオといった初期型感染者たちの顔写真が、「テロリスト共犯者」として次々と映し出されていく。
「ちくしょう、国際指名手配だと!? マジかよ、世界の物語が本格的にウチらをデリートしに来やがった!」セナが絶望的に叫ぶ。彼の瞳の奥の未来の映像は、急速に「デリート確定」という結末に収束していくのが見えた。
俺の胸に、かつてないほどの自己嫌悪と恐怖が押し寄せた。
(俺は、また世界に大規模なバグを植え付けてしまった。俺が生きているというたった一つの事実が、この世界全体の物語を混沌に巻き込んでいる。俺という不完全なバグのせいで、ヒカリたちまで国際的な抹消対象になったんだ……)
俺の傍で、アカリは誰も自分を見ていないことに気づき、静かに首を傾げている。誰も彼女の存在を認識できないことが、ここでは唯一の救いだった。
「冬弥くん……」アヤメの妖艶な声が震えている。「あんた、今すぐ逃げな。あんたがここから消えれば、ウチらがデリートされる確率は……」
「逃げられねぇよ」俺は冷静に答えた。
俺の瞳が、モニターから発信される情報パルスを検出する。そのデータには、四人の執行者の名前が明確にコード化されていた。伊達マサミ、イリーニャ・マーリン、ルーカス・エルナンデス、そして……エリオニール・グレイシャ。
その瞬間、地下室全体が、まるで真空パックされたかのように、「沈黙」に包まれた。
音がない。呼吸の音、心臓の鼓動、初期型感染者たちが発する荒い感情のノイズ、そして、俺が世界の設定を読み取るための「言葉」の振動までが、完全に封じられた。
エリオニール・グレイシャ、語りの沈黙者の異能だ。
《緊急警告! 空間の「語り(振動、周波数)」設定が、普遍的な「沈黙(ノイズ:ゼロ)」で上書きされました》
《予測:バグ・エディターの改竄起点は「言葉」。改竄コマンドの実行、不可能》
俺の能力は、言葉という「振動」を介して、世界のプログラムを書き換える。エリオニールは、俺の能力の根源そのものを封じに来たのだ。
ヒカリが慌てて俺の袖を掴むが、声が出せない。彼女の口から漏れるのは、ただの空気の摩擦音だけ。アヤメの表情は凍りつき、キョウコの瞳の統計データは「全データ消失」のエラーを示していた。
「くそっ……」俺は歯を食いしばる。声が出せない。思考も、沈黙の重圧で圧縮されていく。このままでは、俺は能力を行使できず、執行部隊にデリートされる。
――破壊するな。消去するな。沈黙という物語そのものを破壊するな。
俺は震える手で、最も微細な改竄対象を探した。沈黙という設定そのものを破壊することは、この地下室を、声と振動の混沌で埋め尽くすことになる。それは、俺が最も恐れる暴力だ。
俺の瞳が、沈黙の論理を司る「空気の周波数」という設定ファイルに、ピンポイントで介入する。
「……その、設定……微弱な、音の反響」
声は出せない。俺は「言葉」ではなく、純粋な「概念」を、世界のプログラムに直接書き込んだ。
《設定ファイル書き換え完了。空気の周波数設定:沈黙の周波数に、0.0001Hzの「反響」という非論理的なバグを強制挿入》
瞬間、地下室の沈黙の重圧が、ほんのわずか、揺らいだ。
沈黙は破られていない。しかし、エリオニールが強制した「ノイズ:ゼロ」という設定に、俺は非論理的な「反響」という最小限の矛盾を埋め込んだのだ。これにより、俺の「概念」は、言葉という物理的な振動を介さず、沈黙の空間をすり抜けて、世界のプログラムに作用することができた。
「はぁ……はぁ……」
俺は、能力の過剰な行使による疲労で、その場に膝をついた。冷や汗が全身を流れ落ちる。能力を極限まで制御したことで、精神的な負荷は限界を超えていた。
「東雲さん!」ヒカリがやっと声を取り戻し、俺に駆け寄る。
「大丈夫か、東雲冬弥! あんた、沈黙のバグを……」セナが驚愕する。
俺は荒い息を吐きながら、キョウコを見た。彼女の瞳の奥の統計データが、激しく動いている。
「……沈黙は続いている。だが、沈黙の論理的な純粋性が破綻したべ。あの執行者の異能は、一時的に無力化された……」キョウコは、俺の改竄の正確さに、畏敬の念を深めていた。
俺は立ち上がり、執行部隊のデリートの脅威に晒された仲間たちを見た。俺の行動は、世界の秩序を敵に回し、彼らを地獄に突き落とした。だが、彼らの瞳は、俺への依存と信頼に満ちていた。
俺の戦いは、もう後戻りできない。世界の物語からのデリート要求に対し、俺は不完全なバグの力で、この反乱分子たちの物語の「生存」という設定を、最小限の暴力で書き換え続けるしかないのだ。
俺は、ヒカリの肩に額を押し付けたまま、全身の神経が焼き切れるような感覚に耐えていた。
能力の行使による自己嫌悪と、制御の負荷。沈黙を破るために、俺は世界の「音の周波数」という根源的な設定に、0.0001Hzの反響という、最も微細で非論理的なバグを強制挿入した。沈黙の論理を崩壊させる、最小限の暴力だ。
エリオニール・グレイシャの語りの沈黙者の異能は一時的に無力化されたが、俺の疲労も極限に達していた。
「東雲さん、大丈夫かべ……! あんた、顔色が紙みたいだ……」ヒカリが心配そうに呟く。彼女の声が聞こえる。その事実だけが、俺の心が完全に論理破綻するのを防いでいる。
「問題ない……最小限で済んだ」
俺は震える声でそう答えたが、その声はほとんど嘘だった。俺の瞳には、次の脅威が、世界のプログラムとして起動しているのが見えていた。
地下室のコンクリートの壁と床が、突然、鈍い光を放ち始めた。その光は、古代のレリーフや、失われた言語の象形文字のようなパターンを形成していく。
「な、なんだこれ!? 壁が神殿みてぇになりやがったぞ!」淀川アキオが驚愕する。
俺のバグ・エディターが、その光の「物語」を検出する。
《バグ検出:空間設定ファイルの「物語のテンプレート」が、古代神話の結末によって上書きされようとしています》
《発動異能:イリーニャ・マーリン(語りの継承者)》
次に来たのは、ロシアの執行者、イリーニャ・マーリンだ。彼女の異能は、古代の神話や伝説の「物語の結末」を、この空間に強制的に適用する。
この地下室の「設定」は、今、「滅びの神話」によって上書きされようとしていた。神話が確定すれば、この空間に存在するすべての非神話的な「新しい物語」(俺たちの存在や、初期型コミュニティの生存)は、論理的な破綻としてデリートされる。
そして、イリーニャの声が、冷徹に響き渡った。沈黙を破った俺の微細な反響を突いて、空間全体に響く、普遍的な「語り」だ。
「あなたの物語は、あまりに短絡的です、東雲冬弥。偶然や非論理的な改竄は、古代から受け継がれた普遍的な物語には勝てません。この空間は、今より『世界樹の根の裁判所』の結末を適用します」
その瞬間、床が溶け始めた。溶けたコンクリートは、暗い水銀のような液体となり、俺たちの足元から上昇してくる。
「その物語の結末は、『偽りの物語を語る者は、根の川に沈み、二度と語られなくなる』。あなた方は、世界の秩序という普遍の物語を否定した。故に、デリートされます」
水銀のような液体が、ヒカリの足首を包み込み始めた。
「東雲さん! 消される! おらが、また世界から……」ヒカリが恐怖で震える。
――この神話をデリートすれば、世界中の神話という「物語」のコアに、大規模なバグを埋め込むことになる。それは、世界の歴史と文化という、あまりに巨大な「設定」の破壊だ。
俺は震える膝で立ち上がり、頭の中のデバッグ本能の暴走を必死に抑え込んだ。
破壊するな。消去するな。最小限のデバッグで、この暴走を止めろ。
俺の瞳が、神話という巨大な物語の「設定」の中に潜む、一つの論理的な矛盾を探す。
