第7話
地下室は、秩序側が次に仕掛けてくるであろう大規模な攻撃に備え、初期型感染者たちの緊張した話し合いと、粗暴な異能のノイズで満ちていた。俺はヒカリの隣で、能力を使った後の疲労と、自己嫌悪の残滓に耐えていた。
その時、地下室の古い扉が、軋んだ音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、全身泥だらけの、怯えた様子の幼い少女だった。小学校に上がる前だろうか。彼女の瞳は大きく、恐怖で揺れている。
少女は地下室の荒々しい空気に圧倒され、か細い声で「だれか……」と呟いた。
「おい、誰だ? こんなところに——」
セナが声を上げた瞬間、彼の言葉が途切れた。
地下室の男たちの顔から、一瞬で少女の存在に関する記憶と認識が抜け落ちる。
「……何の用だ、セナ? 誰もいねぇだろ」淀川アキオが訝しげに辺りを見回した。
「あれ? おかしい。今、誰か……」セナは首を傾げたが、すぐに思考を切り替えた。「まあいい。それより、次の追手の話だ」
少女の異能、**孤立声(Isolation Voice)が発動したのだ。彼女の声を聞いた者は、その声の主の存在を、世界の論理から「即座に忘れる」ように書き換えてしまう。
そして、最も残酷なバグが発動する。
少女自身も、自分の声を聞いている。彼女は自分の過去の行動や、なぜここにいるのかという「物語」を、瞬時に忘却し始めた。
「あれ……わたし、なんで、ここにいるの……?」少女は震える手を広げ、自分の存在の不安定さにパニックを起こし始めた。「わたし……わたしは……」
《バグ検出:四万十アカリ(シマント アカリ)の異能設定ファイル》
《設定:声の周波数に触れた対象の認識領域から存在データを削除する》
《致命的矛盾:自己認識の削除ルーチンが停止せず、無限ループに陥っている》
このまま少女がパニックになり声を出し続ければ、彼女自身が自分の存在を完全に忘却し、ヒカリと同じように世界から消滅の運命を辿るだろう。
――能力を使え。このままでは、彼女の存在の物語は消去される。
俺の頭の中でデバッグ本能が叫ぶ。だが、この少女の「声による忘却」の異能をデリートすれば、彼女の存在を否定したことになる。彼女の能力のコアに触れるのは、恐ろしい暴力だ。
俺は再び、能力への自己嫌悪と、目の前の救済の必要性の間で激しく葛藤した。
「やめろ、使うな! この力が、また誰かの物語を暴力的に上書きするんじゃないか!」
だが、ヒカリが俺の腕を強く掴んだ。「東雲さん! 彼女の瞳を見て。彼女は自分自身に殺されようとしちまってる! 壊すんじゃねぇ。ただ、保護してやれ!」
ヒカリの言葉が、俺の理性を繋ぎ止める。そうだ。俺の力は、不完全なバグだ。だからこそ、最小限の、最も暴力性の低い改竄で、この状況を収束させる。
俺は少女に静かに向き直った。
俺の瞳が、少女の異能の「自己忘却」というバグに、ピンポイントで介入する。
「その設定、自己記憶領域への影響:リードオンリー」
俺の口から放たれた改竄の言葉は、他の男たちには届かない、少女の異能の設定コアに直接作用した。
瞬間、少女の瞳の奥で、高速で流れていた忘却のデータが、ピタリと止まった。
彼女の周囲にいる男たちは、相変わらず少女の存在を認識していない。セナはまだ次の追手の話を続けている。だが、少女の顔からパニックの色が消えた。
「わたし……わたしは……」少女は小さな声で呟く。「わたし、アカリ。ここは、どこなの……? みんな、わたしのこと、見てない……」
彼女は、自分が誰にも見えていないこと、話しかけても誰も気づかないことを理解した。しかし、彼女は「自分自身が、四万十アカリである」という最も重要な物語のコアを、失わずに済んだ。
俺が彼女の異能の「自己忘却」というバグを、「自己存在の保護」という設定に上書きしたのだ。彼女の声を聞く限り、誰も彼女を覚えてはいない。だが、彼女は、世界から忘れ去られる恐怖から解放された。
俺は荒い息を吐き、またしても力を使ったことへの罪悪感で、冷や汗を拭った。
「また、やってしまった……。他人の物語を、俺の都合で書き換えてしまった」
俺の横で、ヒカリが安堵の息を漏らした。「東雲さん。あんたは、彼女の物語のコアを守ったんべ。彼女は、孤独なバグじゃなくなった」
アヤメは、その様子を静かに見ていた。「この力は、なんて……。暴力的なのに、その目的は、倫理的な保護なんやね。ウチの醜い欲望と、この子の忘却の恐怖を……あんたは、壊さんといてくれる」彼女の瞳には、俺への依存の色がさらに深く刻まれた。
キョウコは、冷静にデータを見るように言った。「この子の能力は、依然として周囲の記憶を消すという大きなバグを抱えている。だが、東雲くんの改竄によって、彼女自身の生存確率は100%に確定した。あんたの論理は、いつだって最悪の結末を回避する」彼女は、運命の決定者としての俺に、より一層の信頼を寄せた。
