【デスピサロ】世界は完全には救えない。「現実の縮図」としてのドラクエ4という物語
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
世界は完全には救えない。「現実の縮図」としてのドラクエ4という物語
●ファミコン版ドラクエ4という名作
ドラクエ4という作品は、時代を超えて語り継がれる名作として、多くのファンの記憶に刻まれています。なぜこの作品がこれほどまでに長く愛されるのか。その理由をたどっていくと、そこには単純な英雄譚では説明できない、深い感情構造と思想的な揺らぎが存在します。特にファミコン版ドラクエ4のエンディングが持つ「憂鬱さ」や「救われなさ」は、物語体験としては非常に珍しく、それこそがプレイヤーの心に残り続ける余韻を生み出しています。本稿では、主人公とデスピサロの関係性、被害者でもあるピサロを倒さざるを得なかった必然、そのなかに宿る倫理的矛盾、そしてプレイヤーが感じる後味の悪さと美しさを統合し、ドラクエ4が持つ物語的な深度を思想的な側面も含めて考察していきます。
●ファミコン版ドラクエ4の空気と世界観
ファミコン版ドラクエ4は、章構成という手法を用いて、多様な人間の人生を描き出しました。それぞれの章で描かれる世界の断片は、勇者が登場する第五章で束ねられ、物語が一つの目的へと集束していきます。この構造が生み出す「人生の多重性」は、当時としても新しく、まるで群像劇のような厚みを作品に与えました。そして、この世界の中心に存在するのが、魔族の王であるデスピサロです。彼は人間を憎み、世界を破壊しようとする存在でありながら、決して単純な悪ではありません。むしろ彼は、ロザリーという存在を失ったことによって狂気に堕ちた“悲劇の被害者”として描かれており、その層の厚さが物語に陰影を生んでいました。
ファミコン版が描いた世界はどこか冷たく、乾いており、プレイヤーに安心を与えるような優しい物語運びをしません。むしろ、世界のどこかに常に悲しみが漂い、救われない魂が放置されているような緊張感があります。この雰囲気自体が、作品全体を深く印象づけています。
●救われるはずだったピサロという存在
デスピサロは、単なる魔王ではありません。彼はロザリーという愛する者を奪われ、その喪失によって狂気へと堕ちた存在です。この設定は、プレイヤーに「本当は救えるはずだったのではないか」という仮想の可能性を生み出します。言い換えれば、彼は“本質的な悪”として生まれた者ではないということです。むしろ、「人間と共存し得た未来」「ロザリーと静かに生きていけた可能性」がどこかにあったはずで、そこに破壊的な悲劇が割り込んだことによって、世界がねじれてしまったのです。
そのため、勇者と仲間たちが彼を討つ行為は、必然でありながらも、どこか釈然としない感情をプレイヤーに残します。「彼は悪だから倒すべき」というほど軽い問題ではない。しかし、倒さなければ世界は滅びる。この矛盾がドラクエ4の物語に厚みを与え、単なる英雄譚とは違う“倫理的な揺れ”を生み出します。
ここには、「被害者であり加害者でもある存在を、正義の名の下に倒す」という構造があります。この構造は哲学的に言えば、正義の不完全性を露わにするものです。善と悪を明確に区別できない世界の複雑さを提示し、物語が提示する答えそのものを深く曖昧にしています。
●救えなかった主人公たちの無念
勇者と仲間たちにとって、デスピサロを倒すことは“正しい行い”であり、世界のために欠かせない行動です。しかし同時に、彼らは「救えなかった悔しさ」「もしかしたら違う道があったのではないか」という苦い思いを抱えたまま、生きていくことになります。
勇者は生まれたときから魔族に追われ、故郷を焼かれ、逃げるように生きざるを得ませんでした。その運命の果てに立ちはだかるのが、悲しみから狂った魔族の王という構造は、単純な“勧善懲悪の物語”ではありません。むしろそこには「歴史と世界が積み上げてきた因果の衝突」があり、勇者とピサロはその因果に押しつぶされるかのように、互いに倒し合うべくして倒し合います。
この「救えなかった」という無念さこそが、ドラクエ4の最も美しい部分だといえます。プレイヤーがエンディング後に静かに胸の奥を締めつけられる感覚。それは失敗の悔しさではなく、「別の未来がありえたはずなのに、それは永遠に失われた」という痛みであり、まさに文学的な余韻です。