《バグ検出:強制適用された『世界樹の根の裁判所』神話設定ファイル》
《矛盾点:神話の結末は「偽りの物語の消去」だが、物語の「続編」または「非線形な展開」に関する記述が欠落している》
古代の物語は、結末は確定しているが、「その後の世界」という、現代的な非線形な物語の概念に対応していない。
俺は、水銀に沈みゆくヒカリの手を強く握りしめ、イリーニャに向かって、極限まで抑え込んだ声で囁いた。
「その物語、非線形」
俺の言葉は、イリーニャが空間に強制した神話の結末の概念に、ピンポイントで作用した。
《設定ファイル書き換え完了。神話の物語の結末設定:「結末に達した後、物語は続編(非線形)へと移行し、結末の論理は一時的に保留される」というバグを強制挿入》
水銀のような液体が、ピタリと止まった。液体は消えない。神話の「物語」もデリートされていない。しかし、神話の「結末の論理」が保留されたことで、「デリート」という結末が確定しなくなったのだ。
「馬鹿な……! 古代の神話に非線形という、現代のバグを……!?」イリーニャの冷静な瞳に、初めて動揺の色が走る。
俺は、その場に崩れ落ちた。能力の行使による精神的負荷は、沈黙を破ったときを遥かに超えている。冷たいコンクリートの上で、ヒカリが俺の体を抱きかかえてくれた。
「東雲さん……また、最小限で……」ヒカリの声は震えているが、その瞳は、世界が崩壊しなかったことへの安堵に満ちている。
俺の不完全なバグ・エディターは、神話という強大な物語に対し、「物語は続く」という、最もささやかな希望の設定を上書きしたのだ。
これが、俺の戦い方だ。破壊ではない。ただ、世界の物語の結末に、「続編」という小さなバグを埋め込み続けること。
俺の体は、限界だった。
沈黙という概念に反響を埋め込み、神話という歴史の物語に「続編」という非線形のバグを挿入した。能力を使った後の反動は、全身の神経を逆撫でし、頭痛と吐き気が同時に襲ってくる。ヒカリの腕の中で、冷たいコンクリートの感触だけが現実だった。
上空から、イリーニャ・マーリンの冷徹な声が再び響いた。沈黙を破った俺の微細な反響を突いて、彼女は異能を再調整している。
「東雲冬弥。あなたの異能は、論理的なデリートではなく、物語の概念的な遅延を選択した。これは古代の神話の欠陥……非線形の概念に対応していないという普遍の物語のバグを突いたに過ぎません」
彼女の声は、悔しさではなく、純粋な解析だった。
「ですが、遅延はデリートではありません。物語は必ず結末を迎えます。あなたの最小限の暴力は、あなたの最大の弱点です。次は、あなたのリミッターを破壊します」
そして、コンクリートに描かれていた神話のレリーフが消え、イリーニャの異能の波動が遠ざかるのを感じた。一時撤退だ。
「くそっ……」俺は呻いた。遅延。そうだ、俺はただ破壊を先延ばしにしているだけだ。俺が力を振るうたびに、この世界の物語の構造は歪み、いつか一気に崩壊するだろう。
ヒカリは俺の髪をそっと撫でてくれた。「あんたは正しいべ、東雲さん。物語は続くんだ。あんたがおらを助けてくれたときから、ずっと続いているんだ」彼女の言葉は、俺の能力の不完全さを、肯定という形で包み込む。
その時、キョウコが冷たい声で分析を始めた。「古代の物語の結末を『一時保留』した。論理的な結末は変わらねぇが、時間軸の確定を避けた。完璧なデバッグや」
「あんたは、彼の痛みがわからへんのか!」アヤメがキョウコに向かって鋭く言った。「彼の心は、能力を使うたびに引き裂かれとるんや。あんたの言う『デバッグ』は、彼の自己嫌悪を増幅させるだけや!」
アヤメの言葉には、俺の苦痛への共感と、ヒカリの優しさに嫉妬するような、複雑な感情のノイズが混じっていた。キョウコは感情を無視し、冷たく反論する。
