弟が死んだ日

 五月十日(土) 晴れ時々曇り


 一か月前、弟の樹がいなくなる直前のこと。その日、僕と樹は用もないのに近所をぶらぶら歩いていた。ゲームをして騒いでいたら、来客があるといって、お母さんに家を追い出されたのだ。

 家を出ても、これといって行く当てはなかった。おこづかいは使ってしまったし、立ち読みができる古本屋はこの前つぶれた。結局、コンビニのイートインコーナーでスマホゲームをしながら時間をつぶすことにした。携帯のバッテリーが少なくなった頃、僕たちは店を出た。


 無駄話をしながら歩くうち、足は何となく町外れに向いた。住宅街を離れると、そこは川や田んぼばかりだ。街灯も少なく、舗装された道路を通る人もいない。どうしてそんな場所に来ようと思ったのか、今となってはわからない。昔飼っていた犬の散歩コースだったから、足が向いたのかもしれない。

 だだっ広い平地を小高い山が取り囲み、一年を通してどんよりした緑におおわれている。時々白いかたまりが空に浮いたと思えば、シラサギだった。陰気な森を突っ切るように国道が走り、その手前の少し開けた山のふもとに、薄暗い獣道が通っていた。そこを進んだ先にあるのが大成神社だ。


「あっ、懐かしい場所」


 最初に気がついたのは樹だった。数年前まであの神社は遊び場で、少数の友達とゲームを持ち込んだり、探検ごっこをする場所だった。その中に樹も混ざって遊んでいたから、思い出深い場所なのだろう。今はもう集まることもなくなったから、僕もふと懐かしさを覚えた。


「久しぶりだね、ここ。入る?」


「うん」


 僕たちは慣れた足取りで山道を登った。昼間も暗い木々の間を歩くと、小学生の頃に戻ったような気がする。

 鳥居をくぐり、本殿の階段に腰かける。ほこりっぽい賽銭箱、さびた鈴、天井にかけられた古い板絵、全てがあの頃のままだった。といっても、当時を懐かしむ他にやることはない。退屈して、突然を切り出したのは僕の方だった。


「なあ、久しぶりに木登りしようぜ」


「ケヤキ?」


「そう」


「いいよ。でも泉が先ね」


 運動は得意でないが、木登りは好きだ。本殿を見下ろす大ケヤキに登り、地上の田んぼや街並みを見渡すことが楽しかった。樹も高い所が好きなようで、危ないからよせと止められても、昔から耳を貸さずに登りたがった。

 僕は自分の胴体よりずっと太い幹にしがみつき、そのまま猿のようにするすると登った。樹もそれにならって続く。僕はすぐに地上四メートルほどの枝にたどり着いた。下を見ると、久しぶりで苦戦している小さな頭が見える。その姿を見て、僕はちょっとしたいたずらを思いついた。ひとり、ひっそりとほくそえんだ。


「おい、こっち来いよ」


 樹がようやく隣の枝まで登った時、僕は何気なく手を伸ばした。大股で踏み出せば、飛び移れる距離だ。樹は白い袖で汗をぬぐい、何も言わずに赤い手のひらを伸ばした。

 ふたりの手と手が触れ合う瞬間、僕はすっと手を引っ込める。樹の右手は空を切った。不意に顔を上げた弟と、目が合った。ビー玉のように丸い目が、驚きを訴えかけている。

 この後樹は木にしがみつき、「何するんだよ」と少し怒るはずだった。すかさず僕は謝る。ちょっとお前をからかっただけなんだ。ごめん、もうしないよと。最後は笑って許してくれるはずだった。


 しかし、そうはならなかった。樹の体は揺れている。もがくように腕を振り回し、上体を前後にそらしている。それがどういうことか、すぐには理解できなかった。したくなかった。ただ考えるより先に手を伸ばしていた。


「つかまれっ!」


 それに気づいた樹は、とっさに僕の手をつかもうとした。それがかえって良くなかった。前方に大きくバランスを崩したのだ。

 ずるり、と靴の滑る不吉な音がする。髪の毛が逆立ち、シャツの裾すそがふわりとふくらむ。たった数秒の光景が、僕の網膜に焼き付いて――樹は視界から消えた。


 ややあって、下の方から「ドン」という重い音が響いた。明らかに人が出してはいけない音だった。僕は声も出ず、急いで真下の地面をのぞき込み、そして息をのんだ。

 樹はうつぶせに倒れ、ピクリともしない。無事でないことは一目でわかった。頭から信じられない量の血があふれ出し、あたりにおぞましい血しぶきを飛び散らせていたからだ。


 僕はとっさにケヤキにしがみついた。空気が張りつめて、自分の鼓動が聞こえてくる。いたずら、落下、血、死亡。あらゆる言葉がせわしなく駆けめぐる。しかし、それらを文章にして理解することができない。

 震える喉で深呼吸を繰り返し、やっと喋れるようになった頃、僕は精いっぱいの明るさを取り繕つくろって言った。


「い、樹。おれが悪かったよ。ちゃんと起きれるんだろ? 死んだふりなんかやめてくれって」


 あの赤いものはインクに違いない、落ちた時の衝撃で瓶が割れたのだ。中々起き上がらないのはイタズラへの仕返しだろう。必死にそう言い聞かせ、自分を励ました。しかし、そんな無意味な思考を冷ややかに見つめる、もう一人の自分を意識しないわけにはいかなかった。

 いくら待っても答えはなく、境内は相変わらず静まり返っている。通りを走るバイクの音がよそよそしく響き渡り、鳥の声が遠くに聞こえる。……そして、僕はついに認めざるを得なかった。自分のせいで実の弟を殺してしまった、その残酷な真実を。


