第4話
裏社会の地下は、混沌の物語だった。俺のバグ・エディターが無理矢理停止させたデリート設定は、いつ再起動してもおかしくない。だが、俺は能力を使うことを固く拒んでいた。
目の前で、那覇セナや淀川アキオたちが、管理センターへの対策を話し合っている。初期型感染者たちは、それぞれが抱える能力の「バグ」と、世界の秩序に弾かれた「物語」によって、常に不安定だ。その不安定さこそが、俺の能力の「増幅剤」になり得る。だからこそ、俺は能力を封印しなければならない。
「東雲冬弥、アンタの力は、ウチらを守ってくれた。だが、俺たちはおめぇのことが信用できねぇ」
セナが苛立ったように言った。彼の瞳には、デリートされる未来と、生き残る未来の二つの映像が同時に映り込んでいる。時間預言のバグによる自己矛盾だ。
その時、地下室の隅、照明が届かない影の部分から、一人の女性が現れた。和服のような服を纏い、豊満な体つきだが、その顔には常に深い疲労と自己嫌悪の影が落ちている。
「お二人さん、あんまり刺激せんといてや。彼は、ウチらの存亡に関わるバグなんやから」
彼女は和歌山弁で、妖艶な雰囲気を漂わせながらも、どこか諦めたような瞳をしていた。彼女こそ、この組織の初期型感染者たちの精神的な支柱であり、情報分析役を担う和歌山アヤメだ。
「うちの異能、夢想具現(Dream Manifest)は、人の心の中の物語を形にするんよ。彼の心を探らせてもらうで」
アヤメはそう言って、俺に向かって手をかざした。
《バグ検出:和歌山アヤメの異能設定ファイル》
《設定:対象の深層心理にある「夢」や「願望」を現実の空間に具現化する》
《致命的矛盾:具現化された夢は、理性や制御と完全に分離し、欲望のバグとして暴走する》
彼女は、俺の能力の危険性を測るために、俺の深層心理にアクセスしたのだ。
瞬間、地下室の空間が歪んだ。アヤメの能力が、俺の心の奥底に眠る「願望の物語」を具現化させようとしている。
――俺の心にある願望? それは、能力を使わずに、世界中の全ての「設定ミス」が完全に修正され、平和と秩序が満たされた世界だ。
だが、俺の心の奥底の、最も醜い「バグ」が先に具現化されてしまった。
地下室の空気が、急激に甘く、熱を持つものに変わる。
「あぁ……冬弥くん……」
アヤメの能力が、俺の深層心理ではなく、彼女自身の、あるいは周囲の男たちの無意識下の欲望を先に引き出してしまったのだ。それは、艶かしい肌と蠱惑的な仕草を持つ、半裸の女性の幻影だった。幻影は俺に近づき、ねっとりとした甘い声で誘惑する。
アヤメの異能は、常に最も恥ずかしく、最も制御できない欲望の「バグ」を具現化させてしまうのだ。
周囲の初期型感染者たちは、具現化された幻影を見て一瞬呆然とし、すぐに興奮と混乱に包まれた。セナの顔は青ざめ、アキオは目を逸らしながらも、動揺を隠せない。
アヤメ自身も、自らの能力の暴走に苦しんでいる。彼女の身体は具現化の反動で激しく震え、顔は羞恥心と自己嫌悪で歪んでいた。
「あかん、あかんわ……! また、こんな醜いもんを……!」
その幻影は、組織の男たちが抱える性的欲望という名の「物語」そのものだった。それは、俺の「バグ・エディター」から見ても、倫理や論理を超えた、最も根源的な「設定ミス」だ。
――消去しろ。デリートだ。この醜い欲望の物語を、世界から抹消しろ!