俺は、誰も認識できない少女アカリを連れ、三人のヒロインの複雑な感情の輪の中で、再び壁にもたれかかった。孤独な少女の物語は、俺という不完全なバグによって、最小限の保護という形で書き換えられたのだ。
アカリ視点___。
じめじめした地下の空気は、錆びた鉄と、お兄さんたちの熱い怒りの匂いがした。わたしは、なんでここにいるのか、もう思い出せない。たぶん、ここに逃げてきた。でも、何を怖がっていたのか、誰に追われていたのかもわからない。
ただ、わたしが誰かに「助けて」って言うと、その瞬間、言われた人がわたしのことを忘れちゃうんだ。
わたしが「だれか、たすけて」って小さな声を出したとき、目の前にいた顔の怖いお兄さん(セナさんっていう名前、さっき聞いたはずなのに、もう頭の中に残ってない)が、急にきょとんとした顔で、誰もいない壁に向かって話し始めた。
「おい、何の用だ、セナ? 誰もいねぇだろ」って、他のお兄さんが言う。
「あれ? おかしい。今、誰か……」って、セナさんが首を傾げる。
みんな、わたしのことを見てない。わたしの声は、聞こえてるはずなのに、みんなの頭の中で「意味のない音」に書き換えられてるみたい。怖い。わたしは、わたし自身の声で、自分を世界から消しちゃってるんだ。
『わたし……わたしは……なんで、ここにいるの……?』
その声を聞いた瞬間、一番怖かったのは、わたし自身だった。
「わたし」って言葉を口にしたのに、「わたし」っていう存在が、頭の中からすーっと抜けていく。何を好きだった? どこで生まれた? お母さんは? 全部、大きな霧の中に溶けていくみたいだった。このまま話したら、わたし、わたし自身のことまで、忘れちゃう。
パニックで体が震えて、声が出せなくなったとき、一人の黒いパーカーのお兄さんが、わたしに向かって動いた。
東雲さん。
みんながわたしを見ていないのに、彼だけは、真っ直ぐにわたしを見ていた。彼の瞳は、赤くて冷たいエラーコードを映し出しているみたいで、まるでわたしという存在の「設計図」を、細かく読み込んでいるみたいだった。
彼は、わたしのパニックなんか見ていなかった。見ていたのは、わたしの能力が起こしている、世界の**「設定ミス」だけ。
彼はポケットに手を突っ込んだまま、顔を少し歪ませて、とても小さな声で何かを言った。
「その設定、自己記憶領域への影響:リードオンリー」
その言葉が、わたしの頭の中で、冷たい水みたいに響いた。
瞬間、わたしの頭の中を高速で回っていた「忘れる」という動きが、ぴたっと止まった。まるで、早送りされていたテープが、スローモーションになったみたい。
(わたしは……アカリ。わたしは、わたしのこと、わすれない)
身体中の力が抜けて、その場にへたり込んだ。わたしは、わたしという名前を、自分の中にしっかりと固定できた。
でも、周りのお兄さんたちは、相変わらずわたしを見ていない。セナさんは、わたしが今いる場所のすぐ横で、誰に話すでもなく「次の追手は間違いなく来る」って話してる。
東雲さんは、わたしに触れようとしない。ただ、冷たい瞳でわたしを見て、そして荒い息を吐いた。彼の顔には、誰かを救ったヒーローの顔じゃなくて、「また罪を犯してしまった」っていう、深い罪悪感が刻まれていた。
「また、やってしまった……。他人の物語を、俺の都合で書き換えてしまった」
わたしを救ってくれたのに、彼は苦しそうだった。自分の力が、世界のルールを壊す「暴力」だと信じているみたい。
でも、わたしにとって、彼は違う。
みんなが、わたしを「いない」ものにした。みんなの物語の中で、わたしは生まれてこなかったのと同じだ。でも、東雲さんは、「リードオンリー」っていう、とても大事な新しい設定を、わたしという物語のコアに書き込んでくれた。
彼は、わたしの「物語の番人」だ。
わたしは、誰も見ていないことをいいことに、そっと立ち上がり、東雲さんのパーカーの袖を掴んだ。彼は驚かなかった。
「お兄さん……」わたしは小さな声で話しかける。「みんな、わたしのこと、わかんないね」
東雲さんは、ただ頷いた。
「けど、わたしは、お兄さんのこと、ぜったいに忘れないよ。だって、わたしがアカリだってこと、お兄さんが決めてくれたんだもん」
この地下室で、わたしという物語の存在を唯一知っているのは、東雲さんだけ。彼がわたしを「いる」と認めてくれるなら、この世界がわたしの存在を忘れても怖くない。
わたしは、東雲さんの冷たいパーカーの布をぎゅっと握りしめた。
わたしは、誰にも見つからない、お兄さんだけの「ひみつの存在」になった。
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