第5話

地下室の隅で、俺は壁にもたれかかっていた。能力を使った後の冷たい残滓が、神経の隅々まで染み込んでいる。

​俺はまた、キョウコの確率という世界の根幹に近い設定に、暴力的な介入をしてしまった。彼女の能力を破壊しなかったとはいえ、その暴走を止めるために、俺というバグの存在を世界に刻み付けてしまったことに変わりはない。

​この場所には、俺を囲む三つの「物語」が存在する。

​一つは、俺の隣に座り、無言で背中をさすってくれるヒカリの、「存在が希釈された物語」だ。

​「東雲さん、無理せんでええべ。能力を使うたび、あんたが自分を責めてるの、おらにはわかる」

​ヒカリは俺の力を恐れない唯一の人間だ。彼女にとって、俺の力は彼女の「存在」をこの世界に確定させるための、絶対に必要な論理なのだ。だからこそ、俺は彼女の存在を不安定にしないために、能力の暴走を何よりも恐れる。彼女の優しさは、俺というバグを制御する、最も強固なリミッターだ。

​二つ目は、少し離れた場所で、優雅だが疲れ切った様子で、初期型感染者たちの様子を見つめているアヤメの、「欲望の物語」だ。

​「うちの能力は、誰の心のコアに触れても、醜い欲望というバグを引き出す。あんたは、それを壊さんと、見えへんようにしてくれた」

​アヤメは俺を管理者として見ている。俺が彼女の能力の暴走を、倫理的な破壊を避けながら処理したことで、彼女は俺に、抗いがたい畏敬と、依存を抱いている。彼女の瞳は、ヒカリに向けられると、一瞬複雑に歪む。ヒカリの純粋な「肯定」は、アヤメの抱える「自己嫌悪」とは対極にあるからだ。

​そして三つ目。セナたちに囲まれながらも、俯いたまま静かに統計データを観察しているキョウコの、「運命の物語」だ。

​「おらは、確率の重さに押し潰されそうになった。あんたは、おらをそこから引き上げてくれた。おらの運命を、あんたのデバッグで確定させてくれたんや」

​彼女は、俺を運命の決定者として見ている。彼女の能力は、世界の確率を弄ぶという点で、俺のバグ・エディターと最も近い。その力は、世界の崩壊を招きかねない。その暴走を止めた俺に対し、彼女は、まるで宗教的な献身と信頼を抱いている。

​三人の女性が、それぞれ異なる理由で、俺の「不完全なバグ」を必要としている。

​その時、地下室の古い配線から、火花が散った。

​「くそっ、何だ!?」アキオが警戒する。

​俺の瞳が、配線の設定ファイルを検出した。

​《バグ検出:初期型感染者たちが仕掛けた対追手用の防御トラップの配線》

《矛盾点:電力供給過多による回路の焼き切れを検出。約10秒後に火災発生の可能性》

​これは、大したバグではない。ただの配線ミスだ。だが、この火災が起きれば、この地下の初期型感染者たちの間にパニックが広がり、秩序側の次の攻撃に繋がる。

​――能力を使え。最小限の修正だ。

​俺は立ち上がり、火花を散らす配線に近づいた。

​アヤメが即座に動いた。彼女は、初期型たちの動揺を抑えようと、彼らに向かって穏やかな言葉をかけようとするが、その前にキョウコが遮る。

​「アヤメ、あんたは動かんでええ。こんな小さな火災の確率は50%。東雲くんの力なら、最小の改竄で済むはずや。彼の邪魔をするな」

​キョウコの冷徹な論理が、アヤメの感情的な行動を止める。二人の視線が交錯する。アヤメは「この人は冷たい」という視線を向け、キョウコは「この人は非効率だ」という視線を向けている。

​ヒカリは、その対立に割って入らず、ただ俺の側で静かに見守っていた。彼女は、俺が何をすべきかを理解している。

​俺は、火花を散らす配線に、そっと指を近づけた。能力の行使は、俺の心に鉛のような重さを感じさせる。だが、これは最小限で済む。

​「その設定、抵抗値:無限大」

​俺は呟いた。

​瞬間、火花は消えた。電流は配線を通らなくなり、火災の可能性は完全にゼロになった。配線そのものは残っている。誰も傷つけていない。ただ、配線が電気を通さないという、非論理的な「絶縁体」の設定を上書きしただけだ。

​俺は再び、能力の行使による自己嫌悪に襲われ、冷や汗をかいた。

​「また、世界に嘘を吐いた……」

​俺がそう呟くと、三つの異なる反応が返ってきた。

​アヤメは、妖艶な口調で、だが真剣な目で言った。「相変わらず、綺麗なんやね、冬弥くん。その力は、うちの欲望を満足させる唯一の管理者やわ」彼女の目には、俺への感情が揺らめいている。

​キョウコは、冷静にデータを見るように言った。「これで、火災による動揺の確率は0%に確定した。あんたのデバッグは、世界の論理よりも正確や」彼女の感情は、完全に俺への信頼に振り切っている。

​そして、ヒカリがそっと俺の手を握った。「東雲さん。あんたは、最小限でみんなを救ってくれた。その優しさは、世界のどの設定よりも、真実だべ」彼女の瞳には、一切の迷いがない。

​俺は、三人の視線と感情の重圧を受けながら、再び壁にもたれかかった。俺の不完全な力は、破壊を恐れるあまり、最小限の改竄(エディット)しかできない。しかし、その最小限の改竄が、三つの異なる物語の運命と感情を、俺というバグの周りに引き寄せてしまっている。