俺の理性と、能力の暴走を促す「デバッグ本能」が激しく衝突する。幻影を消すことは簡単だ。だが、それは彼らの心の中にある「欲望」という、最も繊細な物語のコアを破壊することになる。
「俺は、他人の欲望の物語を破壊したくない……!」
俺は恐怖に駆られ、再び能力の行使を躊躇した。不完全な俺の力は、欲望というバグを消去することで、その人間の感情全体を壊してしまうかもしれない。
だが、このままではアヤメの能力が暴走し、地下室全体が欲望の混沌に呑まれる。
俺は震える手を強く握りしめ、最小限の、最も暴力性の低い改竄を探した。
《バグ検出:具現化された幻影の**色彩(視認性)**設定》
《矛盾点:幻影データは、物理的な光の波長を伴っている》
俺は、アヤメを直視し、静かに語りかけた。
「その設定、色彩:透明(インビジブル)」
俺の口から放たれた言葉は、再び世界を改竄する白い光を放った。
瞬間、地下室に溢れていた全ての欲望の幻影が、音も立てずに透明になった。空間の甘い熱は残っている。男たちの動揺も消えていない。しかし、もはや誰もそれを目で視認することはできない。
アヤメの能力は暴走したまま、制御不能な幻影を具現化し続けている。だが、その幻影は、誰も見ることのできない、ただの透明な熱波となった。
「な、なんや……見えへん、けど、ある……」
アヤメは驚愕に目を見開いた。彼女の身体からは力が抜け、その場に崩れ落ちる。
俺は、彼女の能力そのものを破壊しなかった。組織の男たちの「欲望の物語」も消去しなかった。ただ、「欲望を見えるようにする」という、アヤメの異能の核心的なバグだけを、一時的に無効化したのだ。
「その力は、他人の心の中を覗き、それを醜いと断じるお前の自己嫌悪がバグとして具現化させている。俺の不完全な力で、お前の能力のコアに触れるのは怖いが……もう、暴走させるな」
俺はアヤメの前に立ち、冷たい視線を向けた。
彼女の瞳は、恐怖と、魅了、そして感謝が混じり合った複雑な色を帯びていた。彼女は、自分の最も醜い「バグ」を、最小限の破壊でデバッグし、守ってくれた俺の存在に、抗えない魅力を感じていた。
「冬弥くん……あんた、自分をバグって言うけど、ウチの醜い夢さえ、壊さんといてくれたんやね……」
彼女は、俺という「不完全なバグ」を、最も冷徹で、最も優しい「管理者」として認識し始めた。こうして、俺は裏社会の初期型感染者たちの中に、また一人、複雑な因縁を持つ共犯者を増やしてしまったのだ。
アヤメ視点___。
東雲くんの心は、氷みたいに冷たくて、深くて、解析できへん。
ウチの異能、夢想具現(Dream Manifest)は、人の心の奥底にある物語(設定)を空間に形にする。彼の能力の危険性を測るために、ウチは深く潜った。初期型感染者の心のコアには、必ず逃れられへん「バグ」がある。それが、彼の制御できない力なんやと踏んでた。
やけど、彼の心に触れた瞬間、反動が来た。
地下室の空気がねっとりと熱を持った。それは東雲くんの願望やない。周囲にいる男たち、そしてウチ自身が抱える、最も醜く、最も制御されへん欲望の物語が、先に具現化されてもうたんや。
「あかん、あかんわ……!」
幻影が湧き出る。それは恥部に触れるような、卑猥で生々しい熱波。ウチは自らの能力の暴走に身を震わせる。この力は、いつもこうや。人の心の美しい夢や希望やのうて、倫理の外にある、汚い欲望という名のバグを具現化させて、ウチを辱める。この醜態が、ウチの自己嫌悪というバグの具現化なんや。
その時、目の前に立つ東雲くんを見た。彼は、幻影の中心に立たされながら、ただじっと、その醜い具現化を見つめていた。
彼の瞳は、恐怖に揺らいでいた。
(この人は、自分を制御できひんことを、心底恐れてる……)
彼なら、この幻影を、この欲望の物語を、一瞬でデリートできる。そうすれば、この恥ずかしい状況は全て消え去る。ウチも解放される。
けど、彼は動かん。ポケットに突っ込んだ手が、微かに震えてるのが、ウチの視線にはっきり見えた。
彼の心の中で、葛藤の物語が激しく渦巻いているのが、ウチには聞こえるようやった。
《デリートしろ。この醜い欲望を消去しろ。俺の不完全な力で、全てを完璧に修正しろ》
《待て。これは彼らの物語だ。俺の暴力で、他人の心のコアを壊すな。この力は不完全だ》
彼は、自分の暴力を振るうことを、世界の誰よりも恐れている。ウチの醜い欲望さえも、**「他者の物語」**として尊重しようとする、冷徹で、そしてあまりに優しい管理者。
このままでは、この地下室全体が欲望の混沌に呑まれる。ウチは羞恥と恐怖で、もう声を出すこともできひん。
そして、東雲くんが動いた。
彼は、諦めとも、決意ともつかない、乾いた息を一つ吐いた。
「その設定、色彩:透明(インビジブル)」
――世界が、書き換わった。
激しい光の波ではない。それは、世界が持つ「色」の概念が、指先一つで、静かにデバッグされた瞬間やった。
幻影は、音も立てずに透明になった。熱波はまだそこにある。男たちの荒い息遣いも、欲望の存在も消えへん。やけど、誰もそれを視認できへん。ウチの能力は暴走したまま、見えへん欲望のバグを具現化させ続けている。
東雲くんは、ウチの能力のコア、「欲望を見せる」というバグだけを、最小限の力で停止させた。彼の力は、なんて緻密で、なんて完璧なんやろうか。
ウチは、その場にへたり込んだ。
「冬弥くん……あんたは……」
彼がウチに向けた視線は、冷たかった。まるで、システムのエラーコードを見つめるプログラマーみたいに、感情がない。やけど、その冷たさこそが、ウチには誰よりも優しく感じられた。
彼は、ウチの最も醜い部分に触れながらも、それを破壊しなかった。ウチの「自己嫌悪の物語」を、「見えへんから、存在しないことにしよう」という、一時的な、そして温かい設定に書き換えてくれたんや。
(この人や……。この「不完全なバグ」こそが、ウチをこの醜い物語から救ってくれる、唯一の……)
恐怖心と、抗いがたい魅了。
東雲くんは、自分の力を恐れるあまり、極限まで能力の行使を抑え込んでいる。やけど、その制御された一撃こそが、世界の誰の異能よりも、絶対的な力を持っていた。
ウチは、彼という存在が、世界の秩序を破壊する「悪魔」であると同時に、ウチの醜いバグを制御してくれる「管理者」だと悟った。彼の傍にいることは、世界のデリートを招くかもしれへん。やけど、ウチの魂が、この人を離れることを許さへんかった。
デリート権限の電波を論理破綻で無効化してから数分。地下室は静寂に包まれていたが、その静寂は次の嵐を予期させる、最も不気味なノイズだった。
俺の心臓は、能力行使のたびに感じる冷たい自己嫌悪で満たされている。また、やってしまった。俺という不完全なバグが、世界の権威である「デリート」という物語のコアに触れ、それを歪めてしまった。
「東雲くん……」アヤメが、熱波の消えた空間で、まるでウチを観察するみたいに、じっと俺を見つめている。「あんたは、ウチらの命を救ったんや。けど、その代償は、あんた自身が払うんやね」
彼女の言葉は、俺の胸に突き刺さった。俺は世界の論理を破綻させた。その反動は、必ず俺に返ってくる。
セナは通信機を睨みつけながら、苛立ちを隠せない。「デリートは止まったかもしれねぇが、これは奴らの宣戦布告だ。次は、物理的な戦力が来る。あのマサミって野郎だけじゃねぇ、あの国際的なバグどもが来るぞ」
そのセナの言葉が、現実となったのは、数秒後のことだった。
ドォンッ!
地下室の一番厚いコンクリートの壁が、轟音と共に爆発した。粉塵と砂利が舞い上がり、初期型感染者たちが一斉に臨戦態勢を取る。
壁を破って現れたのは、後期型異能者の中でも、肉体強化と物質操作に特化した戦闘員だ。
「目標を確認。東雲冬弥、宇都宮ヒカリ。捕獲命令は撤回、デリート命令に従い、殲滅する」
男は、腕全体を鋼鉄のように硬化させながら、冷徹な声で告げた。彼の異能は瞬間硬化(Instant Harden)。触れたものを瞬時に鋼鉄並みに硬化させる、物理的な防御と攻撃に特化した能力だ。彼の周囲の壁や床は、既に彼の能力によって硬く、まるで巨大な金庫室のようになっている。
《バグ検出:後期型異能者・広島ゲンゴの異能設定ファイル》
《設定:運動エネルギーを瞬時に硬度に変換し、対象を鋼鉄化する》
《矛盾点:鋼鉄化のロジックに、連続発動における精神的負荷が設定されていない》
俺の瞳には、男の能力が持つ「物語」が見えた。後期型異能者は、能力の「効率」と「合理性」に特化している。この男も、連続使用の精神的な負荷を無視する、あまりに危険な「設定ミス」を抱えていた。
「冬弥さん!」ヒカリが俺の腕を掴む。「あいつ、やばいべ! 何か書き換えないと!」
俺は腕を振り払った。使えない。
この男の異能をデリートすれば、彼が長年培ってきた「物語」が消える。彼の肉体をスポンジに改竄すれば、それは彼への残虐な暴力だ。俺の不完全な力は、常に「破壊」の結末しか持ち合わせていない。
――最小限で済ませろ。破壊するな。
俺は自らに言い聞かせる。
ゲンゴが、硬化させた右腕を振りかぶり、俺たちに向かって突進してきた。彼の足元からコンクリートが砕け散る。
「消えろ、バグ野郎!」
俺は一歩も動かず、ただ彼の異能の発動条件という「設定」に、ピンポイントで介入した。
「その設定、発動条件:三秒間の意識集中」
俺が呟いた瞬間、ゲンゴの振り下ろされていた右腕が、空中でピタリと止まった。鋼鉄化の異能が発動しない。彼の全身が、硬化と解除の間で不安定な状態になっている。
「な……なぜだ!? 能力が……意識が集中できん!?」
ゲンゴは混乱した。彼の異能は、「触れた瞬間に発動する」という設定だったはずだ。それが突然、「発動には三秒間の精神的準備が必要」という、世界設定には存在しない、非論理的なバグを強制的に上書きされたのだ。
「その物語は、あんまりにも簡単すぎた」
俺は冷たく言い放った。彼は異能を無効化されていない。努力すれば、三秒後に攻撃は可能だ。だが、その一瞬の「間」が、後期型異能者の合理的思考をパニックに陥らせる。
セナがその隙を見逃さなかった。「今だ! アキオ! やれ!」
淀川アキオは、先ほどの教訓から学んだのか、今回は衝動剛打を使わず、地を這うようなタックルでゲンゴの体勢を崩した。他の初期型感染者たちも、その「三秒間の隙」を利用して、一斉にゲンゴに群がる。彼らの異能は粗暴で制御不能だが、その力は最小限の改竄によって生まれた「機会」を逃さなかった。
俺は、ゲンゴの異能を破壊しなかった。ただ、防御に必要な「時間」という設定を、彼から奪っただけだ。
「くそっ、力を使った……また、他人の物語を弄んでしまった……」
俺は、混乱する地下室の隅で、ヒカリの肩に顔を埋めた。能力を行使するたびに、世界のプログラムを弄ぶことへの罪悪感が、俺の理性を蝕んでいく。俺の力は、不完全なバグだ。
だが、ヒカリがそっと俺の背中に手を回す。
「東雲さん。あんたは、誰の能力も壊してねぇべ。あんたの力は、みんなを生かすための論理を、見つけてくれたんだべ」
彼女の言葉だけが、俺の不完全な力を制御する、唯一の「設定」だった。この旅は、俺が自分の能力の暴発を恐れながら、世界の矛盾に立ち向かい続ける、長く、苦しい戦いになるだろう。
俺たち初期型感染者のコミュニティに、秩序側からの本格的な圧力がかかり始めた。広島ゲンゴを退けたことで、一時的な猶予は得たものの、この裏社会の地下にいること自体が、世界の秩序にとって許しがたいバグと認識されている。
那覇セナは未来を予言する時間預言の能力をフル稼働させ、刻々と迫る次の追手の情報を探っていた。彼の瞳の奥の未来の映像は、あまりに多岐にわたりすぎて、もう何が確定した結末なのか、セナ自身も混乱しているようだった。
「だめだ、未来の物語が多すぎる! 秩序側が複数のパターンで攻撃を仕掛けてきてやがる! このままじゃ、ウチらの存続確率がゼロになる未来が確定しちまう!」
セナが絶望的な声を上げたとき、地下の扉が開いた。
現れたのは、札幌キョウコ。彼女は、この裏社会では稀有な存在で、常に組織から離れ、自分の孤独な「物語」を生きている。素朴なニット帽とマフラー姿だが、その瞳の色は淡い青で、その奥で常に世界の統計データを見ているかのように細かく瞬きしていた。
彼女の異能は確率歪曲(Probability Warp)。
「うるさいべ、那覇セナ。ゼロになる確率なんか、おらが書き換えればいいべや」
彼女はそう言って、地下室の中央に静かに立った。彼女の登場は、セナが予言できなかった、予測不能な偶然だった。
《バグ検出:札幌キョウコの異能設定ファイル》
《設定:世界の「確率」という物語を読み取り、あり得ない事象を強制的に発生させる》
