誤れる願い
けたたましいカラスの声で、目を覚ました。入口から差し込むまぶしい夕日が、時間の経過を教えてくれていた。僕は命があったことを喜ぶより先に、点灯したまま転がっているライトを拾い、乱暴にあたりを見回した。
ない。
樹の死体がなくなっている。それどころか、さっきまで穴に充満していた死臭すらも消えている。マンションから飛び降りて生き返った時と同じだ。死んだという形跡すら残らない、それがこの祠の特徴なのだ。
僕は居ても立っても居られずに、出口に向かって駆け出した。何よりもまず、樹に会いたかった。言いたいことがたくさんある。抱きしめて、もう一度声を聞きたい。話をしたい。
境内に出ると、まぶしい西日に目がくらんだ。なりふり構わず、僕は叫んだ。
「樹!」
返事はない。必死の声は、神社を囲う厚い木の葉に閉ざされ消えた。
我慢できず、僕は走った。赤い光の中、ヤブを突っ切り草をかき分け、まばらな草木の茂るふもとまで獣道をかけ下りた。――そこで不意に足を止めたのは、草の向こうに小さな黒い影を見つけたからだ。
シルエットは子供のようだ。近づくと、泥と血で汚れた白い服装が見える。プリントされた文字からして、死の直前まで樹が着ていたものに違いなかった。
「い、樹……だよな?」
僕は息を切らして問いかけた。樹はしゃがみこんでこちらに背を向けている。洞穴の中で目を覚まして、混乱しているのだろう。ふさぎ込んで、泣いているのかもしれない。
あれだけ会いたかったのに、いざ会ってみると、どう声をかければいいのかわからなかった。僕はおずおずと語りかけた。
「あのさ、あの時のこと、覚えてるか? お前が木から落ちた時のこと」
「…………」
答えはなかった。僕は構わず続ける。
「あの時は、おれが悪かったよ。まさかあんなことになるなんて思わなくてさ。その、ごめん。ごめんじゃすまないと思うけど、本当にごめん。家に帰ったら、今までのことを正直に全部話すよ。お父さんもお母さんも、お前のこと心配してる。だからさ、一緒に帰ろうぜ。なっ?」
「…………」
言うことを一気にしゃべると、僕は無理に笑いかけた。樹は背を向けたまま答えなかった。ふたりの間に、不気味な沈黙がおりる。涼しい風が草木を揺らし、青田をそよがせ、どこからか血のような臭いを運んできた。僕は泣きそうになって、ついには頼み込む調子になった。
「なあ、返事をしてくれよ、樹……」
その時、細い肩がぴくりと動いた。ボサボサの髪が揺れて、初めて僕に気づいたように振り返る。その顔が夕日に照らし出され、ふたりの目が合った時、僕は言葉ではなく大きな悲鳴を吐きだした。
樹の顔は、壊れていた。青白い肌に血の気はなく、ひび割れてあちこちに血がにじんでいる。黒目は反転し、唇は腐り落ち、長い髪はボロボロだ。まるで腐った死体が中途半端に人の形をとどめたように、まともな姿をしていない。口からは舌ではない、赤みがかった帯のようなものが垂れている。それが何なのか、僕はすぐに理解した。顔周りに乾いた血と茶色の獣毛が、びっしりと張り付いていたからだ。
僕は化け物と見つめ合ったまま、ゆっくり後ずさった。この地域にはイノシシが出る。もし出会った時は刺激せずそっと後退するように、大人から聞かされたことがある。未知の怪物に対し、僕は無意識に同じ対策をとっていた。怪物は黒目のない目でじっとこちらを見つめている。
距離が五メートルほどできた時、怪物はゆっくりと体を向けた。骨ばった腕に、何か赤いものを抱えている。僕の視線は嫌でもそこへ釘付けになった。それは腹が裂け、骨までむき出しになった、茶色い猫の死骸だった。血の臭いの正体はこれだったのだ。
「イ、ズミ」
