願いの祠
「……ちゃん。泉ちゃんっ」
誰かに肩を叩かれ、目を覚ました。ぼやけた視界に、黒い影が見える。耳鳴りの中、「救急車」「意識がある」といった声がとぎれとぎれに聞こえてくる。僕はしばらく声が出ず、体も思うように動かなかった。
やがて視界がはっきりし、音も聞こえるようになると、状況がのみ込めた。僕はマンションの前に倒れて、その周りを数人が取り巻いているのだ。
体を起こすと、そばにいた年配の女性が慌てて止めた。管理人の勝浦さんだった。他に若い男性が二人いて、スマホで救急車を呼ぶか迷っているようだ。僕は何がなんだかわからず、事情をたずねた。
「みん……なさん、どうしたんですか?」
「あのね、管理室の窓から、泉ちゃんが落ちてくるのが見えたのよ」
勝浦さんは言い聞かせるようにゆっくりと言った。僕はついさっきのことを思い出し、あっと声を上げた。十階のベランダから、確か飛び降りたはずだ。
「どこから落ちたの? どこが痛い?」
「自分の部屋から……でも、大丈夫です」
勝浦さんはギョッとしたように身を引いた。幽霊でも見るような目つきだった。
「あ、あなた……」
「ごめんなさいおばさん、僕もう行かなくちゃ」
僕は急いで立ち上がった。体はどこも痛まない。
エントランスを過ぎ、上階に向かうエレベーターに乗りながら、僕は自分に言い聞かせた。今のことは夢だ。連日の悪夢で心が参ってしまい、夢遊病者のように寝ぼけてマンションを出てしまったのだ。勝浦さんは何かを見間違えたに違いない、と。部屋に戻れば、いつもと同じ景色があるに違いない。
しかし、その予想は大きく外れた。テーブルには手紙が置かれ、窓が開いてカーテンが静かにゆれている。ベランダには室内用のスリッパが脱ぎ捨てられたままだ。つまり僕は、地上約三十メートルの高さから落下して、またここに戻ってきたということになる。
「………………」
再びベランダに出て、階下を見下ろす。人が蟻のように小さく見える地上には、血の跡もない。たとえ真下に街路樹や植え込みがあり、クッションとなって助かったとしても、ケガひとつしないなんてありえない。まして、僕は自分の体が叩きつけられる音を聞いたのだ。
得体のしれない感覚に包まれ、わずかに体が震えてくる。僕は今、とんでもない現象に巻き込まれているのかもしれない。
静かな朝の空気の中、気をそらすように街へ目をやった。雑居ビル。遠くにかすむ名前も知らない山々。通りを走る車。移動する人々。信号機の緑の光。
――――緑の光?
ふと、思い出すことがあった。同じ緑色の光を、どこかで見たことがある。あれはそう、樹を隠した洞穴の中だ。あの時、電気が通っているとも思えない古びた祠が、突然光り出した。あまりのことに忘れかけていたが、僕の前で不思議な現象が起るのは、これが初めてではない。
光る祠と、死ななかった僕。ふたつとも自然現象では説明できないことだ。もしかすると、洞穴での出来事と今回の件は、関係しているのだろうか。
あの時のことは、気は進まないが思い出せる。突然訪れた暗闇に、僕はパニックになった。洞穴を転げまわり、恐怖から何かを叫んだ。祠が光ったのはその瞬間だ。あの時、必死に何か訴えかけた気がする。何だったろう。僕は目をつむり、記憶を巻き戻す。樹が死後の世界に呼んでいると錯覚した僕は、こう叫んだ。
「……死にたくない」
その瞬間、祠は光った。今日、死んだはずの僕は生き返った。にわかには信じられないが、状況を見るにそうとしか言いようがない。神社、神様、願い。あらゆる言葉が連想ゲームのように浮かんでくる。それが現状を説明するキーワードのような気がする。
神社とは、人が願をかける場所だ。神様が願いを聞き届け、助けてくれるという。もし、あの時の「死にたくない」という言葉が、ひとつの願いとみなされたとしたら。あの祠に神様という存在がいたとして、身投げしても死なない不死身の肉体をくれたのだとしたら。
そう考えれば、つじつまは合う。祠が光ったのは、願いが成就した合図だったのではないか。
……そんなもの、普段なら決して信じない妄想だ。古臭い怪談話のように、下らないと一笑に付して終わる迷信だった。だが疲れきった精神状態で正常な判断力を失っていた僕は、それを疑うどころか無理にでも信じ込もうとした。「願いの叶う神社」という都合の良い存在は、僕には何より必要なものだったからだ。
もしどんな願いでも叶うのならば、樹は生き返る。もう一度やり直せる。そんな儚い望みを、いつしかあのさびれた神社に託していた。
僕は急いで家を出た。クローゼットの奥にしまい込んでいた懐中電灯を持ち出して、服装と靴をいつもと変えて、用心深く忍んでいった。
あんなことがあったのに、神社はいつもと変わらずひっそりしていた。入った瞬間、待ち構えていた警察が「犯人は現場に戻ってくるものだよ」と言って僕の肩を叩く。そんな刑事ドラマのような場面が頭をよぎったが、取り越し苦労だったようだ。
いざ洞穴に入ろうと思うと、やはり勇気が要った。あの中には樹の亡骸がある。五月の生ぬるい空気にさらされた死体はどうなっているだろう。
僕は覚悟を決めてそこへ向かい、入り口の手前で足を止めた。止めざるを得なかった。
穴の方からひどい臭いがする。死んだ生き物の臭いだ。昔、教室で飼っていたザリガニが暑さで全滅していたことがある。その時たちこめていたすさまじい腐敗臭を、より近寄りがたいものにしたような、言葉にできない悪臭だった。
僕は逃げ出すようにその場から離れ、タオルを鼻に巻いた。ここでひるむわけにはいかない。息を止めて、再び洞穴にもぐり込む。ライトで足元を照らし、何も考えないように進んでゆく。途中、うわんと音がして光輪に黒い点が散った。樹の死体にたかったハエの群れだ。構わず進んだその先に、目的の祠はあった。
ほこりをかぶり、苔をはわせたどこにでもある古い木の祠。格子戸ははめ殺しで、明かりを近づけても、戸の奥は夜道の先を照らすように黒々としている。とにかく機械仕掛けではなさそうだった。僕は祠に手を合わせ、止めていた息を吐き出しながら祈った。
「神様。あそこに眠っている、舟形樹を生き返らせてください」
祠は光らなかった。必死に同じ願いを繰り返したが、あの薄緑の光は見えてこない。そう都合よく行くわけがないとは思っていたが、いざ現実を目の当たりにすると、やはりがっかりする。
一体、何がいけないのだろう。祈る力が足りないのか、別に必要な条件を満たしていないのか。それとも願いは一人一回までで、いくら願ってもこれ以上叶うことはないのか。しばらく悪あがきをした挙句、臭いに耐えられなくなって洞穴を出た。
吐きそうになるのをおさえながら、大ケヤキの下までヨタヨタと歩いて僕は座り込んだ。一息付けて上を見る。思えば、この木に登ったのがすべての間違いだった。こんなものがなければ樹が死ぬこともなかったのに。そんなお門違いな恨みをつのらせながら、もどかしい思いでケヤキを見上げた。
樹が落ちた枝は覚えている。地上約四メートルに突き出た太い一本だ。その下の地面には、おぞましい血だまりが広がっていた。
――――血だまり?
ふと気がついて、地面を見る。樹が落ちた地面と頭をぶつけた石碑には、血の跡がべったりと残っていたはずだ。しかし今見るとその痕跡はどこにもない。この一週間、神社には近寄らなかったし、あれから雨が降った日はない。もちろん誰かが隠した跡もない。
「…………」
まただ。またおかしな現象だ。光る祠に、死ななかった僕、そして消えた血の跡。
だけど、新たな謎が増えたのは、むしろ歓迎すべきことかもしれない。それこそがこの大成神社に眠る、不思議な力の手がかりとなりえるからだ。
そう思った瞬間、僕の頭は素早く思いをはせていた。未来でも現在でもなく、ずっと遠い過去の方に。
神社と血、そして人の死。そこから連想されたのは「生贄」という古臭い単語だった。幼い頃、おばあちゃんから聞かされた話を思い出す。大昔、この地域では川があふれると神様が怒ったとされ、若い女性や子供が生贄にささげられたという。いわゆる「
同じように、大成神社の神様もまた生贄を必要としていたら、どうだろうか。
願いを叶えるには供物が必要だった。僕はいたずらで弟を死なせてしまった。それが生贄をささげる行為とみなされ、意図せずに「死にたくない」という願いが叶ってしまったとしたら。境内に血が残らなかったのは、神への供物として与えられたからではないか。
そこまで考えて、僕はふと立ち上がった。本殿まで歩いて拝殿の階段を上り、天井を見上げる。黒ずんだ柱に、古い板絵が飾られている。描かれているのは大きな金の鳥や、着物を着た人物だ。
――――ああいうのは、その神社の歴史を描いたものなんだって。
知識を自慢するように話していた、昔の友達を思い出す。複数あるうちの変わった一枚に、僕は注目した。
黄ばんだ面を背景に、やせ細った人々がひざまずいている。その先には祠があり、人と祠の間には、死体が横たわっていた。なぜ死体とわかるのかというと、赤い絵の具で流血が描かれているからだ。歴史の教科書に載っていた「
いつの時代か、災害によって飢饉が起きた。人々はこの神社に集い、生贄を差し出すことで神に解決を祈ったのだ。そしてその願いは、叶ったに違いない。板の片隅には黒々とした読みやすい
そうなると、今回の願い事が叶わなかった理由がわかる。僕は願いが成就するための供物、すなわち命をささげていないのだ。命とは必ず人間でないといけないのか、動物や他の生き物でも可能なのか、それはわからない。ただ、人間の命ならここにある。
僕は再び洞穴へと入っていった。逃げ出しそうになるが、逆風の中を踏ん張るように耐えた。
差し出す命とは、言うまでもなくこの僕だ。今の僕は死なない。あの時の「願い」が叶って、死んでもまたよみがえる不死身の肉体を手に入れたからだ。よって、この命を神にささげ樹をよみがえらせれば、事故が起こる前の状態に戻れるかもしれない。
だけど、やはり不安はある。神にもらった命を再び神に差し出す。その場合、僕はまた生き返るのか。それとも不死の命まで奪われて、本当に死んでしまうのか。僕が死ねば本末転倒だ。しかし、それは試してみないことにはわからない。
考えているうちに、祠にたどり着いた。僕はあれこれ悩むのをやめ、願いをはっきり口にした。
「神様、僕の命をささげます。弟を、舟形樹を生き返らせてください」
その時、はじめて祠が光った。あの日と同じ、ぼんやりした薄緑の光だ。僕の予想は的中した。この祠は人の命をささげることで、願いが叶う。あとは一か
その時、薄れゆく意識が、一瞬だけ現実に引き戻された。視界が突然、赤く染まったのだ。淡い緑の光が消え、繁華街のネオンを思わせる、けばけばしい赤が光った。その意味を考える間もなく、僕は眠るように意識を失った。
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