死体隠し

 暗闇の中、僕は樹の体を横たえた。首にかけたスマホのライトが、唯一の光源だ。かいた汗で体が冷え、疲れで体がふわふわしている。でもやることはやった。


 樹を隠したのは、本殿裏手にある洞穴だった。

 穴の存在は昔から知っていたが、あまり気にしたことはない。その中に僕は樹の死体を押し込んだ。中は意外に広く数メートルの奥行きがあり、最奥に苔のついた祠が立っていた。冷えた空気も相まってひどく不気味な雰囲気だが、そんなことを気にしてはいられない。


 乱れた息を整えて、冷静になる。僕はやってはいけないことを二つもやった。人を殺すことと、その死体を隠すことだ。今日から僕は悪人だ。今まで通りにご飯を食べ、学校に行き、家族と過ごしても、僕だけが人殺し。僕だけが犯罪者。その事実が胸につかえ、もう純粋な気持ちで過ごすことはできないのだろう。そう思うと、しゃくり上げるような涙が止まらない。


 遺体の前に膝をつくと、静かに手を合わせた。殺してしまった弟への、せめてもの償いだった。こんなことをしたって何にもならない。申し訳ないと思うのなら名乗り出るべきなのに、つまらない気休めに逃げている。わかっているのに、やらずにはいられなかった。

 目を開けると、僕は心の中で樹にそっとお別れを告げた。悲しんでばかりもいられない。外はもう夜。早く帰らないと怪しまれる。スマホのライトを頼りに歩き出そうとした時、ふっと目の前が暗くなった。昼間に充電していなかったバッテリーが、ついに切れたのだ。わずかに見えていた景色は闇に呑まれ、視界が完全に暗転した。

 あっと思った時には、すでにバランスを崩していた。体中に感じる砂の感触で、自分が転んだことを理解した。闇の中を必死にもがいたが、腰が抜けてうまく立てない。

 樹の仕業だ。この時、僕はそう思った。兄を恨んだ弟が逃がすまいとしているのだと、疲労と恐怖に打ちのめされた心は思い込んだ。


「樹! 許してくれ、樹っ!」


 暗闇にすさまじい悲鳴が反響する。完全にパニック状態だった。樹の手が僕を押さえている。あいつが、そこまで来ている。幻覚が見える。殺される。僕もあの世へ送られる。死にたくない。僕はやみくもに叫んだ。


「いやだああっ! 死にたくないいいっ!」


 その時。


 闇の奥が、ほのかに光った。切れかかった電球が最後にまたたくような、弱々しい緑色の輝き。僕はにわかに自分を取り戻し、腰の抜けたまま光の方に目をやった。


 祠だ。祠が光っている。格子戸から、四角く切り取られた光があふれている。


 僕は恐怖で幻覚を見たのかと思った。やがて光は音もなく消え、視界にはわずかに明滅する緑の残像だけが残った。暗闇で光を見た後に起こるその現象が、たった今目にしたものを現実であると示していた。

 僕はしばらく呆然としていたが、疑問にとらわれている場合でないと気づいて、四つんばいのままそろそろと抜け出した。


 白い月明かりが、境内をわずかに照らしてくれている。光を頼りに境内を抜け、真っ暗な獣道を手先足先の感覚だけで下り、やっと遊歩道の街灯が見えた時には、安心でアスファルトに座り込んだほどだった。

 あまりにも色々なことが起こりすぎて、頭が追い付かない。何はともあれ、家に帰らなければならない。ただし誰にも見つからないように。立ち上がると、夢の中で走るように足元がおぼつかなかった。


 人目を避け、薄暗い裏通りをぬうようにして家に戻ったのは二十時過ぎだった。来客もすでに帰っており、玄関に知らない靴はない。僕は家族に気づかれないようそっと自室に忍び込み、服を着かえた。そのまま洗面所で手と顔の汚れを落とし、何食わぬ顔でリビングに入る。お母さんは台所で夕飯の準備をしているところだった。


「おかえり。いつ戻ったの?」


「さっきだよ」


「そう。樹は?」


「……友達の家に行くって、言ってたけど」


「遅いねえ」


 お母さんは心配そうな顔をした。門限は二十一時だが、この時間まで帰ってこないのはめずらしい。僕は緊張と不安で押しつぶされそうで、出された食事もほとんど食べられなかった。なんとか口に運んでも、味のしない異物を呑み込んでいるようで気持ち悪い。


「泉、具合悪いの?」


 不意にお母さんが僕の顔をのぞき込んだ。まっすぐに目が見られず、僕は顔を隠すように立ち上がった。


「うん。お腹痛いから、後で食べるよ」


 頭の中で、虫の羽音のような音がずっと響いている。部屋に戻ると、お母さんが片付けたのだろう、樹と遊んでいたゲーム機が机に置いてあった。脳内に生きていた弟の顔がよみがえる。僕は急いでトイレに駆け込むと、吞み込んだ夕飯を全て吐いた。吐ききれない何かを吐き出そうとするかのように、嘔吐は止まらなかった。

 その晩、僕はひどい頭痛と動悸にさいなまれ、部屋の中でまんじりともしなかった。部屋の空気が重くのしかかるようで、息苦しい。ドアの向こうで両親が慌ただしく動き回る気配がする。

 樹はとうとう帰ってこず、両親はその日のうちに捜索願を提出した。直ちに行方の捜索が行われ、当然僕も協力することとなった。


 警察の捜査は、事件と事故両方の線から行われた。僕は親と警察から当日の動きを何度も質され、一貫して嘘をついた。口ごもるどころか、もっともらしいごまかしがスラスラと出てくる。一度話し出すと自分でも不思議なほどに口が回り、樹とは途中で別れたことにして神社のことは一切伏せた。

 樹の足取りについて、近隣の防犯カメラが調べられ、聞き込み調査も行われたようだが、有力な情報は得られなかった。思った以上に捜索は難航し、僕は疑われるどころか「かわいそうな子供」として大人達の同情を集めていた。


 樹が消えて以来、家の中は変わった。両親はせわしなく出歩くようになり、仕事もそっちのけで樹の行方を案じた。町内会と協力して町の見回りを行い、誘拐事件の可能性も考えて電話に逆探知装置を取り付けた。

 普段無口なお父さんはめずらしく取り乱し、何度も同じ質問を僕にぶつけ、わからないと知ると「ちくしょう」とひとり頭を抱えた。お母さんは僕の前では無理な明るさを取りつくろい、陰で泣いた。

 そんなふたりの姿を見て、何とも思わないわけはない。罪の意識でおかしくなりそうだった。最近、国語の授業で「良心の呵責かしゃく」という言葉を知った。その言葉がぴったり当てはまる状況に、僕はいま置かれている。いつになくうろたえる両親の顔を見て、ようやく自分のした事の重大さに気づいたのだ。


 心の中で、自分を責める声がする。その声が樹や両親のものとなり、夢にうなされる夜もあった。罪悪感が増していくにつれ、僕は何度も本当のことを打ち明けようとした。全て吐き出して楽になりたくて、言葉が喉元まで出かかったこともある。だけど、いざ両親を前にすると何も言えなくなってしまう。事実を知った時の顔を想像して、尻込みするのだ。

 そう、僕はこの期に及んで両親に見放されることが怖かった。憎しみに歪んだ顔を、怒りに満ちた目を想像するだけで、寒気がする。一方で、心のどこかでそんな自分を軽蔑していた。自分から言い出す勇気はないのに、誰かにこの罪を裁いてほしかった。


 そうこうしているうちに、樹の「失踪」から一週間が経った。その間、僕は何もしなかった。現場がどうなっているか気にはなるし、いっそ遺体を埋めてしまおうかとも思ったが、あの場所にまた戻ることが恐ろしくてやめた。

 悪夢で眠れない夜を過ごし、かえって早くに起きだした休日のこと。顔を洗って誰もいないリビングに入ると、テーブルに見慣れない紙が置いてあった。一枚の書置きだ。そこにはお母さんの字でこう書いてある。


『泉へ ずっと樹のことにかかりきりで、構ってあげられなくてごめんね。警察も近所の人たちも探してくれているから、すぐに見つかるよ。また一緒になったら、みんなでご飯を食べに行こうね! 泉は何も悪くないから、自分を責めないこと! お母さん』


 びっくりした。お母さんは、僕が樹のことで眠れないほど悩んでいることを知っていたのだ。もちろん僕のせいで死んでしまったとは知らないから、気に病む筋合いのないことを気にしていると考えたのだろう。


 その時、僕は踏ん切りがついた。ずっと迷っていた気持ちが、決意に変わったのを感じた。

 手紙をテーブルに戻し、ベランダへと歩き出す。窓を開けると、涼しい空気がふわりと舞い込んできた。五月晴れのきれいな朝だった。スリッパを脱ぎ捨てて、冷たい手すりに手をかける。


 僕は誰かに断罪してほしかった。卑怯でみにくい自分という存在を、罰してほしかった。でも気がついた。自ら告白する勇気がないのなら、自分で自分を裁けばいい。

 裸足のまま手すりによじのぼる。十階から見下ろすと、あらゆるものが小さく見える。街路樹、点滅する信号、路肩に停まった車。その中に飛び込むことを考えても、怖くはない。むしろ清々した気持ちだった。


 ――――樹、ごめんな。おれも今そっちに行くから。


 遠い空を見上げ、目をつむった。澄んだ空気が胸に痛い。どれほどそうしていたろうか、僕はゆっくりと前に倒れ、ベランダを離れた。


 一瞬の浮遊感。そして、重い物を叩きつけるような鈍い音があたりに響いた。アスファルトで僕の体が砕け散る、おぞましい死の音に違いなかった。


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