 辺りが暮色につつまれた頃、恐怖で固まっていた僕はようやく動き出した。大して涼しくもないのに、手足は冷え切っている。恐れも不安も出し尽くしたのか、もはや諦めに近い心境だ。地面に立つと、脚がふるえて立つのがやっとだった。

 亡骸の横に、風化して字も読めない小さな石碑がある。落下した樹はここに頭をぶつけたのだ。こんなものがなければ、もしかしたら死ななかったかもしれない。そう思うとやりきれなかった。体はうつぶせで、顔は良く見えない。それでよかったと思う。せめて、つぶれた頭を見なくて済むからだ。


 動かなくなった手に触れる。冷えたゴムのように無機質な感触だった。改めて人の死という現実を意識して、僕は少し離れたところにへたり込んだ。

 死人を見たのはおじいちゃんの葬式以来だ。だけど今回は死者を見送るのではない、責任を取るのだ。そう思うと、麻痺していた感情が再びよみがえった。深い悲しみでも、もどかしい後悔でもない。自分はこの先どうなるのかという、重苦しい黒雲のような不安だった。


 このことが明るみに出れば、僕はもう生きてはゆけない。弟殺しの汚名を着せられ、家にも学校にも居場所を失う。最悪、少年院に送られるだろう。そうなれば高校にも行けず、大人になってからはろくな就職先も選べない。すなわち人生の終わりだ。

 自分自身に問いかける。はたして僕は弟の死を背負って生きる覚悟はあるのか。大人たちに全てを打ち明け、容赦なく下される処分と、その後の悲惨な道のりを受け入れる勇気はあるか。


 ない。全然ない。


 僕はまだ十四歳だ。学校も、友達も、捨てたくないものがたくさんある。毎日が楽しくて仕方がないというわけじゃないけど、そんな平凡な日々が何より大切だと、こうなって初めて分かった。樹には悪いけど、死人と共に沈むなんて絶対に嫌だ。何とかしなくてはならない。

 そう思った時、ふとひらめいた。別の誰かが耳元でささやくかのように、不安を切り開く悪知恵が、頭の中に聞こえてきた。


 ――――こんなもの、事故として報告すればいいんだよ。おれは木を登って、樹はそれについてきた。来ちゃだめだよと注意したが、言うことを聞かずに登ってくる。高い枝の上まで来た時、あいつは足を滑らせ転落した。そういうことにすれば、なんとかなる。必ず上手くいく。


 そうだ、そうかもしれない。その通りにすれば周りの目をあざむける。一瞬その声に騙されかけた僕は、すぐにその甘さに気づいた。

 そう都合よく、事が運ぶわけがない。大人たちの追及は、そこまでいい加減なものではないはずだ。家族や警察は、ここで何があったのか僕を問いつめるだろう。なぜこの神社に来たのか。なぜ木に登ろうと思ったのか。なぜ樹は落下して、しかも何時間も放置して助けを呼ばなかったのか。

 そうした状況や心理状態を詳しく調べ、一から十まではっきりさせるに違いない。その厳しい尋問に、ただの中学生が何の矛盾もなく答えられるわけがない。いや、罪の意識に耐えられず、自分から全てを話してしまうに違いないのだ。考えは、また振り出しに戻った。

 何度も同じ考えを繰り返し、やがて何もかもを投げだしかけた時、悪知恵よりもさらに邪悪な考えが、僕の心にふと芽生えた。魔が差すとはこのことだろう。絶望的な現状をひっくり返す切り札が、ひとつだけある。そのことに気がついたのだ。


 死体を隠せばいい。


 参拝者なんて誰もいない、地方の町はずれにある小さな神社だ。隠したって見つかりっこない。それに、隠すにはいい場所を僕は知っているじゃないか。

 だけど、とそれにストップをかける自分がいる。それは死んだ樹や両親に対するひどい裏切りだ。弟を殺し、家族をだまし、それでも自分だけのうのうと生きてゆく。そんなことが許されるわけがない。誰にも知られなかったとしても、僕は一生家族の顔をまっすぐ見られないまま生きてゆくのだ。

 樹の笑顔が、家族の顔が脳裏に浮かぶ。このまま正直に話せば、まだ取り返しはつくかもしれない。だけど、死体を隠せばもう後には引けない。どうすればいいだろう。


 その時。むこうから、甲高いサイレンの音が響いてきた。僕はギョッとして、音のする方に目をやった。もしかしたら、今までのことが誰かに見られて、通報されたのかもしれない。だとすれば一貫の終わりだ。

 しかし、サイレンはそのまま遠ざかってゆく。夕空に吸い込まれるかのように遠く小さくなって、やがて聞こえなくなった。

 僕はほっとすると同時に、心がすでに決まったことを感じていた。心中に描いた家族の顔も、後ろめたさも、全てかき消えていた。警察に捕まりたくなんかない。僕は自分の人生を生きてやる。元からそういうやつなんだ。弟よりも自分の方が大切で、かわいい。そういう人間なんだ。


 冷たくなった弟の脚を、うんと引っ張る。力の抜けた人間の体は、子供のものでもすごく重い。はじめのうちは、手が震えて力が入らなかった。だが自分を落ち着けて目いっぱいに力を入れると、少しずつだが移動を始めた。

 怖い。怖くて涙が止まらない。だけどそれ以上の不安が僕を突き動かしていた。逮捕が嫌ならここで踏ん張るしかないぞ、と心の声が怒鳴り続けているのだ。


 その時、境内は夕日の名残でほとんどシルエットしか見えなかった。いくらかはっきり見えたとしても、周りを見渡す余裕なんてない。だから、地面や石碑にかかった血の跡が消えていることに、この時の僕はまるで気づかないままだった。

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