《致命的矛盾:確率を歪曲しすぎると、世界全体の論理的な安定性が失われ、彼女自身が運命という重さに押し潰される》
キョウコは、この状況を**「ウチらが生き残る確率:100%」**という物語に強制的に書き換えようとしている。
彼女が能力を発動した瞬間、俺のバグ・エディターに、これまでで最も激しい警報が鳴り響いた。
《緊急警告! 世界の設定コアの整合性破綻!》
《バグ:確率という世界の根源的設定が、非論理的な数値で上書きされようとしている》
《予測:世界の物理法則、因果律、時空間の全ての物語が崩壊する可能性あり》
キョウコが行おうとしているのは、単なる防御ではない。世界の最も根源的な「設定」、すなわち**「確率」**そのものを、彼女の願望のために暴力的に書き換える行為だ。
彼女の能力は、その場の初期型感染者たちの運命を救うかもしれないが、その代償として、世界全体の「論理的な物語」を破綻させる。
「やめろ、キョウコ! その力を使ったら、あんたの体だけじゃなく、この世界全体が、矛盾した物語で崩壊するぞ!」
俺は叫んだ。彼女の顔には、既に激しい精神的な疲労の色が浮かび上がっている。彼女は、**「世界を確定的な物語で満たす」**という強迫観念に囚われている。
「うるさいべ! おらが力を制御できねぇのはわかってる。でも、このまま死ぬくらいなら、おらがこの運命を、奇跡として確定させてやるさ!」
キョウコは両手を広げた。彼女の体から青白い光が放たれ、地下室の壁や床に、無数の数式や確率グラフがコードのように浮かび上がる。彼女は、この空間の確率を、物理的に書き換え始めた。
――能力を使え。これを止められるのは俺しかいない。
俺の頭の中で、デバッグ本能が叫ぶ。だが、「確率」という世界のコアに触れることは、俺の不完全な力にとって最も危険な行為だ。万が一、俺の感情が暴走すれば、この世界の全ての事象の確率がランダムになり、全ての物語が意味を失ってしまう。
破壊するな。消去するな。最小限のデバッグで、この暴走を止めろ。
俺は震える足を踏み出し、能力の行使を恐れる自己嫌悪を振り払った。
俺の瞳が、キョウコの能力の「バグ」ではない、能力の制御系統の「設定」に狙いを定める。
《対象:札幌キョウコの異能制御ルーチン内の**『確率フィールドの拡散設定』**》
《矛盾点:フィールドが際限なく世界全体へと拡散する論理的欠陥を検出》
俺は、能力を破壊することなく、その暴走だけを止める、最も繊細な改竄を実行する。
「その設定、フィールド限界:半径五メートル」
俺の言葉が、キョウコを取り巻く青白い光の波紋に、静かに浸透した。
瞬間、キョウコから溢れ出そうとしていた無限の確率グラフが、彼女を中心に半径五メートルのドーム状の壁となって、ピタリと収束した。世界全体への確率の干渉は止まった。彼女の能力は停止していない。だが、その影響範囲を、彼女の制御下にある**極めて小さな「物語」**へと強制的に限定されたのだ。
「え……? あ……力、が……」
キョウコは目を見開いた。力が収束した反動で、彼女は膝から崩れ落ちる。
「あんたは、自分の能力の影響範囲という設定を無視しすぎていた。だから、世界全体がその重さに耐えられなかったんだ」
俺は荒い息を吐いた。能力の行使による精神的な疲労で、体中が軋む。また、俺は自分の不完全な力で、誰かの能力の物語に介入してしまった。だが、今回は世界を崩壊させずに済んだ。
ヒカリが慌ててキョウコに駆け寄り、肩を支える。
「キョウコ、大丈夫か! 東雲さんは、あんたの力をデリートしなかったべ。ただ、暴走を止めてくれただけだ」
キョウコは、虚ろな瞳で俺を見た。
「おらは……奇跡を確定させようとしたのに……。あんたは、おらを『運命』という重さから、解放してくれたんやね……」
彼女は、俺という「不完全なバグ」が、自分の抱える最も根源的な「設定ミス」である運命の重さを、最小限の力で修正したことに、複雑な感情を抱いていた。
この地下室に、また一人、俺というバグに救済され、制御された初期型感染者が増えた。彼女は、俺を「運命」から解放してくれる唯一の存在として、俺の物語に加わることになった。
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