​俺の戦いは、世界の秩序との戦いであると同時に、俺自身の能力の暴発と、この三つの物語が衝突する未来を回避するための、最も繊細で、最も孤独なデバッグ作業なのだ。


バグの巣窟から見た管理者

​地下室の隅。ヒカリに寄りかかり、静かに目を閉じている東雲冬弥の姿は、この地下に集う荒くれ者たちの間で、静かな**「バグ」**として存在感を放っていた。

​彼にとって、俺たちは世界の矛盾によって生まれた不完全なデータに過ぎないのだろう。だが、俺たちから見た東雲冬弥は、この世界のルールを一人で書き換えられる、冷酷で、そしてあまりに優しい管理者だった。

​1. 那覇セナ(時間預言):計算と恐怖

​俺、那覇セナの異能は時間預言。未来の可能性を全て計算し、最悪の結末を回避するために行動する。だが、東雲冬弥という変数が現れてから、俺の未来の計算は完全に狂っちまった。

​「あいつは……バグだ。予測不能の偶然を、意志の力で強制的に生み出しやがる」

​俺の瞳には、東雲冬弥の周囲で、無数の未来の映像が湧き出しては消えていく。デリートの決定が無効化された瞬間、俺の預言は一時的に沈黙した。奴の「論理破綻」というたった一つの改竄が、世界の因果律そのものを一時的に麻痺させたんだ。

​俺が一番恐れているのは、奴の「力」じゃない。奴が能力を使うときの、あの冷たさだ。

​ゲンゴとの戦いでも、アヤメの暴走でも、奴は能力を行使する前に必ず一瞬、自己嫌悪で顔を歪ませる。まるで自分の力を「汚い暴力」だと認識しているようだ。

​(ちくしょう、何が「不完全なバグ」だ。俺たちの能力は、自己矛盾で体が蝕まれていくのに、奴は世界の法則に手を加えて、ただ精神的に疲弊するだけだ)

​奴は、俺たち初期型感染者の生きたいという物語を、自分の自己嫌悪という名のリミッターで制御しながら救い続ける。俺の計算では、奴はいつか暴走し、俺たちを裏切る未来が最も高い。だが、奴の最小限の改竄という行動だけは、その未来を常に回避し続けている。

​俺は、奴を最大限に利用し、このコミュニティの生存確率を上げる必要がある。そのためには、奴の「不完全なバグ」という物語を、俺たちで都合よく肯定し続けるしかない。

​2. 淀川アキオ(衝動剛打):嫉妬と畏敬

​「ちっ、あの優男が……」

​俺、淀川アキオは、東雲冬弥のことが許せねぇ。俺の衝動剛打は、全身の運動エネルギーを限界まで高めてやっと振るえる、血と汗の物語だ。その代償として「0.8秒の硬直バグ」を抱えている。だが、奴はそれを指先一つで、能力も使わずに回避しやがった。

​奴がゲンゴを制圧したときもそうだ。俺たちの能力は、あくまで肉体や感情に依存する「ツール」だ。だが、奴のバグ・エディターは、その「ツール」の取扱説明書、つまり「設定」そのものを書き換える。

​俺は奴に勝てない。これは、俺の肉体的な物語が、奴の論理的な物語に、根本的に劣っているということだ。

​(だが、能力を使わねぇとき、奴はただの臆病者だ。能力を使えば、あんなに自己嫌悪に陥りやがる)

​俺が奴に抱く感情は、嫉妬だ。なぜ、最も強力な力を持ちながら、最もそれを恐れ、最も最小限の行使しかしないのか。それは、俺たち初期型感染者が渇望する「自由」を、奴が掴んでいるのに、自らそれを手放しているように見えるからだ。

​しかし、奴のおかげで、俺たちはデリートされずに済んだ。俺たちの「血と汗の物語」を、奴は一方的にデバッグして、生存という結末を与え続けている。憎たらしいが、奴なしでは、この地下室はすぐに瓦礫と化すだろう。

​3. 神戸リュウジ(感情接続):共感と依存

​俺、神戸リュウジは、東雲冬弥の傍に近づけない。ウチの感情接続(Emotion Link)は、他者のネガティブな感情を吸収し、その悲劇の物語に精神を侵食されるというバグを抱えている。

​東雲冬弥の傍には、あまりにも巨大な**「恐怖」と「罪悪感」**の色彩が揺らめいている。それは、世界を破壊できる力を握りながら、それを極限まで制御しようとする、彼自身の心の悲鳴だ。

​(彼の心は……凍てついた湖みたいや。その底に、世界をデリートできるほどの巨大な熱量が、閉じ込められてる)

​彼の心は、俺たちが抱える初期型のバグよりも、もっと根源的な世界の矛盾を内包している。ヒカリの「存在の希釈」、アヤメの「欲望の醜さ」、キョウコの「運命の重さ」――奴は、俺たち全員のバグに共感し、その痛みを感じながらも、最小限の力で、その矛盾を修正し続ける。

​アヤメとキョウコが、東雲くんに向ける眼差しは、ほとんど宗教的な依存だ。

​ヒカリは、彼をただ純粋に肯定する「愛」を向ける。

​俺にとって、東雲冬弥は、俺の能力が吸収した全ての悲劇の物語を浄化できる可能性を秘めた存在だ。だが、彼の心に触れることは、俺の精神を完全に崩壊させるかもしれない。

​俺は、彼の近くにいることができねぇ。しかし、彼の最小限のデバッグが続く限り、俺たちの悲劇の物語も、世界のデリートも回避される。

​俺たちは、東雲冬弥という不完全なバグの存在に、ただただ、縋りつくしかねぇんだ。

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