「感情は非効率。彼のデバッグは、感情を排除することで成立している。彼の行動を肯定することが、彼の生存確率を上げる、最も論理的な物語や」
ヒカリ、アヤメ、キョウコ。三人のヒロインが、俺の能力の行使を巡って、感情・倫理・論理という三つの側面から対立し始める。俺という不完全なバグの周りに、それぞれの「物語」が激しく衝突し始めている。
その時、地下室の湿った空気が、一気に熱を持った。
その熱は、物理的な温度ではない。初期型感染者たちが持つ、荒々しい感情のノイズが、外部からの干渉によって、無理矢理増幅されているのだ。
「うわぁ! な、なんだこれ!? 身体中の血が沸騰しそうだ!」淀川アキオが頭を抱えて叫ぶ。
アヤメの表情が凍りつく。彼女の夢想具現のバグは、周囲の感情に依存する。この熱が、彼女の能力を再び暴走させる可能性を示していた。
俺のバグ・エディターが、その熱の「物語」を検出した。
《バグ検出:空間設定の『熱量/感情の周波数』が、外部異能によって強制的に無限大へと傾斜しています》
《発動異能:ルーカス・エルナンデス(語りの炎使い)》
「イリーニャが遅延させた物語を、炎で確定させるつもりか……」
情熱的で挑発的な口調を操る、炎使いのルーカス・エルナンデス。彼の目的は、俺の「感情のリミッター」を破壊するために、俺の自己嫌悪というバグを、制御不能な破壊衝動へと強制的に書き換えることだ。
「おい、バグ・デバッガー! あんたの冷たい理性は、俺の炎で溶かしてやるぜ! 自分の力を恐れてる? いいじゃねぇか、全部燃やしちまえよ!」ルーカスの挑発的な声が、熱波に乗って地下室全体に響く。
俺は再び、能力を使わなければならない。今度は、感情という、最も不安定で、最も制御が困難な世界の「設定」が、俺の前に立ちはだかった。
――破壊するな。消去するな。感情の物語そのものを壊すな。
俺は震える指を、空間の熱波へと向けた。
俺の瞳が、熱波の根源ではない、熱力学の概念に潜む、最小限の矛盾を検出する。
「その設定、熱の移動効率:ゼロ」
《設定ファイル書き換え完了。空間内の熱エネルギーの「拡散」と「移動」設定を、論理的な矛盾によって一時的に無効化》
地下室の熱波が、一瞬で固定された。熱は消えていない。ルーカスの異能は発動したままだ。だが、熱が初期型感染者たちに「移動する」という物理法則が、俺の最小限の改竄によって阻害されたのだ。熱は、ルーカスが作り出した場所に、壁となって張り付いている。
俺は、自己嫌悪に苛まれながらも、最小限の力で、また一つ、世界の論理に嘘を吐いた。
俺の身体に残された能力の残滓は、もはやわずかだ。沈黙の論理と、熱力学の概念に二連続で介入した代償は大きく、ヒカリの肩に体重を預けなければ立っていることすら難しい。
ルーカス・エルナンデスは、俺の最小限の改竄によって熱の伝播を封じられ、無駄な感情の暴走を嫌って撤退した。だが、次の執行者がすぐに来ることは、俺のバグ・エディターの警告なしにも明白だった。
その予感は的中した。地下室の壁のコンクリートが、再び古代のレリーフの光を放ち始める。イリーニャ・マーリンだ。彼女は単身、俺たちの目の前に姿を現した。銀色の髪と白いコート。その瞳は冷たく、俺の非論理的な行動への激しい「憤り」を湛えていた。
「驚きました、東雲冬弥。あなたの改竄は、世界の論理的整合性を破壊する、最も醜悪なバグです」
彼女の声は冷静だが、底には怒りが煮えたぎっている。
「私が強制した神話の結末に、『続編』という現代の非論理的な概念を挿入した。それは、古代から続く普遍の物語に対する冒涜です。あなたは、物語を固定化する力を持つのに、なぜそれを拒むのですか?」
彼女の異能、語りの継承者は、世界の安定のため、物語を普遍的かつ固定的なものにすることを信じている。彼女の価値観から見れば、俺の行動は、世界の歴史そのものを不安定にしているのだ。