●ファミコン版エンディングの憂鬱さが生む深度
ファミコン版のエンディングは、華やかな祝祭とは程遠い、静かで、苦味を含んだ幕切れでした。勇者は世界を救った。しかしその世界には、彼が救えなかった存在の影が落ちています。エンディングは確かに物語としては完結しているのに、どこか“終わっていない”感覚を与え、それが強烈な余韻となってプレイヤーに残ります。
あの後味の悪さは、ただ単に救われなかったからではありません。世界が完全には癒えていないまま、しかし人々は生き続けるという姿勢が描かれたからです。これは極めて現実的で、思想的には「不完全な世界でどう生きるか」というテーマに通じています。世界に残された矛盾や悲しみを抱えつつも、前へ進むしかないという姿勢が、物語に深いリアリティを与えているのです。
●善悪の境界が揺らぐ物語構造
ドラクエ4の本質は、善悪の境界線を曖昧にするところにあります。勇者は善を体現しますが、同時に「救済ではなく殺害によって世界を救う」という選択を取らざるを得ません。ピサロは悪として倒されますが、本来は愛と孤独に生きた存在でもありました。この二つの相反する性質を持つ人物同士が、歴史の必然によって衝突し、どちらも完全には救われない形で物語が終わる。ここに作品の思想的特徴があります。
現実の歴史においても、被害者であり加害者でもある存在は多く、その構造はしばしば悲劇を生みます。ドラクエ4は、この複雑な「現実の縮図」ともいえる構造を物語に取り込み、ゲームでありながらも深い社会的・哲学的意味を帯びることになりました。
●ドラクエ4が示した「世界は完全には救えない」という真実
ファミコン版ドラクエ4が名作である理由は、物語が投げかける問いの大きさにあります。
世界は救われた。しかし完全には救えなかった。
悪は倒された。しかし同時に哀しみも消えてはいない。
勇者は勝利した。しかし心の中には痛みが残る。
このように、作品は“完全な救済”を提示しません。これは思想的に見ると、「世界は常に矛盾したまま動き続ける」という現実を描いたものといえます。この未解決の感情は、作品が終わった後もプレイヤーの中で生き続け、物語そのものを深化させ続けます。多くの名作がそうであるように、ドラクエ4もまた「終わった後に成長していく作品」です。
●リメイク版における救済の違和感
リメイク版ドラクエ4では、ピサロが仲間になるという大きな変更が加えられました。これは確かに新しい物語の可能性を拓いたと言えますし、ピサロの悲劇に対する救済として機能する部分もあります。しかしファミコン版で築かれていた“憂鬱の美学”や“未解決の痛み”を前提にすると、この救済ルートは「別の作品」として扱うべきものだと考えた方が自然です。
なぜなら、リメイク版のピサロ加入は、物語が持っていた矛盾や痛み、倫理的な揺らぎを“解決しすぎてしまう”からです。ファミコン版の核心は「救えなかった痛み」にあり、それこそが作品の深度を作り出していました。しかしリメイク版では、その矛盾点が整理され、世界が丸く収まる方向へと導かれています。この構造は、作品としての方向性が根本から異なるため、もはや同じ物語として語るよりも、別の解釈世界として受け取った方が自然です。
●結びとして
ファミコン版ドラクエ4は、決して完全な幸福を描いた物語ではありません。そこには救えなかった存在がいて、救われなかった心があり、そしてプレイヤー自身もまた「もっとできたはずではないか」という痛みを感じながらゲームを終えることになります。
しかし、この未解決の感情こそが作品を永遠に深化させ、心の中で生き続けさせる原動力になります。ドラクエ4が名作であり続けるのは、勇者が勝利した瞬間に、世界の影としての哀しみが同時に示されるからです。
この二面性が、物語に深いリアリティと美しさを与えています。
そしてこの深さは、ピサロが仲間になるリメイク版の救済とは異なる文脈に属しており、むしろ“別の作品”として捉えることで、どちらの魅力も損なわずに味わうことができるのだと思います。
【デスピサロ】世界は完全には救えない。「現実の縮図」としてのドラクエ4という物語 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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