怪物が、初めて言葉を発した。機械のノイズを思わせる、恐ろしくかすれた声だった。一歩、二歩とこちらに近づいてくる。猫の表情のない死に顔が迫ってくる。すさまじい恐怖とかつてないエネルギーが背中から頭へと駆け上り、その二つがかみ合って危険信号を発した瞬間、脳は「逃げろ」と命令を出した。
「あ、ああああっ!」
僕は悲鳴を上げて逃げだした。目の前の景色がただの色となって、後方へ流れてゆく。頭からは何もかも吹き飛んでいた。祠のことも、弟のことも。そして、この場面を目撃した第三者がいたということにも、気が付く余裕のあるはずはなかった。
どこまで来たか、自分でもわからない。息が苦しくなるほど走って、ふと我に返った瞬間に倒れ込んだのは、神社からずいぶん離れた公園だった。倒れてすりむいた手の平にも構わず、僕はすべり台の下に隠れて縮こまった。
物陰から、木の陰から、停車中の車から、白目の怪物が飛び出してくるかもしれない。そんな思い込みにとらわれて、しばらく身動きが取れなかった。薄暗い夕闇の中に、変わり果てた弟の姿が浮かんでくる。
「どうして……」
悔しかった。全て上手くいくはずだったのに。樹はよみがえったのに。状況はかえって悪くなる一方だ。祠は人の命をささげることで願いをかなえてくれる。だというのに、よみがえったのは樹ではない。動物を食い殺す、人によく似た怪物だ。僕は弟を死なせたばかりでなく、恐ろしい化け物にすら変えてしまった。
もしかしたら、あれは樹でないかもしれない。そんな疑問を差し挟む余地はなかった。あの服装、背格好、そしてつぶやいた言葉。
――――イ、ズミ。
あいつは僕をそう呼んだ。生きていた頃の樹も、僕をそう呼んでいた。
「どうしてこうなるんだよ……」
僕は拳で地面を叩いた。力いっぱい殴ってもまるで響かない。無力という二文字が頭をめぐる。一粒二粒、涙がこぼれたと思うと、せきを切ったかのように止まらなかった。自分をあわれんでのことではない。樹を思っての涙だった。
それからほどなくして、A町で野良猫が食い殺される不気味な事件が相次いで起こる。その犯人は、僕だけが知っている。
樹。
あいつがこうなったのは僕のせいだ。だから、自力でなんとかしなくてはならない。改めてそう思った。
再び神社を訪れた時、樹は僕を襲わなかった。それどころか、自分が食い殺した猫の死骸を渡そうとしてきた。食べ物を分けてくれるつもりらしい。
僕は変わり果てた弟を抱きしめて泣いた。肌は冷たくぶよぶよで、異様な感触がする。もはやかつての樹ではなかった。
僕は洞穴から出ないよう言い聞かせ、人や動物を襲ってはいけないと教えた。相手のためではなく、弟を世間の目に触れさせないためだ。人間だった頃の名残りか、樹は僕の言うことをよく聞いた。しかし完全に動きを制限することは難しく、時々深夜に外へ出ては動物を襲い、その度に町は騒ぎとなった。
脱走を防ぐため、僕は毎日のように神社へご飯を届けるようになった。スーパーで買った生肉を持っていくのだ。樹が気に入ったのは豚肉と牛肉で、特に豚の細切れが好きだった。鶏肉は嫌いらしく、以前「鶏肉は油の染みたスポンジみたいでまずい」と言っていたのを思い出す。人間だった頃と好みも同じなのだ。
こうして一応の平穏は保たれていたが、そんな生活がずっと続くとは思っていない。いずれ樹は見つかるだろうし、その時は僕の悪事もばれてしまう。樹はどうして怪物になったのか、どうすれば元に戻るのか、できるだけ早く解明し、人に返してやらなければならない。
そして、その日は意外に早くやってきた。
次の更新予定
弟が生き返った日 羽虫十兵衛 @mekades2000
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。弟が生き返った日の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます