第2話

​ヒカリ視点___。

大通りに出ても、おらは未だに東雲さんの手を離せなかった。

​彼の指先は、さっきまで世界のルールを書き換えるという、信じられねぇ暴力を振るったばかりだっていうのに、氷みたいに冷たかった。冷たくて、頼りなくて、それでいて、世界で一番確かな「存在」を教えてくれるものだった。

​マサミ様の因果律。世界の論理そのものがあの時、おらの存在を消去しようとしたんだ。だって、おらの異能存在透過は、世界のデータから「おらを消す」っていうバグを抱えていたから。あの白くて冷たい光の中に、おらは本当に消えて、誰の記憶にも残らない影になるのが見えた。

​だが、東雲さんは、その全てを否定した。

​「その設定、矛盾している」

​彼の口から出た言葉は、ただのセリフじゃなかった。世界のプログラムそのものに直接打ち込まれる、絶対的な上書きコマンドだった。あの瞬間、おらという存在の「物語」はデリートされずに、東雲さんの力によって「ここにいる」という新しい設定を与えられた。

​おらは、彼の力を恐ろしいと思った。後期型異能者たちが使う能力が、ただの「ツール」だとしたら、東雲さんの力は、そのツールを生み出す「OS」をいじる、世界のクリエイターの力だ。

​でも、同時に、おらは知っている。彼自身が、その力を一番恐れていることを。

​「黙ってろ」「俺の力は不完全だ」「いつか、俺自身が世界最大のバグとして、全てを消してしまうかもしれない」

​冷たいパーカーの奥で、彼の身体が震えていた。フリーズさせた警備員たちの真横を通り過ぎるとき、彼は力を使ったことへの罪悪感で、まるで自分が汚れたかのように顔を歪ませていた。

​彼は、自分の力が世界を破壊すると信じている。

彼は、自分の力を「不完全なバグ」と呼んでいる。

​だけど、おらにとって、彼は違う。

​おらの異能は、おらを世界から「いない」ものにした。家族も、友達も、管理センターの連中も、誰もが「宇都宮ヒカリ」というデータを見失っていた。おらは、自分が消えても、誰も気づかねぇって、ずっと思っていた。それは、おらの物語が、誰からも語られないまま、終わるってことだべ。

​そんなおらを、東雲さんは見つけてくれた。

​彼が口にした「バグ検出」という言葉。それは、彼の「バグ・エディター」という能力が、世界の何よりも確かな情報として、おらを検出したってことだ。

​彼が「フレームレート:ゼロ」って言って警備員を止めたとき、おらの心の中で、一つの確信が生まれた。

​東雲冬弥は、おらを「いる」と言ってくれた、世界で初めての、だれがだべ。

​彼は自分を「世界のバグ」と呼ぶ。だども、おらにとって、彼はおらの物語の主人公だ。

​おらの存在を確定してくれる、ただ一人の語り手。

​だから、おらは彼の傍を離れねぇ。彼が自分の力を恐れるのなら、おらが彼の「物語」になってやる。彼の不完全なバグを、おらの「存在」で支えてやる。

​彼のパーカーの袖を掴んだ手に、力を込めた。

​「あんたの力は、おらを救ったんだべ。おらは、あんたの共犯者だべ」

​世界の秩序は、俺たちを「犯罪者予備軍」と呼ぶ。それでも構わない。おらはもう、この世界から消されねぇ。この旅路は、俺と東雲さんが、この矛盾だらけの世界に「宇都宮ヒカリ」という物語を、力ずくで書き込んでいくための、新しい物語の始まりだ。


冬弥視点___

倉庫街での一件以来、俺の脳裏には常に、異常な量の警告メッセージが点滅している。

​ヒカリの存在は確定できた。だが、その代償は大きかった。俺がマサミの因果律を砕いたことで、「世界の語り手」が構築する秩序側――異能管理センターの警戒レベルは、間違いなく最大まで引き上げられた。

​俺たちは廃墟や人通りの少ない路地を伝って逃走を続けているが、追手の密度と質が上がっているのは明らかだった。

​「チッ、今度は広域異能索敵か……」

​俺の瞳に映る世界のデータが、数百メートル先のビルの屋上から放たれる、広範囲の異能パルスを検出した。後期型異能者の中でも、追跡に特化した索敵班だ。

​《バグ・エディター警告:広域索敵パルスのデータ流量、許容範囲超過》

《予測:このままでは数分で正確な存在座標を特定される》

​「東雲さん、どうすっべ! あいつら、まるで蜘蛛の巣みてぇに張ってきやがった!」

​ヒカリが焦った声を上げる。彼女の存在透過は、センサーやカメラには有効だが、異能による広域パルスには限界がある。このままでは、ヒカリの異能も、俺自身の存在も、世界のデータとして捕捉されてしまう。

