第3話:『産みの親は、私を間違えない(はず)』
タクシーを飛ばして実家に着いた頃には、日はすっかり暮れていた。
私の実家は、電車で一時間ほどの郊外にある。
呼吸を整える間もなく、私は実家のチャイムを乱打した。
お願い。
お願いだから、まだ来ていないで。
「はーい、どちら様……」
インターホン越しに、母の声がした。
私はモニターに顔を近づけて叫んだ。
「お母さん! 私よ、杏奈! 開けて!」
「あら、杏奈? 今開けるわね」
ガチャリ、と鍵が開く音が、天の助けのように聞こえた。
私は玄関に飛び込んだ。
廊下の向こうから、母がエプロン姿で歩いてくる。
その顔を見て、私は泣き崩れそうになった。
「お母さん……っ!」
「どうしたのよ、そんなに慌てて。……あら?」
母は私の顔を見て、そして私の服装を見て、眉をひそめた。
「あんた、どうしたのその格好。ボロボロじゃない。それに、ずいぶん顔色が悪くて……」
「違うの、聞いて! 今、変な女が来てない!? 私の顔をした……」
「変な女?」
母はきょとんとした。
「何言ってるの。来てるのは貴弘さんと、あんたじゃない」
全身の血が凍った。
「……え?」
「だから、あんたたち夫婦よ。さっき来て、今お父さんとお酒飲んでるじゃない」
母の言葉が理解できなかった。
私がここにいるのに。
奥のリビングに、私がいる?
「嘘……そんなの嘘よ!」
私は靴も脱がずに、リビングへと駆け込んだ。
「お父さん!」
勢いよくドアを開ける。
そこには、見慣れた団欒の光景があった。
テレビのバラエティ番組の音。ビールの空き缶。
上機嫌で顔を赤くした父。
愛想笑いを浮かべる夫、貴弘。
そして。
「あ、杏奈(ニセモノ)。トイレ早かったな」
父の隣で、高級そうな寿司桶からウニをつまんでいる女がいた。
私と同じ顔をした女。
美姫だ。
彼女は私が入ってきたのを見て、一瞬だけ目を丸くし、すぐにニタリと口角を上げた。
そして、演技たっぷりに悲鳴を上げた。
「きゃああっ!!」
美姫が父の背中に隠れる。
「な、なによこの人! 私と同じ顔してる……! 気持ち悪い!」
「なっ……!?」
私は言葉を失った。
先に言われた。
私が言うはずのセリフを、彼女が先に、しかも被害者ぶって叫んだのだ。
「おい、貴弘くん! どういうことだこれは!」
父が立ち上がり、私と美姫を交互に見比べる。
当然だ。
同じ顔をした娘が二人。しかも片方は小奇麗で、片方は薄汚れている。
貴弘が、わざとらしく溜息をついて立ち上がった。
「……お義父さん、すみません。実は、言い出しにくかったんですが」
貴弘は悲痛な面持ちで、私の方を指差した。
「最近、杏奈(コイツ)の精神状態がおかしくて……」
「は? 何言ってるの……!」
「自分は『本物の杏奈じゃない』とか、『ドッペルゲンガーがいる』とか、妄想を言うようになって……。今日は実家でゆっくり静養させようと思って連れてきたんですが、まさか、こんな風に錯乱して暴れるなんて」
貴弘は、美姫の肩を抱き寄せた。
「ほら、落ち着いて杏奈(ニセモノ)。俺がいるから大丈夫だ」
「うう……怖いよぉ、タカ君……あの人、私を殺そうとしてる目をしてる……」
完璧な演技だった。
夫と愛人が結託して、私を「頭のおかしい偽物」に仕立て上げている。
「違う! お父さん、騙されないで! 私が本物よ!」
私は父に縋り付こうとした。
しかし、父は私を避けるように後ずさり、美姫を庇った。
「近寄るな!」
父の怒鳴り声が響いた。
「お父さん……?」
「お前……なんて目をしてるんだ。娘は、そんな人を見下すような汚い目はしていない!」
父は、美姫の「怯えた可憐な目」と、私の「憎悪に満ちた目」を見比べて、美姫を選んだのだ。
皮肉にも、美姫は整形して「理想の杏奈」になりきっている。
一方、私は数日間の地獄で消耗し、髪も肌もボロボロで、鬼のような形相をしていた。
「お母さん……お母さんならわかるでしょ!?」
私は追ってきた母に助けを求めた。
母は、困惑した顔で二人を見比べている。
「私が……私が小学生の時にあげた肩たたき券、まだタンスに入ってるよね!? ピアノの発表会で間違えた曲、覚えてるよね!?」
私は必死に、私しか知らない記憶を叫んだ。
これで証明できるはずだ。
しかし。
「……そんな昔のこと、誰かに話したかもしれないじゃない」
美姫が、ボソリと言った。
「お母さん、この人、私の日記を盗んだのよ。私のストーカーなの。だから私の過去も全部知ってるの……!」
「盗んでない!」
「もういい加減にしてくれ!」
貴弘が私の腕を乱暴に掴んだ。
「お義父さん、お義母さん、すみません。この女は僕が連れ出します。……警察か、病院に突き出しますので」
「離して! 貴弘、あんた自分が何してるかわかってるの!?」
「うるさいんだよ、バケモノ」
貴弘は私の耳元で、誰にも聞こえない声で囁いた。
「(今の美姫ちゃんはさ、お義父さんにお小遣い50万渡したんだよ。お前、そんな甲斐性ないだろ? 親父さんたちがどっちの娘を欲しがるか、わかるよな?)」
絶望が、頭を殴った。
金だ。
顔だけじゃない。金と、愛嬌と、演技力。
美姫は、私が持っていないものを全て使って、私の家族を買収したのだ。
「嫌ぁぁぁぁっ!!」
私は泣き叫びながら、夫に引きずられて玄関から放り出された。
ドサッ。
冷たいコンクリートの上に転がる。
玄関のドアが、無情な音を立てて閉ざされた。
「……お願い、開けて……お父さん、お母さん……!」
ドアを叩く。
しかし、中からは楽しげな笑い声さえ聞こえてきた。
「まったく、変な女だったな」「杏奈が無事でよかったよ」「さあさあ、寿司が乾くぞ」
私の席はない。
私の帰る場所は、もうこの世のどこにもない。
私は膝を抱え、実家の前で声を殺して泣いた。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。
いっそ、このまま私が狂ってしまえば楽なのに。
スマホが震えた。
美姫からだ。
『お父さんの酌で飲むお酒、美味しい♡ ごちそうさま、元・杏奈ちゃん』
私はスマホを握りしめ、夜空を見上げた。
涙はもう枯れていた。
代わりに、ドス黒いマグマのような感情が、腹の底から湧き上がってくるのを感じた。
死なない。
こんなところで、野垂れ死んでたまるか。
私は立ち上がった。
私の顔をしたあの女と、私を売った夫。
あの悪魔たちを地獄に引きずり下ろすまでは、私は絶対に消えない。
地獄の底から、本当の「復讐」が始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます