第4話:『整形モンスターの「脱ぎ捨てた皮」』
行くあてなど、どこにもなかった。
所持品は、ポケットに入っていたスマホと、小銭入れだけ。
カードも通帳も、全てあの家に置いてきてしまった。
深夜の公園。
私はベンチに座り、冷え切った缶コーヒーを握りしめていた。
寒さで震えが止まらない。でも、不思議と涙は出なかった。
実家の前で流し尽くした涙は、私の心の中で氷のように冷たく固まっていた。
(……死ぬ? このまま)
あの女に人生を譲って?
夫に「ゴミ」として捨てられたまま?
「……ふざけるな」
声が出た。
あいつらが温かい部屋で、私の家族と寿司を食べている間に、私が野垂れ死ぬなんて絶対に嫌だ。
私はスマホを取り出した。
画面には、美姫から送られてきた嘲笑のメッセージと写真が残っている。
私はその画像を拡大し、隅々まで睨みつけた。
美姫の自撮り写真。
その背景に写り込んでいるもの。
安っぽいカーテン。変色した壁紙。
これは、まだ彼女が整形する前、あるいは整形のダウンタイム中に住んでいた部屋だ。
私は記憶の糸を手繰り寄せた。
高校時代、美姫は言っていた。
『私、卒業したら西成のボロアパートに住んででも金貯めるから』
『整形して、あんたみたいにチヤホヤされてやるんだから』
西成区。古い木造アパート。
私は地図アプリを開き、深夜バスの時刻表を調べた。
小銭入れの中身を数える。
ギリギリ、片道分はある。
「待ってなさい……美姫」
あんたが私の顔を盗んだように、私もあんたの「過去」を暴いてやる。
日付が変わる頃、私はそのアパートの前に立っていた。
『コーポ・ミキ』という、皮肉にも彼女の名前と同じ古いアパート。
建物は傾き、今にも崩れそうだ。
二階の角部屋。
郵便受けには、ガムテープで乱雑に目張りがされ、チラシが溢れている。
名前はない。
でも、ここだという確信があった。美姫が送ってきた写真の壁紙の柄が、窓の隙間から見えたからだ。
鍵はかかっていた。当然だ。
私は郵便受けに手を突っ込み、溢れている郵便物を引っこ抜いた。
督促状、督促状、督促状。
消費者金融、カードローン、そして……見たこともない闇金のような金融業者の名前。
「……やっぱり」
数百万の整形費用。
アルバイトや普通の仕事で、短期間に貯められる額じゃない。
彼女は「未来の人生」を担保に、危険な橋を渡っていたのだ。
私はドアノブをガチャガチャと回した。
開かない。
その時、隣のドアがガラリと開いた。
「ああん? 誰や、夜中にうるさいなぁ!」
酒臭い息を吐きながら出てきたのは、ジャージ姿の中年男だった。
彼は私を見て、目を丸くした。
「……え? 大谷(おおたに)さん?」
大谷。それが美姫の旧姓だ。
「あんた、戻ってきたんか! いやー、見違えたなぁ! めっちゃ美人になっとるやんけ!」
男は下卑た笑みを浮かべ、私に近づいてきた。
そうだ。
今の私は、整形後の美姫と同じ顔をしている。
この男にとって、私は「夜逃げした隣人の美姫」に見えているのだ。
「……ええ、久しぶり」
私は美姫になりきって、艶然と微笑んだ。
吐き気がするのを堪えて。
「鍵、失くしちゃって。……大家さんには内緒で入りたいんだけど、ベランダ伝いに行けるかしら?」
「ガハハ! 俺の部屋から行けばええがな! その代わり……わかってるやろ?」
男が私の腰に手を回す。
殺意が湧いた。
でも、今はこれを利用するしかない。
「……お礼は、あとでね」
私は男の部屋を通り抜け、ベランダの仕切りを乗り越えた。
ガラス窓の鍵は開いていた。美姫の杜撰な性格が、今はありがたい。
部屋の中は、異臭がした。
カビと、ゴミと、消毒液の匂い。
足の踏み場もないほどのゴミ屋敷。
私はスマホのライトを頼りに、部屋の奥へと進んだ。
そこで、私は見てしまった。
壁一面に貼られた、無数の写真。
「……ひっ」
全部、私だった。
高校時代の私。結婚式の私。夫と歩く私。スーパーで買い物をする私。
盗撮写真だ。
何百枚という私の写真が、壁を埋め尽くしている。
そして、その写真の私の顔には、赤いマジックで無数に『欲しい』『殺す』『なる』と書き殴られていた。
「狂ってる……」
ここは、美姫の執着(呪い)の祭壇だ。
彼女はずっと、この薄暗い部屋で、私になることだけを夢見て、自分の顔を切り刻んでいたのだ。
私は吐き気を抑えながら、散乱する書類を漁った。
見つけた。
机の上に、無造作に置かれた一冊のノート。
そして、クリアファイルに入った「契約書」。
『身体改造ローン契約書』
『連帯保証人:なし(臓器担保特約付き)』
震える手で中身を確認する。
借入額、総額800万円。
返済期限は、来月。
もし返済できなければ、彼女は「商品」として海外の売春宿か、臓器売買のルートに乗せられることになっている。
「……あはっ」
乾いた笑いが出た。
彼女は、夫の金でこれを返済するつもりだったのだ。
夫をたぶらかし、私を追い出し、私の座に座ることで、この地獄の借金をチャラにしようとしていたのだ。
さらに、ノートを開く。
そこには、整形の執刀医からの注意事項がメモされていた。
『※プロテーゼのメンテナンス:半年に一度必須』
『※未承認の薬剤を使用しているため、強い衝撃を与えると崩壊の危険あり』
見つけた。
怪物の弱点。
彼女の顔は、まだ完成形じゃない。
メンテナンスを続けなければ、そして衝撃を与えれば、あの美しい顔は崩れ落ちる砂の城なのだ。
私は契約書とノートをバッグに詰め込んだ。
「待っててね、美姫」
私は壁に貼られた自分の写真――笑顔の私――を一枚剥がし、ライターで火をつけた。
炎が、私の顔を黒く焦がしていく。
「あんたの『皮』を剥ぐ準備はできたわ」
私は燃えカスを踏みつけ、部屋を出た。
もう、震えは止まっていた。
今の私は、被害者じゃない。
あいつの人生の「債権者」だ。
外に出ると、東の空が白み始めていた。
私の顔をした悪魔を狩る、朝が来る。
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