​俺は再び、自分の力の暴発を恐れた。

​警備員をフリーズさせたときのように、部分的なバグを埋め込むだけではもう間に合わない。索敵パルスそのものを無効化するか、パルス発信源の異能者の「設定」を書き換えなければ、この網から逃れられない。

​――パルスを止めれば、世界の情報伝達の一部を破壊することになる。異能者を書き換えれば、そいつの「物語」を消去するのと同じだ。

​「やめろ。使うな。この力は不完全だ。俺の不完全な感情で、またこの世界を壊してしまう」

​俺は全身の筋肉が硬直するのを感じた。能力の行使は、俺にとって常に最悪の選択だ。だが、立ち止まれば捕まる。捕まれば、ヒカリは消去され、俺は再び「実験体01」という物語に閉じ込められる。

​俺は唇を噛みしめ、選択する。最小限の破壊で済む、一時的な改竄を。

​俺の視線が、索敵パルスの発信源であるビルの「異能設定ファイル」に注がれる。

​「対象:ビル外壁の光の反射率」

​俺は低く呟いた。

​「その設定、ゼロ」

​《設定ファイル書き換え完了。光の反射率:0.00%》

​一瞬、数百メートル先のビル全体が、まるで巨大な穴が開いたかのように、光を完全に吸収する漆黒の影となった。索敵パルスは無効化されていない。しかし、そのパルスが反射・拡散されるべき物理的な「設定」が、瞬間的に消去されたのだ。

​「な、なんだ!? 索敵にノイズが入った! ビルの反射データがゼロになったぞ!」

​追手の混乱した声が聞こえる。俺が書き換えたのは、ビルの外壁の光の反射率というごく単純な物理法則一つだけ。だが、それが周囲の異能の連携を一時的に麻痺させた。

​「東雲さん……あんた、また……」ヒカリが息をのむ。

​俺は汗を拭い、荒い息を吐いた。身体が鉛のように重い。こんな単純な改竄でさえ、世界のプログラムに手を加えることに対する精神的な負荷は、尋常ではない。

​「逃げるぞ。こんな芸当は長くは続かない。次はもっと質の高い追手が来る」

​秩序側のルールから外れた俺たちが行きつく場所は、一つしかなかった。

​「東雲さん、おらが知ってるとこがあるべ」ヒカリが立ち止まり、古い地図を指差した。「初期型異能者(バグ)の連中が、ヤクザみてぇなことやってる場所に、逃げ込むんだ」

​「裏社会……初期型感染者の巣窟か」

​その場所は、異能管理センターの監視から最も遠く、世界の秩序の「物語」が最も希薄な場所だった。そこには、世界のルールに「致命的な矛盾」をもたらし、秩序の外で生きることを選んだ初期型感染者たちが集まっている。例えば、神戸リュウジのように、強大な能力のバグに苦しみながらも生きる者たちだ。

​俺は嫌悪感を抱いた。裏社会とは、俺の能力が最も活きる場所だ。だがそれは、俺の力を制御する理性を失い、世界を好き放題書き換えることを意味する。

​不完全なバグの巣窟。

​「行くぞ、ヒカリ」

​俺は自分の能力への嫌悪と、生き残るための必要悪の間で、やむを得ず裏社会へと足を踏み入れた。

​雑居ビルの地下に降りると、そこは湿った空気と、異様な熱量が満ちていた。空間全体が、強い感情と異能のノイズで渦巻いている。

​扉を開けて入った瞬間、十数人の荒くれ者たちが一斉に俺たちを見た。彼らは皆、強力だが致命的なバグを抱えた初期型異能者たちだ。彼らの眼差しは、俺たちを値踏みしている。

​「ようこそ、東雲冬弥。アンタのことは知ってるぜ、バグ・エディター。世界のルールを破壊する悪魔だ」

​迎え入れたのは、沖縄方言を喋る男、那覇セナだった。彼はアロハシャツを着て、瞳の奥に無数の未来の映像を宿している。

​「ここは、おめぇら秩序側の語り手に否定された、俺たちバグの居場所だ」

​俺は彼らの視線から目をそらした。これから、俺はこの裏社会という名の「バグの巣窟」で、自分の不完全な力を抑え込みながら、世界最大のバグとして生きていくことになる。

​俺はヒカリの手を握りしめた。これが、俺の新たな物語の舞台だ。


​雑居ビルの地下深く、俺たちが足を踏み入れた場所は、異能管理センターが創り出した「秩序」の光が一切届かない、世界の裏側だった。

​那覇セナは、俺たちを値踏みするような目で見ていた。アロハシャツとビーチサンダルという場違いな出で立ちのくせに、彼の瞳の奥には、無数の「未来の映像」が慌ただしく流れているのが見えた。時間預言の能力のバグだろう。

​「世界のルールを破壊する悪魔、ねぇ……。俺はただの、設定ミスを検出するデバッガーだ」

​俺がそう呟くと、セナは口元を歪めた。

​「へぇ、謙虚だねぇ、東雲冬弥。おめぇの力で、ウチらの組織を壊しに来たんじゃねぇのか?」

​「俺は、俺の不完全な力で誰かを壊すのは嫌いだ。ましてや、あんたらみたいな……」

​俺は言葉を止めた。あんたらみたいな、世界の矛盾によって弾き出された「バグ」を、さらに俺という「バグ」が破壊するなんて、ごめんだ。

​その時、隅にいた一人の男が立ち上がった。体中に無数の傷痕があり、後期型異能者の合理的な能力とはかけ離れた、力任せのエネルギーを纏っている。

​「てめぇがバグ・エディターか? 世界を書き換えられるって噂のな」

​男は淀川アキオと名乗った。彼の異能は衝動剛打。肉体の運動エネルギーを一瞬で高め、爆発的な打撃を生み出す、初期型特有の粗暴な力だ。彼の周囲の空間が、わずかに熱で歪んでいる。

​「俺はな、おめぇみたいなチートが許せねぇんだよ。俺の異能は、身体を張ってやっと得られた、血と汗の物語だ。それを、指先一つで消せるってか?」

​アキオは地面を蹴り、その体が音速に近い速度で俺に迫った。彼の右腕に、蓄積された運動エネルギーが青白い光となって集約する。

​《バグ検出:淀川アキオの異能設定ファイル》

《設定:運動エネルギーを限界まで高める》

《致命的矛盾:運動エネルギー放出直後、反動により肉体の全稼働が0.8秒間停止する》

​俺の瞳には、アキオの異能が発動する瞬間の「バグ」が、鮮烈な赤いエラーコードとして見えた。奴の打撃は凄まじい破壊力を持つが、その直後には、世界から切り離されたかのような**「無防備」**という矛盾を生む。

​――能力を使え。こいつの異能を「打撃停止」に書き換えれば、一瞬で終わる。

​俺の頭の中で、合理的な「デバッグ」の囁きが響く。だが、俺は両手をポケットに突っ込んだまま動かなかった。

​書き換えれば、アキオの「努力の物語」そのものを消してしまう。俺の不完全な力は、デバッグの名を借りた破壊でしかない。俺は、その暴力を振るうのが恐ろしい。

​俺は能力を使わない。この能力に頼らず、この場を切り抜けなければ、俺はまた自分自身を制御できない「バグ」だと認めることになる。

​アキオの拳が、俺の顔に迫る。衝撃波が肌を叩き、ヒカリの悲鳴が聞こえた。

​俺は、迫りくる拳の軌道、その運動量、空気抵抗、そしてアキオの肉体が耐えられる限界の物理設定を、瞬時に読み取った。

​「その物語、燃費悪すぎだろ」

​俺はわずかに右肩を下げた。本当にわずか、数センチの回避。

​アキオの必殺の拳は、俺のパーカーのフードを掠め、その先にある鉄骨の柱に激突した。

​ドォンッ!

​地下空間全体が激しく震え、鉄骨は飴細工のように捻じ曲がった。

​そして、直後。

​――0.8秒間の静寂。

​アキオの肉体は、エネルギー放出の反動により、その場に棒立ちとなり、完全に硬直した。瞳は虚ろで、まるで電源が落ちた機械のようだ。彼は、自分の異能の「バグ」によって、世界の時間から切り離されていた。

​俺は、硬直したアキオの目の前で、冷静に言い放った。

​「全身の運動エネルギーを一度で使い切る。その後の処理ルーチンに**『クールダウン』**という設定が抜けている。致命的な設定ミスだ」

​俺は、彼の異能を書き換えなかった。ただ、その異能の持つ矛盾を指摘し、それを回避しただけだ。

​セナを含む初期型感染者たちが、驚愕の表情でアキオを見ている。彼らの目には、俺が能力を使わずに、世界で最も危険なバグを自滅させたように見えただろう。

​「おい、アキオ! どうした!?」

​セナが焦り始めた瞬間、アキオの硬直が解け、彼は地面に膝をついた。エネルギーの過剰使用で、全身が痙攣している。

​「てめぇ……能力を、使ってねぇだと……?」アキオが掠れた声で呟く。

​「俺の力は、お前を破壊するためにあるんじゃない」

​俺は冷たく言い放った。だが、俺の心の奥底では、再び能力の恐ろしさに打ち震えていた。

​(書き換えなくても、俺は奴の「物語」を弄んだ。俺は、能力を使わずに、世界というプログラムの脆弱性を突いた。これは、デバッグなのか、それとも、ただの卑怯な攻撃なのか?)

​俺はまた、自分の不完全な力と、その恐ろしさから目を逸らした。裏社会という名の「バグの巣窟」で、俺はこれから、能力の暴発を恐れながら、世界の矛盾に立ち向かい続けることになる。

​ヒカリが、心配そうに俺の袖を掴んだ。その体温だけが、俺の冷え切った理性を繋ぎ止める、唯一の「設定」だった。

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