「俺の力は、破壊するためにあるんじゃない」俺は喉を絞り出すように言った。「あんたの普遍の物語は、俺たちの存在という、新しい物語をデリートしようとしている。それは、世界の設定ミスだ」
「論外です」イリーニャは首を振った。「世界の秩序に反する個人の存在は、普遍の論理によって過去に収束し、確定されるべきです」
彼女はそう言い放ち、異能を発動した。地下室全体に、彼女が信奉する神話の概念が満ちる。それは、「過去の決定」という概念の強制だ。
《バグ検出:空間設定ファイルの「過去の絶対性」が、普遍的な神話によって強制的に上書きされています》
《予測:東雲冬弥および初期型感染者の『過去の行動と結末』が、世界の論理によってデリートされる》
彼女は、俺たちの「現在」の反乱を、論理的な「過去の失敗」という物語に確定させ、その結果としてデリートを強制しようとしたのだ。
この能力は、俺のバグ・エディターの根源を揺さぶる。なぜなら、俺の力は現在から未来の設定を改竄するものであり、既に確定した過去の物語に介入することは、世界の歴史そのものを破壊する最も危険な暴力だからだ。
――過去の物語は不変だ。これを書き換えれば、世界は時間軸を失い、完全に崩壊する。
俺は震える指を、イリーニャの異能の「普遍の物語」の根源へと向けた。
彼女の異能のバグ。それは、「普遍性」という設定にこだわりすぎるあまり、「継承者自身の固有の解釈権」という、物語を伝える上で最も重要な設定を、自ら切り捨てている点だった。
「その設定、解釈権:ユニバーサル」
俺は全身の力を振り絞り、言葉を、イリーニャの異能のコアへと打ち込んだ。
「それを、ローカルに」
《設定ファイル書き換え完了。普遍の物語の『解釈権の所在』設定を、論理矛盾によって「継承者(イリーニャ)自身の固有の意志」へと強制的に上書き》
瞬間、イリーニャの纏う古代の光が、彼女の意志によって「揺らぎ」始めた。彼女の信奉していた普遍的な神話が、彼女個人の「解釈」という、非論理的な変数によって、支配権を奪われたのだ。
「あ……これは……! 私の、物語が……」
イリーニャは愕然と目を見開いた。彼女の瞳に映るのは、古代の神話の映像ではなく、彼女が幼い頃、その物語を初めて読んだときの、個人的な感動という、彼女だけの「物語」だった。
俺は、彼女の能力を破壊しなかった。ただ、彼女が「普遍」に依存し、自ら放棄していた「自我」という設定を、最小限の力で復活させたのだ。
俺は膝をついたまま、イリーニャに語りかけた。
「あんたの力は、世界の物語を継承できる。だが、あんた自身の物語を語らなければ、それはただの過去のコピーだ。俺たちは、今を生きる続編の語り手だ」
イリーニャは、手のひらに浮かんだ、彼女個人の記憶の光を見つめ、涙を一滴流した。彼女は、普遍という檻の中で、自分の自我というバグを、無意識に消去していたのだ。
彼女は静かにコートを翻し、俺に向かって深々と頭を下げた。
「東雲冬弥……あなたのデバッグは、私の物語の真実を確定させました。私は、秩序側の物語の執行者ではありません。私自身の物語の継承者として、この戦いに加わります」
こうして、俺は秩序側の最も危険な執行者の一人、イリーニャ・マーリンを、最小限の暴力と、彼女自身の物語の救済という形で、味方につけることに成功した。俺の周囲には、ヒカリの存在、アヤメの欲望、キョウコの運命、そしてイリーニャの普遍という、四つの強力な「物語」の力が集結し始めた。
俺の不完全なバグ・エディターの戦いは、世界の秩序との戦いから、「誰が世界の物語の真の語り手になるか」という、概念的な戦争へとステージを上げたのだ。
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